第二話 幼馴染の兄
玄関にあがるとすぐに台所、そこを過ぎるとリビングになっている。部屋の中はきちんと整頓されていて、女二人で住んでいる自分の部屋を思い出して恥ずかしくなるほどだ。
それにしても、男二人で暮らしているには狭すぎる一室。おそらく、広幸が暮らしていた一人暮らし用の部屋に、彼が『迎え』に行った弟が転がり込んだかたちになったのだろう。しかし、それから九年も立っている。その弟ももう十四だ。引っ越せばいいのに、と砺波はここに来るたびに思うのだった。
「ジャケット、預かるよ」
後ろからの声に、砺波は弾かれたように振り返った。
広幸はハンガーを片手に、もう一方の手をこちらに差し出していた。
相変わらず、気の回る人だ。
カインの少女たちは、皆、一度は広幸に憧れる——そう言われている。箕面のことがあって砺波はその例に漏れたが、そんな噂が流れる理由は感じていた。
カインの中でも特にしっかりしていて、物腰は柔らかく、面倒見もいい。その反面、『おつかい』の最中には、『無垢な殺し屋』として冷徹な姿を見せていたという。
藤本も彼を次期大黒柱に考えていたらしいのだが、ある事件をきっかけにそんな話はぱたりと消えた……。
「砺波?」
訝しそうな表情で促され、砺波は我に返ってジャケットを脱いで手渡した。
「相変わらず、薄着だね。風邪ひかない?」
砺波は「平気です」とむっとした表情で答えた。
襟が大きく開いたブラウスは、ようやくつくれるようになった胸の谷間を強調するため。わざと白い薄地のものを選んだのは、下に着ている黒のキャミソールが透けて見えるようにするため。——そんな砺波の精一杯の背伸びも、ただの『薄着』で済まされてしまう。やはり童顔のせいなのか、体調を心配されてしまうのだ。箕面が同じ格好をすれば、男は皆頬を赤らめて視線を泳がせることだろう。
不公平だ、と砺波は心の中で悪態づいた。
「って、そういえば……お姉ちゃんは?」
思い出したように姉の姿を捜すと、
「広幸も砺波ちゃんも、ゆっくりしててね!」
はりきった声が飛んで来た。
嫌な予感がして視線をやれば、台所で包丁を片手に腕をまくった箕面の姿が。
「お夕飯、私が作るから」
砺波は思わず頬をひきつらせた。
こうなることを予期しておくべきだった。
「ねえ、箕面お姉ちゃん。わたし、久々に広幸兄さんの料理食べたいんだけど」
やんわりとオブラートに包んでみた。その中には、『こんなところでも姉の薄味の料理を食べたくはない』という砺波の本心が詰まっている。
「嬉しいこと言ってくれるね」
ぽん、と頭を撫でられた。あ、と顔を上げると、広幸が穏やかな笑みをこちらに向けていた。
血はつながっていないはずなのに、その笑顔は彼の弟を思い起こさせる。砺波は恥ずかしくなってふいっと顔を背けた。
「夕飯は俺が作るよ、箕面。言っただろ。買い出ししてくれたお礼だ、て」
「そんなこといいんだってば。広幸は休んでて。ちょっと体調が良くなったからって油断しちゃだめなんだから」
一瞬、箕面の笑顔がひきつった。そんな姉の些細な変化を砺波は見逃さなかった。
そうだった、と砺波は気づいて、広幸の腕をくいっとひっぱる。
「箕面お姉ちゃんは、広幸兄さんに手料理食べさせたいんだよ」
だから、と広幸を引っぱり、砺波は無理矢理座らせた。
「その間、広幸兄さんはわたしのお守りね」
我ながら気持ち悪い、と思いつつも、砺波は無邪気に振る舞った。
広幸の『寿命』のことは知らないふりをした。
* * *
「砺波」
ローデスクに向かい合わせで座ってすぐのことだった。
「これ、砺波のだろ」そう言って渡して来たのは三枚の板チョコだった。「さっきの袋の中に入ってた」
砺波は「あ」と間の抜けた声を漏らし、慌てて板チョコを広幸の手から奪い取った。
台所に立つ姉をきっと睨みつける。箕面は幸せそうにトントンと包丁を鳴らしている。ハート形にもなっていないチョコを広幸に渡してしまったことなどつゆ知らず。
まさに、眼鏡のドジっ子。狙っているのだろうか。——カインでないときの箕面は、そう疑ってしまうほどの抜けっぷりだ。
「明日はバレンタインだもんな」
頬杖をつき、広幸は含みをもたせた言い方をした。
「こ、これは……」
