9.月影の雫、騎士の片鱗
リオの悲痛な声が、私の胸に重く響いた。「月雫草」。それが、毒に侵された若者たちを救う唯一の希望。しかし、その生育場所は足場の悪い崖の上だという。リオの焦燥と、私に危険を冒させたくないという葛藤が、彼の表情から痛いほど伝わってきた。
「私が行きます!」
そう宣言したものの、内心は不安でいっぱいだった。体力には少し自信がついたとはいえ、崖登りの経験などない。しかし、この村に来て初めて、私の力が直接的に人命を救えるかもしれないのだ。その可能性を前に、尻込みしている場合ではなかった。
リオを説得し、私は一人、村の外れへと足を速めた。目指すは、アシュレイ・フォン・シルヴァリオ。私の不本意ながらも最強(?)の護衛。
大木の根元に佇む彼の姿は、今日も変わらず冷厳だった。近づく私の気配に気づいているだろうに、彼は微動だにしない。
「アシュレイさん」
声をかけると、ようやく彼はゆっくりとこちらに顔を向けた。アイスブルーの瞳が、私を射抜く。
「……なんだ、騒々しい」
「お願いがあります。村の若者たちが毒に侵されていて、その解毒に必要な薬草を採りに行きたいんです。場所は、村の北にある崖の上……危険な場所だと聞いています。どうか、護衛をお願いできませんか」
単刀直入に、しかし必死の思いで訴えかける。彼が「契約外だ」と一蹴する可能性も覚悟の上だった。
アシュレイは、しばらく無言で私を見つめていた。その沈黙が、私の心臓を締め付ける。
やがて、彼は短く息を吐いた。
「……フン。貴様の護衛は我の契約だ。貴様が危険な場所へ行くというのなら、同行するのは当然のこと」
「え……!?」
予想外にあっさりとした承諾に、私は思わず間の抜けた声を上げてしまった。もっと渋られるか、あるいは皮肉の一つや二つ言われると思っていたのに。
「だが、勘違いするな。村の者のためではない。あくまで、貴様の命が危険に晒されるのを防ぐためだ。足手まといになるようなら、その場で置き去りにする」
相変わらずの言い草だが、それでも彼が来てくれるという事実に、安堵感が全身を包んだ。
「ありがとうございます、アシュレイさん!」
「礼は不要だ。さっさと案内しろ。時間の無駄だ」
彼はそう言うと、すたすたと歩き始めた。私は慌ててその後を追う。
リオから聞いた崖の場所は、村から森を抜け、さらに岩場を登った先にあるという。道中は、以前森を歩いた時よりも、さらに不気味な雰囲気が漂っていた。木々は生気を失い、時折、獣のものともつかぬ低い唸り声が風に乗って聞こえてくる。
「……森の様子が、やはりおかしいですね」
私が不安げに呟くと、アシュレイは「瘴気が濃くなっているな」と短く答えた。彼の表情は変わらないが、その瞳には普段以上の警戒の色が宿っているように見えた。
しばらく進むと、目の前に険しい崖が立ちはだかった。見上げるほどの高さで、所々鋭い岩が突き出し、足を滑らせれば真っ逆さまだろう。
「ここです……この崖の上に、月雫草が……」
「フン、厄介な場所に生えているものだ」
アシュレイは崖を一瞥すると、こともなげに言った。
「貴様はここで待っていろ。我が行って取ってくる」
「え、でも……!」
「貴様のような非力な者が登れる崖ではない。足手まといになるだけだ」
彼の言葉は正論だったが、何もせずに待っているだけというのは、どうにも落ち着かない。しかし、今の私にできることは何もないのも事実だった。
「……分かりました。気をつけてください」
私がそう言うと、アシュレイは鼻を鳴らし、軽々と崖を登り始めた。まるで重力を感じさせないかのように、岩から岩へと身軽に飛び移り、あっという間にその姿が小さくなっていく。その動きは、人間離れしていて、どこか美しさすら感じさせた。
(やっぱり、すごい人なんだな……)
改めて彼の身体能力の高さに感嘆する。性格さえ、もう少しどうにかなれば……。
彼が崖を登っている間、私は周囲の警戒を怠らなかった。いつ、どこから魔物が現れるか分からない。私は【鑑定】スキルを常に発動させ、微細な魔力の動きにも注意を払っていた。
すると、不意に背後から、ガサリ、と茂みが揺れる音がした。
「!?」
咄嗟に身構える。茂みから現れたのは、体長1メートルほどの、狼に似た魔獣だった。しかし、その目は赤く濁り、口からは涎を垂らしている。明らかに、瘴気に侵されて凶暴化しているようだった。
【瘴気汚染狼】
種族:魔獣
Lv:8
危険度:D+
特徴:瘴気の影響で凶暴化。通常の狼より動きが素早い。
(レベル8……! 前の双頭狼よりは低いけど、今の私一人じゃ……!)
