第一話 姉の想い人
「じっと見つめてどうかしたの、砺波ちゃん?」
赤ぶちの眼鏡をくいっとあげながら、隣を歩く女性がのほほんとした笑顔を投げかけて来た。月明かりに照らされ、ウェーブがかった長い黒髪が艶々と光っている。
セーターに厚い生地のロングスカート。そしてブーツ。極力肌の露出を控えた奥ゆかしい装いだ。
ジャケットの下に薄手のブラウス、寒空にミニスカートの自分とは正反対。
「もっと女らしい格好すればいいのに」膨れっ面で砺波はぼやいた。「せっかく美人なのに、もったいないよ。箕面お姉ちゃん」
すると、箕面の端整な顔立ちがみるみるうちに羞恥に歪む。「や……」と真っ赤に染まった頬を両手でおさえた。
「やだ、砺波ちゃん!」
歩くのも忘れて、きゃーきゃー、と恥ずかしがる様子は、九つ上とは思えない。砺波と変わらない背丈のせいもあるだろうが、まるで女子高生である。
砺波は「もう」と腰に手をあてがって、姉をにんまりとした笑みで見つめた。
「お姉ちゃんって見るからに、いいとこのお嬢様、て感じでしょ。そういう人が色っぽい格好すると、男はそのギャップでころっといっちゃうんだから」
あ、と砺波は思いついたように大きな目を爛々と輝かせた。
「わたしの服、今度貸してあげる!」
「砺波ちゃんの服?」
箕面の顔がさらに赤く染まった。長い前髪を流してさらけ出しているおでこまでも真っ赤だ。
「無理です、無理です。砺波ちゃんの服って、まるで下着みたいで……」
「いいじゃない、お姉ちゃん。脱ぐといい身体してるんだから」
人の気配などないのに、箕面は慌てた様子で辺りを見回した。
「へ、変なこと言わないでください!」
砺波は呆れた様子でため息をついた。
「そんなんだから、いつまでたっても広幸さんと……」
砺波の言葉をかき消すように、閑静な住宅街に甲高い悲鳴が響き渡った。ツーンと耳鳴りがして、砺波はしかめっ面で耳をおさえた。
「もう、今更なに照れてるの? バレバレなんだから」
口をぱくぱくさせる箕面を放って、砺波はちらりと持っている袋を見やった。食材がつまったスーパーの袋だ。
「こんな口実までつくっちゃって」
ぽつりと漏らしながらも、砺波は頬を緩ませた。
童顔の自分と違って大人っぽく落ち着いた容姿のくせに、中身は純粋無垢な少女そのもの。普段は放っとくと迷子になりそうな危なっかしさがあるのに、ここぞというときには頼りになる。そんな姉を、砺波は妹としても女としても慕っていた。
教師にバレないように、とゆるくかけたウェーブもそんな憧れからだった。
* * *
「広幸!」
箕面はにこりと満面の笑みで、扉を開けた青年を迎えた。
「頼まれてたもの、買って来たよ」
「ありがとう、箕面」
扉を足で押さえながら、青年は箕面に手渡されたスーパーの袋を受け取った。
短い黒髪からのぞく大きな耳に、おっとりとしたたれ目。癒し系のお猿さん、と他の姉たちが揶揄するのも頷ける。箕面の隣で彼をまじまじと見つめながら、砺波は改めて思った。
そんな視線に気づいたのか、彼はこちらに微笑みかけてきた。
「砺波も来てくれたんだ。ありがとう」
「……いえ」
姉が惚れるのも分かる。——向けられた笑顔に、砺波は苦笑してしまった。邪気を全て吸い取られてしまうような、そんな優しさと慈愛に満ちた笑み。
砺波はちらりと姉の様子をうかがった。思った通り、今にもほわっと浮かんでいってしまいそうな間抜け面だ。
気持ちを隠す努力はしないのか。
まあ、幸せそうだからいいとしよう。砺波はそっとため息をついた。
「あがっていくだろ」
やんわりと投げかけられた言葉に、砺波はぎくっとした。
他人事のように構えていた心臓が急に慌ただしく騒ぎ始める。
「いいの? でも、体調は?」
断ろうとする姉を砺波は内心応援していた。
「今日は調子いいんだ。夕飯、食べていきなよ。食材買って来てもらったお礼」
「そんなこと気にしないで!」
必死に顔を左右に振ったせいで、眼鏡がずり落ちた。箕面はあわあわとしながら眼鏡をかけなおし、「でも、そうだね。うん……広幸の迷惑じゃないなら……」と期待に輝く瞳を泳がせる。
そりゃ、箕面にしてみれば思ってもいなかったチャンスだろう。こんなに優しく誘われて、心が傾かないわけもない。
しかし、こちらにとっては……。
砺波は焦った様子で箕面に振り返った。
「お姉ちゃん、わたしは先帰る——」
言いかけた砺波を、思わぬ言葉が遮った。
「ごめんね、砺波。残念ながら、和幸は今いないんだ」
「……」
一瞬、砺波は固まった。
先手を取られたような気分だった。
「べ……別に、どうでもいいし」
くすりと広幸は意味ありげな笑みを浮かべて、「どうぞ」とアパートの一室へ二人を促した。