楽しそうにチョコを買い物かごに入れていた姉の姿が脳裏をよぎった。こんな渡し方をしたかったわけではないはずだ。
どうにかごまかしてやらなくては、と思うものの、ここまであからさまでは……。眉間に皺をよせる砺波に、広幸はやんわりと笑んだ。
「和幸も喜ぶよ」
「は……」
一瞬、広幸が何を言い出したのか分からなかった。
「和幸にくれるんだろ?」
確信を持った言い方で広幸は訊ねてきた。
砺波は硬直してしまった。顔が熱くなっていくのを感じる。
和幸は広幸の弟で、砺波とは幼馴染の関係にある。といっても、小学校を卒業してからしばらく会っていなかった。つい先日、二年ぶりに再会したばかり。それからというもの、空白の時間を埋めるように、頻りに会うようになっていた。
近しい仲になってきたのは砺波も自覚していた。しかし、それ以上の関係を邪推する兄弟たちの視線は年頃の彼女にとっては不快なものでしかなかった。
「な……なんで、わたしが和幸にあげなきゃいけないんです!?」
気づけば、そんな言葉が飛び出していた。
ちょうど、フライパンの上で油が躍る音が聞こえて来たときだった。
「違うの?」
広幸は意外そうに目を丸くした。
「違います」正座をする膝の上でぐっと拳を握りしめた。「これはわたしが食べるんです」
苦しいごまかしだ。しかし、他に思いつく言い訳もない。
広幸はぽかんとしてから、「残念だ」と苦笑した。
「和幸は男子校だから、チョコなんてもらえるはずもない。でも、もしかしたら砺波が……なんて期待してたんだけど」
「なんでそんな期待……」
「さあ。どうしてだろうね」
広幸はわざとらしく惚けた。他意がありそうだ。
「何を言いたいんです?」
すると、広幸は嬉しそうに微笑んだ。調子が狂って砺波は視線を逸らす。
「ねえ、砺波」
急に広幸の声が低くなった。
真面目になった声色に、砺波は視線を戻す。
「俺が死にかけた話、聞いてる?」
思いっきり胸を叩かれたような衝撃を覚えた。呼吸が一瞬止まる。
その反応が答えになってしまった。
広幸は恥ずかしそうに苦笑して、窓のほうに目をやった。
「盗まれた子供を『迎え』に行ったときだった。ちょっとしたすきをつかれて、屋敷のガードマンに胸を撃たれた。もうダメだ、と思った」
砺波はうつむいた。
その話は確かに聞いたことがあった。カインなら誰もが耳にした話だ。あの広幸が初めて『おつかい』でミスをした。重傷を負って生死をさまよった、という。
しかし、その話にはある秘密が隠されていた。
砺波はちらりと広幸を視線だけで盗み見た。遠くを見つめる横顔は、切なそうだった。ミスを思い出して、反省している……そんな表情ではない。
『ちょっとしたすき』——そのとき何があったのか、砺波は知っていた。
「でも、奇跡的に俺は助かった。なんでだと思う?」
広幸の深みのある黒い瞳がこちらに戻ってきて、砺波は大仰にぎくりとしてしまった。
「な……なんでですか?」
ぎこちなく、砺波は聞き返した。
なんで死にかけることになったのかは知っている。だが、確かに、なぜ助かったのかは聞いたことがなかった。
「撃たれた胸をさぐってみると……そこにあったんだ」
もったいぶった言い方に、砺波は引き込まれていた。
気づけば、身を乗り出して広幸を食い入るように見つめていた。
広幸はたれ目を薄め、神妙な面持ちで言った。
「バレンタインにもらったチョコがね」
「は?」
「チョコが弾丸の軌道をそらして、心臓を守ってくれたんだ」
そんな奇想天外なことを満面の笑みで言ってのける広幸に、砺波はつっこむ気さえそがれた。「へえ、そうだったんですか」と嫌みったらしい棒読みの感想しか出てこなかった。
しかし、広幸は気にかける様子もない。
「どう?」と期待の眼差しで見つめてくる。「和幸にあげたくなった?」
「……」
それが目的だったのか、と砺波は呆れ返った。自分がひん死になったときの話をダシにしてまで、弟のチョコをねだるなんて。それにしても、せめてもう少しマシな嘘は無かったのだろうか。
「あ」と広幸が急にハッとした。「噂をすれば……」
なんだ? と思う間もなく、玄関のほうから扉を開ける音がした。
「おかえりなさい」
箕面の声が続いて、そして——。
「あれ。来てたんだ、箕面姉さん」
馴染みのある声が聞こえて来た。