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ホラー作品

月下の庭

作者: mizuki.r

 貴重な休日なのに、目覚めたときには、もうあたりは暗くなっていた。

 一度、昼近くに起きて、買い置きしてあったインスタント食品で食事をとったあと、一休みをして動き出すつもりがそのまままた眠ってしまっていたらしい。

 薄闇にぼんやりと散らかった狭い部屋が見えている。

 額に滲む汗をぬぐった。

 目が覚めたのは暑苦しかったからかもしれない。締め切った部屋はラーメンの匂いを残したままムッとしている。

 体が重いのは目が覚めたばかりだからか、それとも疲れが取れていないのか、そもそも体が重く衰えているのか。それもよく分からない。

 よろよろと立ち上がって窓を開けた。

 思いがけない涼やかな空気が顔をなでていく。

 二階の窓から見下ろした先には緑が広がっていた。

 和風の庭園だ。

 ゆるやかな起伏の中に小径がつくられ、その周囲には草花や低木が植えられている。その道を行くと奥の方には池があって、流れ込んでいるのか、流れ出ているのか、小川も繋がっているようだ。そしてその周囲には庭を守るように自然のままに残されたような林が広がっている。

 目の前の景色に違和感を覚えた。

 この窓の向こうには、狭いスペースがあるだけで、すぐに隣のアパートが建っているはずなのだ。 

 スマートフォンの着信音が鳴った。

 緊急の用事という可能性も無くはないので、仕方なくロックを解除して画面を覗き込む。

 古い知り合いとのグルーブラインに、旅行の写真がアップされているだけだった。適当に「いいね」のスタンプを送る。

 それですむのだから、実家からの連絡よりはいい。

 いつからだろう。家族からの連絡を煩わしく思うようになったのは。いや、もしかすると最初からそうだったのかもしれない。ただ、気がついていなかっただけで。

 急に不安になって、視線を窓の外に戻す。

 景色は庭のまま。変っていなかった。

 そのことになぜかホッとする。

 見下ろせば、こちらのアパートとの境は生け垣になっていて、枝折戸がついている。そこから庭に入って行けるようだ。

 行ってみようか。思ったけれど、踏ん切りがつかない。目を離している間に庭が消えてしまいそうな気がして。

 空を見れば丸い月が上りかけている。

 今日は満月だったっけ?

 分からない。

 月なんてもうずいぶん見ていなかった。

 薄い雲が流れてきて月にかかった。庭が翳る。

 その影の中、なぜかいつもの隣のアパートが浮かび上がってくる気配がする。

 どうしよう、庭が消えてしまう!

 その認識は、思いもよらないほど強烈な恐怖を伴った。

 しかし立ちすくみ動けずにいるうちに、雲は月を通り過ぎ、庭は再びくっきりと月明かりに浮かび上がる。

 硬直が解け、次の瞬間、足が動いていた。

 洗いざらしたTシャツのまま、くたびれたジャージのまま、玄関先のサンダルをひっかけて外へ飛び出し、外階段を駆け下りる。

 そこから塀と建物の間に分け入り、無造作に生い茂る藪からしやシダを踏みしだいて裏手に向かう。

 裏手にはあるのはブロック塀ではなく先ほど見た生垣と枝折戸。庭はその向こう側だ。

 枝折戸にとりつく。閂はするりと滑り、あっさりと庭へと飛び込むことができた。

 確かに、上から見たものと同じ。和風の庭園だ。

 そこに今、立っている。

 膝に手をついて、たったこれだけのことで、もう荒くなっていた息を整える。

 それから通り過ぎてきた戸を閉めて、ゆっくり辺りを見回した。

 町中にあるはずのない雑木林に取り囲まれた中、小さな池と小山とが設えられていて、先ほどは気が付かなかった木陰には古い和風の建物が建っている。

 人の気配は無さそうだ。

 小さく唾を飲み込んで、小道に沿って歩き出す。

 見たことのないはずなのに、なぜか懐かしい庭だった。

 映画の中に出てきたような。

 観光で訪れた地方の名勝地のような。

 幼い頃、近所にあった、延々と続く塀の向こうにあるのを想像したような。

 ただ、木も草も見たことはあるような気がするものばかりなのに、名は知らない。

 建物を隠す大木たちも、庭を飾るように配置される様々な低木や下草も、可憐な花を咲かせる草々も、そのほとんどを知らないのだ。

 そのことにひどく気後れがした。自分はこの場には相応しくないのだと。

 風が吹き過ぎて行く、いつもの埃臭い湿った風ではない。さっき窓を開けたときに感じたあのひんやりと冷たい、かすかに草と土の香りを含んだ風だ。

 枝がそよぎ、葉がこすれ合う音がする。

 大きく息をすると、体中が冷えた空気に満たされて、ここに居てはいけないと感じた思いが薄れていった。

 名も知らない草木が静かな秩序を持って整えられた庭の中、露を含んだ草にサンダルも素足も濡らしながら、奥へと進んでいく。

 時折、知っている植物がある。

 小径の脇に咲いている白と紫の花はたぶん桔梗。

 その先の小藪にあるのは紫陽花。でも、よく見かける華やかなフリルのついたピンクや水色のものではなく、中央の深い紫の細かな花をほの白いガクが縁取っている。少し朽ちたような風情はそろそろ花の終わりなのだろう。

