8.忍び寄る真の脅威の影
私がアッシュベリー村に来てから、季節は少しだけ移ろいでいた。浄水フィルターの効果は着実に現れ、村人たちの顔色はずいぶんと良くなった。子供たちの元気な声が、以前よりも頻繁に聞こえるようになったのは、何より嬉しい変化だった。私も、村での生活にすっかり慣れ、リオや村人たちとの間には、ささやかながらも温かい絆が育まれつつあった。
「シオリさん、この前の薬草、すごく効いたよ! ありがとうね!」
「シオリおねえちゃんが作ったお水、おいしい!」
そんな言葉をかけられるたびに、私の胸は温かいもので満たされた。異世界に来て、最初は絶望的な状況だったけれど、今は確かに、ここに私の居場所があると感じられる。これも、私の拙い能力を受け入れ、支えてくれた村の人たち、そして何より、いつもそばにいてくれたリオのおかげだ。
しかし、安堵するにはまだ早かった。
村の病状は改善したとはいえ、根本的な原因が取り除かれたわけではない。私が作る浄水フィルターはあくまで対症療法に過ぎず、その数も限られている。そして、より深刻な問題は、依然として解決の糸口が見えない食糧難だった。
畑の作物は相変わらず育ちが悪く、村の備蓄も日に日に減っていく。狩りに出ても、森の獣の数が減っているのか、獲物はほとんど得られないという。村全体を覆う、じりじりとした焦燥感。それは、病状が少し改善したからこそ、より強く感じられるようになっていた。まるで、嵐の前の静けさのように、不気味な緊張感が漂っていた。
「このままじゃ、冬を越せないかもしれない……」
村の集会で、村長が重いため息をつきながら呟いた言葉が、重く皆の心にのしかかる。私もリオも、顔を見合わせることしかできなかった。
そんなある日、村の古老――村で一番長く生きているという、腰の曲がったお婆さん――が、私とリオを呼び止めた。
「シオリさんと、リオ坊や……ちょっと、話があるんじゃ」
古老の家は、村の中でも特に古く、壁には奇妙な模様が描かれたお守りのようなものが掛けられていた。彼女は、囲炉裏のそばに私たちを座らせると、ゆっくりと語り始めた。その瞳は、長い年月を見つめてきた深い叡智を湛えているようだった。
「最近の村の様子……病も、不作も、森の異変も……わしには、心当たりがあるんじゃよ」
古老の話によると、この村の近くの森の奥深くには、古来より「森の主」と呼ばれる、強大な存在がいるのだという。それは、巨大な獣の姿をしているとも、あるいは植物そのものが意志を持ったものだとも言われ、定かではない。しかし、その存在が森のバランスを保ち、恵みをもたらしてきた一方で、ひとたび怒らせれば、恐ろしい災いを引き起こすとも伝えられていた。
「森の主が怒っておるのじゃ……。その怒りが、瘴気となって村に流れ込み、水を汚し、土を痩せさせ、獣たちを森の奥へと追いやっている……。わしには、そう思えてならんのじゃ」
古老の皺だらけの顔には、深い憂慮の色が浮かんでいた。
「昔にも一度、あったそうじゃ。村の者が欲を出して、森の聖域を荒らした時……森の主が怒り狂い、村は壊滅寸前になったと……」
古老の話は、単なる迷信とは思えなかった。私が【鑑定】で感じ取った、村を覆う微弱な瘴気。井戸水に含まれていた負の魔力。そして、森の獣が減っているという事実。全てが、古老の言葉と奇妙に一致する。
「最近、特に森の様子がおかしいと感じるんじゃ」と、古老は続けた。「夜中に、森の奥から不気味な咆哮が聞こえたり、見たこともないような奇妙な植物が村の近くまで生えてきたり……。森の主の怒りが、ますます強まっているのかもしれん……」
リオは、真剣な表情で古老の話に聞き入っていた。彼も、薬草を採りに森へ入る機会が多いからか、森の異変には気づいていたようだ。
「確かに……最近、森の奥の方は空気が重いっつーか、妙な気配を感じることが増えやした。いつも見かける薬草が枯れてたり、逆に毒々しい色のキノコが増えてたり……まるで、森全体が病んでるみてぇだ……」
古老の家を出た後、私とリオは重い沈黙に包まれた。
「森の主」……それが本当に、この村の苦しみの元凶なのだとしたら、私たちに何ができるだろう? 浄水フィルターを作ることしかできない私と、まだ医術を学び始めたばかりのリオでは、あまりにも無力に思えた。
