彼女の選んだ情景
フィレアル城の朝は、鐘の音から始まる。
中庭に響くその音を合図に、兵舎では号令が飛び、厨房では火が入る。
城は、生き物のように目を覚ますのだ。
カルラは回廊の窓辺に立ち、その様子をぼんやりと眺めていた。
朝の光が、鈍色の長い髪を淡く照らし、窓硝子に映った青緑の瞳が、ゆっくりと瞬いた。
整然と並ぶ兵の動きも、石畳を渡る足音も、すべてが馴染み深い。
ここは、彼女の育った場所だった。
そして、しばらくして中庭へ降りると──
「ガルド、今朝も稽古おつかれさま」
中庭で休息をとる領主の嫡男──ガルドに声をかける。
「……また、無茶してる」
カルラは彼の腕に滲んだ赤い線を見つけ、眉をひそめた。
「大したことないって」
「昨日もそう言ってたでしょう」
ため息をつきながら、ハンカチを差し出す。
「ほら。ちゃんと押さえて」
「……姉さんみたいだな」
胸の奥が、嫌なほどはっきりと反応した。
「え?」
「いや、なんでもない」
一瞬だけ、視線が合う。
青緑の瞳が、逃げ場を探すように揺れた。
手当をした腕に、もう一度、指をそっと伸ばしかけた──
が、カルラは慌てて顔を逸らした。
「……ヴァルスなら、もっと上手に手当てすると思うわよ」
「あいつは手際よすぎて容赦がないんだよ」
笑い合うけれど、カルラの胸は少しだけ騒がしかった。
「……ガルド、もう休みか?」
騎士団長の息子──ヴァルスが中庭に現れた。
「お前の打ち込みに耐える身にもなってくれ」
ガルドは破顔するが、ヴァルスは表情を変えない。
「……お前も、もっと本気でこい。実際の相手は魔獣や『異形』どもだぞ。容赦などない」
そしてカルラに向き直る。
「……次は姉さんも見ててくれ」
再び剣がぶつかり合う音が、兵舎前の広場に響いた。
踏み込み、斬り返し、受け流し。
二人の動きは速く、もはや訓練というより、真剣勝負に近い。
「ちょ、ちょっと……!」
カルラが思わず声を上げた、その瞬間だった。
互いの剣が同時に弾かれ、勢い余った二人は、そのまま──
どさっ、と同時に尻もちをついた。
一拍の沈黙のあと。
「……はは」
先に吹き出したのはガルドだった。
「まさか、同時に転ぶとはな」
「間の抜けた事だ……」
そう言いながら、ヴァルスもわずかに口元を緩める。
「もう! 二人とも、やりすぎよ! いつもながら……」
カルラは呆れたように言いながらも、その表情は怒ってはいなかった。
「稽古なんだから、怪我したら意味ないでしょう」
「いや、今回は俺が踏み込みすぎた」
「……いや、俺の斬込みが遅れた」
「はいはい、どっちも悪い、でいいじゃない」
軽く言って、カルラはふうっと息をついた。
こんなやり取りも、もう何度目だろう。
それでも、不思議と飽きることはなかった。
ヴァルスが立ち上がり、ガルドに手を差し出す。
「……次は、休憩を挟んでからだ」
「賛成」
ガルドがその手を取り、立ち上がる。
その様子を見届けてから、カルラはふと思い出したように言った。
「あ、そうだ。私、これから子どもたちに読み書きを教える時間……」
「もうそんな時間か」
「ええ。最近、物語を読んでるのよ。みんな楽しみにしてるから、遅れたら大変」
そう言って、軽く両手を合わせる。
「二人とも、続きはほどほどにね」
「ほどほど、な」
ガルドが笑う。
「善処する」
ヴァルスは短く答えた。
カルラは一度だけ振り返り、二人を見た。
並んで立つその姿が、いつもの光景であることに、なぜか少しだけ胸が温かくなる。
「じゃあ、またね」
カルラが踵を返しかけた、その時だった。
「……姉さん」
ヴァルスが、珍しく声をかけた。
振り向くと、彼は少しだけ視線を伏せたまま言う。
「……今日は、稽古が長くなる」
それだけ告げて、少し間を置く。
「……でも気にせず、子どもたちの所に居てやってくれ。姉さんがいなくなると……あいつら、すぐ騒ぐから」
どこか気まずそうな声音だった。
「ありがとう。でも、あなたも無理しないで」
カルラがそう言うと、ヴァルスはわずかに眉を寄せる。
「……いつまでも、姉さんに気を遣わせるつもりはない」
少しだけ強がるような声音。
カルラは思わず微笑んだ。
「ええ、分かってるわ。でも、それでも……心配はするの」
ヴァルスは何も言わず、そっぽを向く。
子どもの頃から、ずっとこうだった。
怖がりなくせに、姉の前では強がって、それでも危ない時は必ず前に出ようとする。
彼が転べば手を引き、泣けば何も言わず隣に座り──それでも最後には「大丈夫だ」と言い張る。
その背中を、ずっと見てきた。
もし、自分が誰かの隣に立つようになったら──
この関係は、きっと変わってしまう。
ヴァルスが頼る相手は、自分ではなくなる。
そして自分もまた、彼を気遣う立場ではいられなくなる。
それが成長だと、分かっている。
