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『ヘルドゥラの神々:漆黒の女王』短編集

彼女の選んだ情景

作者: 渡弥和志
掲載日:2026/01/21

 フィレアル城の朝は、鐘の音から始まる。


 中庭に響くその音を合図に、兵舎では号令が飛び、厨房では火が入る。

 城は、生き物のように目を覚ますのだ。


 カルラは回廊の窓辺に立ち、その様子をぼんやりと眺めていた。

 朝の光が、鈍色の長い髪を淡く照らし、窓硝子に映った青緑の瞳が、ゆっくりと瞬いた。

 整然と並ぶ兵の動きも、石畳を渡る足音も、すべてが馴染み深い。


 ここは、彼女の育った場所だった。


 そして、しばらくして中庭へ降りると──


「ガルド、今朝も稽古おつかれさま」


 中庭で休息をとる領主の嫡男──ガルドに声をかける。


「……また、無茶してる」


 カルラは彼の腕に滲んだ赤い線を見つけ、眉をひそめた。


「大したことないって」


「昨日もそう言ってたでしょう」


 ため息をつきながら、ハンカチを差し出す。


「ほら。ちゃんと押さえて」


「……姉さんみたいだな」


 胸の奥が、嫌なほどはっきりと反応した。


「え?」


「いや、なんでもない」


 一瞬だけ、視線が合う。

 青緑の瞳が、逃げ場を探すように揺れた。

 手当をした腕に、もう一度、指をそっと伸ばしかけた──

 が、カルラは慌てて顔を逸らした。


「……ヴァルスなら、もっと上手に手当てすると思うわよ」


「あいつは手際よすぎて容赦がないんだよ」


 笑い合うけれど、カルラの胸は少しだけ騒がしかった。


「……ガルド、もう休みか?」


 騎士団長の息子──ヴァルスが中庭に現れた。


「お前の打ち込みに耐える身にもなってくれ」


 ガルドは破顔するが、ヴァルスは表情を変えない。


「……お前も、もっと本気でこい。実際の相手は魔獣や『異形』どもだぞ。容赦などない」


 そしてカルラに向き直る。


「……次は姉さんも見ててくれ」



 再び剣がぶつかり合う音が、兵舎前の広場に響いた。

 踏み込み、斬り返し、受け流し。

 二人の動きは速く、もはや訓練というより、真剣勝負に近い。


「ちょ、ちょっと……!」


 カルラが思わず声を上げた、その瞬間だった。


 互いの剣が同時に弾かれ、勢い余った二人は、そのまま──

 どさっ、と同時に尻もちをついた。


 一拍の沈黙のあと。


「……はは」


 先に吹き出したのはガルドだった。


「まさか、同時に転ぶとはな」


「間の抜けた事だ……」


 そう言いながら、ヴァルスもわずかに口元を緩める。


「もう! 二人とも、やりすぎよ! いつもながら……」


 カルラは呆れたように言いながらも、その表情は怒ってはいなかった。


「稽古なんだから、怪我したら意味ないでしょう」


「いや、今回は俺が踏み込みすぎた」


「……いや、俺の斬込みが遅れた」


「はいはい、どっちも悪い、でいいじゃない」


 軽く言って、カルラはふうっと息をついた。

 こんなやり取りも、もう何度目だろう。

 それでも、不思議と飽きることはなかった。


 ヴァルスが立ち上がり、ガルドに手を差し出す。


「……次は、休憩を挟んでからだ」


「賛成」


 ガルドがその手を取り、立ち上がる。


 その様子を見届けてから、カルラはふと思い出したように言った。


「あ、そうだ。私、これから子どもたちに読み書きを教える時間……」


「もうそんな時間か」


「ええ。最近、物語を読んでるのよ。みんな楽しみにしてるから、遅れたら大変」


 そう言って、軽く両手を合わせる。


「二人とも、続きはほどほどにね」


「ほどほど、な」


 ガルドが笑う。


「善処する」


 ヴァルスは短く答えた。


 カルラは一度だけ振り返り、二人を見た。

 並んで立つその姿が、いつもの光景であることに、なぜか少しだけ胸が温かくなる。


「じゃあ、またね」


 カルラが踵を返しかけた、その時だった。


「……姉さん」


 ヴァルスが、珍しく声をかけた。

 振り向くと、彼は少しだけ視線を伏せたまま言う。


「……今日は、稽古が長くなる」


 それだけ告げて、少し間を置く。


「……でも気にせず、子どもたちの所に居てやってくれ。姉さんがいなくなると……あいつら、すぐ騒ぐから」


 どこか気まずそうな声音だった。


「ありがとう。でも、あなたも無理しないで」


 カルラがそう言うと、ヴァルスはわずかに眉を寄せる。


「……いつまでも、姉さんに気を遣わせるつもりはない」


 少しだけ強がるような声音。

 カルラは思わず微笑んだ。


「ええ、分かってるわ。でも、それでも……心配はするの」


 ヴァルスは何も言わず、そっぽを向く。


 子どもの頃から、ずっとこうだった。

 怖がりなくせに、姉の前では強がって、それでも危ない時は必ず前に出ようとする。


 彼が転べば手を引き、泣けば何も言わず隣に座り──それでも最後には「大丈夫だ」と言い張る。


 その背中を、ずっと見てきた。

 もし、自分が誰かの隣に立つようになったら──

 この関係は、きっと変わってしまう。


 ヴァルスが頼る相手は、自分ではなくなる。

 そして自分もまた、彼を気遣う立場ではいられなくなる。