その不安が現実のものとなったのは、それから数日後のことだった。
村の若い男たちが数人、現状を打破しようと、無謀にも森の主の討伐に向かったのだ。村長や古老が止めるのも聞かずに、「俺たちが村を救うんだ!」と意気込んで。
結果は、惨憺たるものだった。
半日もしないうちに、彼らはボロボロになって村へ逃げ帰ってきたのだ。幸い死者は出なかったものの、全員が深手を負い、中には骨を折ったり、奇妙な毒に侵されたりしている者もいた。
「だ、ダメだ……! あんな化け物、勝てるわけがない……!」
「近づくことすらできなかった……! 森全体が、俺たちを拒んでいるみたいだった……!」
若者たちは恐怖に顔を引きつらせ、口々にそう叫んだ。彼らが見た森の主の姿は断片的だったが、その巨大さと、放つ圧倒的な威圧感、そして森そのものを操るような力は、疑いようもなかった。彼らの瞳には、死の淵を覗いた者の恐怖が焼き付いていた。
村は、再び絶望的な空気に包まれた。負傷者たちのうめき声が響き、その手当てに追われるリオの顔にも、焦りと疲労の色が濃く浮かんでいた。
「くそっ……! 止血はできたけど、この毒が……! 俺の知識じゃ、何の毒か分かんねぇ……! 解毒薬も、手持ちのもんじゃ効かねぇ……!」
リオは、苦しむ若者を前に、自分の無力さを噛みしめるように唇をきつく結んでいた。その姿は、かつて親友を救えなかった時の後悔を、再び彼に突きつけているかのようだった。彼の肩が、悔しさに小さく震えているのが分かった。
「リオさん……」
私は、かける言葉も見つからず、ただ彼の隣で、できる限りの手伝いをするしかなかった。負傷者の体を拭いたり、声をかけたり……。そして、密かに【鑑定】スキルを使い、彼らが受けた傷や毒について情報を集めようと試みた。
【詳細不明の魔獣による爪痕】
状態:深い裂傷。黒紫色の魔力汚染あり。通常の治癒魔法では回復が遅く、放置すれば壊死の危険性も。
【植物由来の神経毒(強)】
状態:呼吸麻痺、幻覚症状を引き起こす。放置すれば死に至る危険性。特定の解毒薬が必要。成分解析:△△草、××花の蜜……(私の知識では分からない成分名が並ぶ)微量の魔力反応あり。
(やっぱり、普通の怪我や毒じゃない……! 森の主の力……! 鑑定結果が、さらに深刻な状況を示している……!)
鑑定で得られた情報は断片的だったけれど、それでも、相手が尋常ではない力を持つ魔物であることは明らかだった。そして、このままでは負傷者たちの命も危うい。
「リオさん、この毒……鑑定で少しだけ成分が分かりました! もしかしたら、この近くに解毒に使える薬草があるかもしれません!」
私は鑑定で得た情報をリオに伝え、彼が持っている薬草の知識と照らし合わせる。
「えっ、マジかよ!? その成分……もしかしたら、あの崖の上に生えてる『月雫草』が効くかもしんねぇ! でも、あそこは足場が悪くて、採りに行くのは危険だ……!」
リオの顔に、わずかに希望の色が差したが、すぐにまた曇る。
「私が行きます!」
私がそう言うと、リオは驚いて私を見た。
「だめだ、シオリ! アンタまで危険な目に遭わせるわけにはいかねぇ!」
「でも、このままじゃ……! 私、少しだけ体力には自信がついたんですよ! アシュレイさんにだって、少しは……」
そこまで言いかけて、私は口をつぐんだ。アシュレイさんの名前を出しても、リオを不安にさせるだけかもしれない。
「……とにかく、私が行きます。リオさんは、ここにいて、皆さんの手当てを続けてください」
「でもよぉ……!」
食い下がるリオをなんとか説得し、私は一人、月雫草が咲くという崖へと向かう決意をした。もちろん、一人で行くつもりはない。あの、無愛想だけど最強(?)の護衛に、頼むしかない。
(アシュレイさん……協力してくれるかな……。いや、これは私の『護衛』の範囲内のはずだ……! そうだよね……?)
一抹の不安を抱えながら、私は村の外れへと急いだ。
村の危機は、思った以上に深刻で、そして、その根源はあまりにも強大だった。私とリオ、そしてアシュレイ。寄せ集めの私たちに、この状況を打開する力はあるのだろうか。
重苦しい空の下、私の心にも、暗い影が忍び寄ってきていた。それは、かつてブラック企業で感じた絶望とはまた違う、もっと根源的で、抗い難い何かに対する恐怖だった。