分かっているからこそ、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「……ありがとう、ヴァルス」
そう言うと、彼は一瞬だけ戸惑ったように目を見開き、すぐに視線を逸らす。
「……別に」
短くそう言って、それきり口を閉ざした。
カルラはぎこちなく微笑み、回廊の方へと歩き出した。
背後で、再び剣の構え直す気配がする。
その音を聞きながら、カルラは静かに歩を進めた。
──この時間が、ずっと続けばいいのに。
理由もなく、そんな思いが胸をよぎった。
────
教室代わりの小広間には、すでに子どもたちの声が満ちていた。
「せんせー! 今日は続き読むんでしょ!」
「うん、ちゃんと持ってきたわ」
カルラが本を掲げると、歓声が上がる。
床に並んで座る子どもたちの目は、期待で輝いていた。
読み終えると、物語の感想が一斉に飛んできた。
「その二人、最後どうなるの?」
「結婚するんだよね!」
「ねえ、せんせいはけっこんしないの?」
「結婚したら先生じゃなくなっちゃう……?」
思わず、言葉に詰まる。
「……私は、今のままで十分よ」
そう答えると、子どもたちは納得したように頷いた。
「先生はここにいてくれるよね!」
「……うん、ずっと!」
その言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。
その無邪気な声に、胸の奥が少しだけ締めつけられる。
────
授業が終わり、子どもたちを送り出したあと、
カルラは自室へ戻った。
机の引き出しを開けると、そこには折りたたまれた紙が一枚、残っていた。
昨晩、何度も書き直した手紙。
たった数行の言葉なのに、どうしても渡せなかった。
椅子に腰かけ、紙を広げる。
そこには、名前が書いてあった。
──ガルド。
想いを綴った文字。
指先でなぞった瞬間、昼間の子どもの声がよみがえる。
「先生はここにいてくれるよね!」
そして、並んで剣を振る二人の姿。
自分が何を望んでいるのか、わからないふりをしてきたわけじゃない。
ただ、それを口にした瞬間、何かが壊れてしまう気がしていた。
ゆっくりと、紙を折りたたむ。
そのまま暖炉の前へ行き、火を起こした。
一瞬、迷ってから──紙を、炎にくべる。
縁が黒く縮み、文字が滲み、やがて形を失っていく。
カルラは、最後まで目を逸らさなかった。
「……これで、いいの」
誰にともなく、そう呟く。
炎が小さく揺れ、紙の端が灰になって崩れ落ちる。
その様子を見つめながら、カルラはそっと指を握りしめた。
胸の奥に、何かが沈んでいく感覚があった。
悲しみとも後悔とも違う、静かな重さ。
それでも、不思議と涙は出なかった。
自分で選んだのだと、分かっていたから。
窓の外から、遠く剣の打ち合う音がかすかに届く。
風に運ばれてくる金属音に、思わず耳を澄ませる。
あの二人は、きっと今も並んで立っている。
何も疑わず、ただ前を向いて。
それを、羨ましいと思ってはいけないのだと、自分に言い聞かせた。
自分には自分の場所がある。
守るべき日常がある。
それは、誰かの隣に立つことではなく。
誰かを待つことでもなく。
明日も、子どもたちが本を待っている。
泣き虫の子も、いたずら好きの子も、皆が同じ顔で名前を呼ぶ。
「先生」と。
それが、今の自分のすべてだった。
それだけで、十分なのだと、自分に言い聞かせる。
カルラは灰になった紙を火箸で寄せ、完全に燃え尽きるのを確かめる。
そして、机の上に置かれた本を手に取った。
今日、子どもたちが続きをせがんだ物語。
頁をめくると、さっきまで声に出して読んでいた文章の続きが、そのまま目に入る。
──二人は、それぞれの道を歩むことを選んだ。
それでも、同じ空の下で生きていると信じて。
カルラは、その一文で頁を止めた。
それが、どこか他人事には思えなかった。
小さく息を吸い、胸の奥に落とした。
「……私は、大丈夫」
誰に聞かせるでもない言葉。
それでも、胸の奥で何かが、ほんの少しだけ落ち着いた気がした。
その夜、回廊の窓から見える兵舎では、まだ灯りが残っていた。
きっと、二人はまだ稽古をしているのだろう。
ガルドの笑い声が聞こえた気がして、すぐに首を振った。
見上げると、双子の月。
いつもと変わらない光を放っている。
ただ、その光を見つめた。
明日も、いつも通りに笑おう。
それが一番いいと、彼女は思った。
──それが、彼女が選んだ、最初の〝捨てる〟という選択だった。
お読みいただき、誠にありがとうございました。
もしお気に召しましたら、評価・ご感想などお待ちしております。
また、こちらは長編『ヘルドゥラの神々:漆黒の女王』のスピンオフでもあります。
世界観など気に入ってくださるようでしたら、ぜひ長編本編や、他の短編も覗いてみてくださいませ。