狼はこちらを認識すると、低い唸り声を上げ、牙を剥き出しにして飛びかかってきた!
「きゃっ!」
咄嗟に身をかわすが、避けきれずに腕を浅く爪で裂かれてしまう。鋭い痛みが走る。
(まずい……! アシュレイさんは崖の上……助けは呼べない!)
狼は再び飛びかかってくる。私は必死に後ずさりながら、何か武器になるものはないかと周囲を見渡す。しかし、手頃な木の枝くらいしかない。
(こうなったら……! 【型式決壊】!)
咄嗟に、地面に木の枝で何かを描こうとする。しかし、焦りと恐怖で、手が震えてまともな線が引けない。狼の鋭い爪が、私の頬を掠めた。
(ダメだ……間に合わない……!)
絶望感が私を包み込もうとした、その瞬間。
―――シュッ!
風を切る鋭い音と共に、銀色の閃光が走った。
狼の動きが、ピタリと止まる。その首には、一本の矢が深々と突き刺さっていた。狼は、断末魔の声を上げる間もなく、どうと地面に倒れ伏した。
「……アシュレイさん!」
見上げると、崖の中腹あたりから、アシュレイが私を見下ろしていた。その手には、いつの間にか弓が握られている。彼が矢を放ったのだ。
「……油断するな、愚か者め。言ったはずだ、足手まといになるなと」
彼の声は冷たいが、その瞳には、ほんのわずかに安堵の色が浮かんでいるように見えたのは、私の気のせいだろうか。
彼は再び軽々と崖を登り、頂上へと消えていった。
しばらくして、アシュレイが崖から戻ってきた。その手には、青白く輝く、露を帯びたような美しい薬草が数本握られている。あれが月雫草なのだろう。
「……これが、例の薬草か」
彼はぶっきらぼうにそれを私に差し出した。
「ありがとうございます……! それと、さっきは助けていただいて……」
「フン。契約の範囲内だ。それより、その腕の傷、見せてみろ」
彼は私の腕の傷に目を留め、顔をしかめた。
「大したことありません。ただの掠り傷です」
「馬鹿を言え。瘴気に汚染された魔獣の爪だ。放置すればどうなるか分からんぞ」
アシュレイはそう言うと、懐から小さな布と、何かの軟膏を取り出した。そして、有無を言わさず私の腕を取り、手際よく傷の手当てを始めたのだ。
「え、あ、あの……!」
彼の指先が傷口に触れるたび、消毒薬が滲みるような鋭い痛みが走るが、それ以上に、彼の意外な行動に戸惑いを隠せない。いつもは私に触れることすら嫌がるそぶりを見せるのに。
「……動くな。毒が回ったら厄介だ」
彼の真剣な横顔は、やはり整っていて、どこか見惚れてしまうほどだった。不覚にも、ドキリとしてしまう。彼の冷たい指先が、今はなぜか少し温かく感じられた。
手当てが終わると、彼はすぐに私から離れ、いつもの仏頂面に戻った。
「……これでいいだろう。さっさと村へ戻るぞ」
「は、はい……」
彼の態度の変化に戸惑いながらも、私は頷いた。
帰り道、アシュレイはいつもより少しだけ口数が多かった。
「……あの程度の魔獣に手こずるとはな。貴様の戦闘能力は、赤子同然だ」
「うっ……すみません……」
「だが、咄嗟に【型式決壊】を使おうとした判断は悪くなかった。もっとも、何も生み出せなかったようだがな」
「……はい」
彼の言葉は相変わらず辛辣だが、どこか、ほんの少しだけ、私を評価しているような……そんなニュアンスが含まれている気がした。いや、これも私の都合の良い解釈かもしれないけれど。
村に戻ると、リオが心配そうに私たちを待っていた。月雫草と、アシュレイが無事な私を連れて戻ってきたのを見て、彼は心底安堵した表情を浮かべた。
「シオリさん、アシュレイさん、ありがとう! 本当にありがとう!」
リオは深々と頭を下げた。アシュレイは相変わらず「フン」と鼻を鳴らすだけだったが、その横顔は、いつもよりほんの少しだけ、険が取れているように見えた。
この日、私はアシュレイの新たな一面を見た気がした。冷酷で、言葉も辛辣だけれど、彼は決して、私を見捨てるような人間ではないのかもしれない。そして、彼の圧倒的な戦闘能力を目の当たりにし、改めて、彼がいれば森の主とも渡り合えるかもしれない、という淡い希望を抱いた。
もちろん、彼が積極的に協力してくれるとは思えない。でも、今日の出来事は、私と彼の間にあった分厚い氷の壁に、ほんの僅かな、本当に小さな亀裂を入れたのかもしれない。
そんなことを考えながら、私はリオと共に、若者たちのための解毒薬の準備に取り掛かった。村の未来は、まだ暗闇の中だ。それでも、私たちは諦めない。この小さな希望の光を、繋いでいかなくてはならないのだから。