 それが成長だと、分かっている。

 分かっているからこそ、胸の奥が少しだけ痛んだ。


「……ありがとう、ヴァルス」


 そう言うと、彼は一瞬だけ戸惑ったように目を見開き、すぐに視線を逸らす。


「……別に」


 短くそう言って、それきり口を閉ざした。



 カルラはぎこちなく微笑み、回廊の方へと歩き出した。

 背後で、再び剣の構え直す気配がする。

 その音を聞きながら、カルラは静かに歩を進めた。


 ──この時間が、ずっと続けばいいのに。

 理由もなく、そんな思いが胸をよぎった。



 ────



 教室代わりの小広間には、すでに子どもたちの声が満ちていた。


「せんせー! 今日は続き読むんでしょ!」


「うん、ちゃんと持ってきたわ」


 カルラが本を掲げると、歓声が上がる。

 床に並んで座る子どもたちの目は、期待で輝いていた。


 読み終えると、物語の感想が一斉に飛んできた。


「その二人、最後どうなるの?」


「結婚するんだよね!」


「ねえ、せんせいはけっこんしないの?」


「結婚したら先生じゃなくなっちゃう……?」


 思わず、言葉に詰まる。


「……私は、今のままで十分よ」


 そう答えると、子どもたちは納得したように頷いた。


「先生はここにいてくれるよね!」


「……うん、ずっと!」


 その言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。


 その無邪気な声に、胸の奥が少しだけ締めつけられる。



 ────



 授業が終わり、子どもたちを送り出したあと、

 カルラは自室へ戻った。


 机の引き出しを開けると、そこには折りたたまれた紙が一枚、残っていた。


 昨晩、何度も書き直した手紙。


 たった数行の言葉なのに、どうしても渡せなかった。


 椅子に腰かけ、紙を広げる。


 そこには、名前が書いてあった。


 ──ガルド。


 想いを綴った文字。


 指先でなぞった瞬間、昼間の子どもの声がよみがえる。


「先生はここにいてくれるよね!」


 そして、並んで剣を振る二人の姿。


 自分が何を望んでいるのか、わからないふりをしてきたわけじゃない。

 ただ、それを口にした瞬間、何かが壊れてしまう気がしていた。


 ゆっくりと、紙を折りたたむ。


 そのまま暖炉の前へ行き、火を起こした。


 一瞬、迷ってから──紙を、炎にくべる。


 縁が黒く縮み、文字が滲み、やがて形を失っていく。


 カルラは、最後まで目を逸らさなかった。


「……これで、いいの」


 誰にともなく、そう呟く。


 炎が小さく揺れ、紙の端が灰になって崩れ落ちる。

 その様子を見つめながら、カルラはそっと指を握りしめた。


 胸の奥に、何かが沈んでいく感覚があった。

 悲しみとも後悔とも違う、静かな重さ。


 それでも、不思議と涙は出なかった。

 自分で選んだのだと、分かっていたから。


 窓の外から、遠く剣の打ち合う音がかすかに届く。

 風に運ばれてくる金属音に、思わず耳を澄ませる。


 あの二人は、きっと今も並んで立っている。

 何も疑わず、ただ前を向いて。

 それを、羨ましいと思ってはいけないのだと、自分に言い聞かせた。


 自分には自分の場所がある。

 守るべき日常がある。


 それは、誰かの隣に立つことではなく。

 誰かを待つことでもなく。


 明日も、子どもたちが本を待っている。

 泣き虫の子も、いたずら好きの子も、皆が同じ顔で名前を呼ぶ。


 「先生」と。

 それが、今の自分のすべてだった。


 それだけで、十分なのだと、自分に言い聞かせる。


 カルラは灰になった紙を火箸で寄せ、完全に燃え尽きるのを確かめる。


 そして、机の上に置かれた本を手に取った。

 今日、子どもたちが続きをせがんだ物語。

 頁をめくると、さっきまで声に出して読んでいた文章の続きが、そのまま目に入る。


 ──二人は、それぞれの道を歩むことを選んだ。

 それでも、同じ空の下で生きていると信じて。


 カルラは、その一文で頁を止めた。

 それが、どこか他人事には思えなかった。

 小さく息を吸い、胸の奥に落とした。


「……私は、大丈夫」


 誰に聞かせるでもない言葉。

 それでも、胸の奥で何かが、ほんの少しだけ落ち着いた気がした。



 その夜、回廊の窓から見える兵舎では、まだ灯りが残っていた。

 きっと、二人はまだ稽古をしているのだろう。


 ガルドの笑い声が聞こえた気がして、すぐに首を振った。


 見上げると、双子の月。

 いつもと変わらない光を放っている。

 ただ、その光を見つめた。


 明日も、いつも通りに笑おう。

 それが一番いいと、彼女は思った。


 ──それが、彼女が選んだ、最初の〝捨てる〟という選択だった。


お読みいただき、誠にありがとうございました。

もしお気に召しましたら、評価・ご感想などお待ちしております。


また、こちらは長編『ヘルドゥラの神々:漆黒の女王』のスピンオフでもあります。

世界観など気に入ってくださるようでしたら、ぜひ長編本編や、他の短編も覗いてみてくださいませ。

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