3-2
「・・・やはり参加しないわけにはいかないな」
この大きな屋敷の分厚い壁すら、貫通して聞こえてくる豪雨に辟易しながら、私は外出する準備を進める。
昨夜、私の秘密を親友のマリアに打ち明けたときには、まるで心の靄が晴れたような気さえしたのだが、それが幻想だったかのように、私の心には再び暗い影が落ちていた。
「デュラン様」
「・・・なんだ」
今や広大といって差し支えないほどの大きさを誇る私の寝室。
寝具の側に据え置きの鏡を前に、支度をしていた私に、扉越しに声を掛けてくる男の声。
それに対して、私は苛立ちを隠さずに返答する。
「馬車の準備が出来ております。外でお待ちしておりますので、支度が出来ましたらお越しください」
「・・・わかった」
私がそう言うと、男の足音は扉から遠ざかる。
そして再び、雨と自らの衣擦れが生じさせる音だけが、聞こえる全てになったこの空間で、私は苦笑し、呟いた。
「子供の頃の私が、今の私を見たら何と言うだろうな・・・」
当時は、生きることに必死だった。
口に含み、咀嚼して、余程な味がした物以外は全て嚥下していたあの頃。
いつか、3食滞りなく、ちゃんとした食べ物を口にしたいと思っていたあの頃。
あばら屋に帰り、酔い潰れた父に、「酒が足りん!」と腹を立てられ、折檻を食らっていたあの頃。
何時の自分を振り返っても、ここまでの生活は夢想すらしていなかった。
王都でも指折りの広さの豪邸に、十分飲用に足るほど綺麗で清潔な水が滞りなく放出する噴水。
両手両足の指では足りないほどの使用人が、常に我が家を徹底して管理するため、ここには埃の1つさえ無い。
そして・・・公の場所へ出向く際は馬車ときたものだ。
子供の頃の私にとっては、馬とはご馳走・・・すなわち食い物でしか無かった。
そんな獣に、まさか自らが乗る籠を引かれて移動する日が来ようとは・・・。
あの頃、望んでいたもの、いや、それを遙かに凌駕するものを、今の私は手に入れたのだ。
だが不思議なことに、最近の私は、この状態を幸福だと感じるどころか、むしろ焦りにも似た不安を抱くようにさえなっていた。
金は勿論、地位や権力と言われるものも、一個人の身には有り余るほど持ち合わせ、最早、何をするのも思いのまま・・・なはずだ。
だが不思議なことに、何故かそんな私よりも、何も持たず、そこらを歩いている一般人の方が、遙かに幸せそうに見えてしまうのだ。
だから私はずっと困り、そして半ば諦めていた。
きっと彼等を幸福にしているその『何か』は、幾ら金を積んでも手に入る物ではなく、そして、それを手に入れる機会が、私なんかに訪れることは無いと思っていたからだ。
そう、あの時、彼に出会うまでは・・・。
それは本当に唐突で、衝撃的だった。
どれくらい衝撃的だったかというと、以前、『サンダードラゴン』と言うモンスターに不意を突かれ、死角から放たれた雷撃を身体に受けたことがあったが、そんなときすら、ほんの数秒、気を失った程度で済んだこの私が、彼とすれ違い、その姿をふと目にした瞬間に、数十秒・・・もしかしたら1分近く放心してしまったほどだ。
日々、未開のダンジョンを行き来する私が、これだけ長時間の間、隙だらけの状態を晒したことなど、後にも先にも私の記憶には無かった
そんな自分を、ほんの一瞬で陶然とさせた彼・・・トールは、その表情にまだ幾らか幼さを残す少年で、着用している装備や、佩いていた短剣は、彼の冒険者の技量が、まだ拙く・・・質素な生活をしていることが、直ぐに分かった。
その姿は、まるで遠い昔の私・・・こんな自分を辞めたいと思っていたときの私の姿とひどく重なった。
本来なら嫌悪の対象として見てしまってもおかしくはないと思わせる少年・・・。
しかし私は、そんな彼に惹かれたのだ。
最初は、何故よりによって彼なのか、自分でも理由が分からず、困惑するばかりだった。
しかし、彼の動向を追い、素性を知っていくにつれて、きっとこうなのであろう・・・とある程度自らを納得させられる理由は思いついた。
きっと、私は彼に憧れているのだ。
傍目から見れば、おかしなことだろうと思う。
何もかもを持っているのは私・・・そして持ってないのは彼の方だ。
逆なら成り立つかもしれないが、こちらが成り立つ道理が無い。
だが、それでも私が彼に憧れる理由・・・それは彼が過去の私と同じような境遇にいながらも、周囲の人間をおもんばかり、手助けをし、幸せを分け与えながら、自らもまた幸せを感じているように思えたからだ。
そして、私はそんな彼と一緒にいたいと思ったのだ。
しかし・・・。
「そんな私達が、今からやろうとしていることは、正に鬼畜の所業だな」
あんなことをしようと企む権力者達。
その一角に名を連ねる自分が彼と恋仲になりたいなどと、一体どの口で言えようか・・・。
「デュラン様、お時間です」
施行に集中するあまり、時間を失念していた私を、また先ほどの男が呼びに来る。
「今行く」
私は自らの両頬に活を入れると、自室の扉を開け、歩を進めた。
気は進まない。
だが、一度振った賽を止めることの難しさは十分知っているつもりだ。
私は外で待っていた馬車に腰を下ろすと、御者に合図を送った。
「城に行くのがここまで億劫なのは初めてだ」
飴の中でも、普段と変わらぬ速度で掛ける馬車。
その終点は王城・・・王が住まい、邪な権力が蔓延る魔の巣窟だった。