 足元の白く染まった葉は。そう、半夏生。こちらはまだ花穂がきつく閉じたまま。まだ夏至には少し早い。

 それから……。

 池の向こう側は竹林になっていた。しかし、その竹は色を変じ朽ちかけている。近くによると、変色し倒れそうになった竹のところどころに稲穂のようなものが見える。

「そろそろ新しい命が必要な頃合いなのです」

 なぜか驚きを感じなかった。染み入るような静かな声。

 振り向けば、和装の老婦人がすぐそこに立っていた。淡い色合いの薄物の着物を纏い、白くなった髪を襟足で綺麗にまとめている。

 その時、いきなり当たり前の感覚が戻って来た。

「すみません! 勝手に入ってしまって」

 婦人は口元を緩めた。

「お気になさらず。入れたのなら招かれたのですから」

 その声音に焦りかけていたものが鎮まっていく。

「お客様にお茶を差し上げましょう」

 婦人は促すように視線を建物の方に向け、歩き出す。

 美しい背中だ。こんな風に老いていきたいと望んだ、その理想に近い姿が滑るように庭を行く。

 そのあとをふらふらとついて行った。 

 婦人は、建物の濡れ縁へと招いた。

 そして、そこで少し待つように言って、奥へと入っていく。

 縁側に座っていると、池とその向こうの小山が煌々とした満月の光に映えていた。

 ここは夢の中だ。決してありえない。美しい夢。

 現実には、この場所には四世帯の家族が暮らすアパートがあり子どもたちの声が響いている。そして辺りは月明かりではなく街路灯で明るく……

 嫌なことを振り払うように首を振った。

 いやいい。どうせこれは夢。ならば今そんなことを考えても意味は無い。

 ただ耽溺すればいいだけ。

 けれど一度我に返ってしまうと、いつこの夢から覚めなければいけないのかその不安に心が騒めく。

 夢は醒めるものなのだから。

「どうされました」

 婦人が盆を持って現れた。そして、すぐ横に座る。

 おかれた盆の上には、汗をかいたグラスが一つ。月の光に似た液体を湛えている。 

「黄泉戸喫をご存知ですか?」

 音だけでは、その言葉が頭に浮かばなかった。

「ではペルセポネの逸話は?」

 差し出された茶と婦人の表情を見比べて一つの答えに辿り着く。

「冥界の食べ物を口にすると帰れなくなるというあれですか」

 婦人はゆったりと微笑む。

 つまり、これを飲めば……。でも。

「なぜ」

「なぜ、とは?」

 その問いに婦人は小さく首を傾げた。無邪気でひどく可愛らしく見える。

「聞けばためらうかもしれないではありませんか」

「あらあら」

 婦人は、小さな声を立てて笑う。

「躊躇う者など、相応しく無いではありませんか」

 ああ、たしかに。そんなものを招き入れてはこの庭の静謐は保ちえない。だが、望んだとしても相応しくないものはいるのではないか。

「わたしは」

 声が震える。

「あなたはここにおいでになる。それが全てです」

 婦人はすっとグラスを差し出した。

 目が合う。その眼差しはただ静かだった。

 グラスを取ろうと伸ばした手が震える。こぼしてしまいそうで不安だったが、持ち上げたグラスは奇妙に軽かった。

 中には入っているのは緑茶だろうか、はっきりは分からないが澄んでいることは分かる。

 心が望むままに一気に飲み干した。

 それは、喉から滑り込んで、体の隅々にまで染みわたり、全身の細胞に至るまでを庭と同じ何かへと染め上げていく。

 庭となった体は、大気と溶け合い、拡散していく。

 吹きすぎる風になり、風にそよぐ木の葉になり、その木の葉を支える木立になり、その木立を育む土となり、その土を潤す水となる。

 庭の全てに広がって、そして老婦人として自分を見る。

 女はひどく穏やかな顔をして、風に散り薄れていった。

 費やされた存在に、半夏生はより白く己を飾り、藪の中の萩の枝の奥に秋に向けて蕾が蓄えられ、枯れた竹林の土の下で竹の根が次の命を育む。

 月の下で庭はより一層に生き生きとした姿を取り戻していく。


 枝折戸は、次の時まで再び固く閉ざされた。




終わり


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