第三十一話 自分を責めて何になるの
◇2032年12月20日 風花中学校・保健室◇
……あれ、ここは?
目が覚めると保健室だった。白い天井、カーテンの隙間から差し込む昼の光。消毒液のにおいが鼻に残っている。
上体を起こそうとすると、頭の奥でズキっと痛みが走った。思わずベッドの柵にを握りしめる。
ふと、カレンダーが視界の隅に映った。……20日。20日!?私は2日も寝ていたらしい。
あの時の歓声、誰かの手の温もり、そして、視界が真っ暗になった瞬間。そこまでで記憶は途切れている。
「……深雪はん、もう起きはったん?あんた、一生起きんと思うてたんどすえ〜?」
「ゲッ……綾芽ちゃん」
「ゲッて何どすのん?お仕置き……されたいんどすかいな?ほんなら、よろしおすなぁ…ふふっ♪」
白衣を着た同級生。千歳屋綾芽ちゃんは、性格を直せば優秀な医者だと思う。見た目も可愛いし、京都弁は普通に助かる。
自分の体に目を向ける。いつ見てももうちょっと大きくてもいいのに。……ん?なななななんで、制服じゃなくてサラシ巻いてるの!?!?!?恥ずかしいっ!!
「野乃の服はどこっ///!?!?!?」
「服が汚れてはったさかい、ちゃんと洗うたどすえ。もちろん、ブラもきっちりな〜♪」
下半身もスースーするので布団をめくると、パンツだけ!?めっちゃやばい人じゃん!!早く返してよぉ〜!
綾芽は、ニヤニヤしながら返してくれた。意地悪なところもあるけど、逆らうとどうなるかわからない。櫻田圭吾がいい例だ。
いつも治療を受ける時は、恐怖のあまり泣いているらしい。私も泣くのかな……。嫌なんだけど。
「え、えっと……いたくしないでね?野乃……こわいよ、お願いだから……!」
「何ゆうてはりますのん、深雪はん。治療なんてとっくに、終わってまっせ〜」
私の中で勝利のBGMが流れた。痛みもなしに、治療を受けられるなんて奇跡にも等しいだろう。圭吾に自慢しよ。
私が携帯を取り出して、圭吾に電話をしようとした。その時、近くから液体がピューって出る音がした。本能でわかった。……こいつはやばいやつだと。ーー否、最初からやばいやつだった。
「逃げるなんて、寂しゅうおすなぁ。ちょっとぷすぅ♡なるだけやのに。そないに怖がらんとおくれやす?」
「そ、そりゃあ普通、怖いでしょ!!いきなり注射なんて構えられたら、……心臓バクバクしちゃってるよっ」
少しでも同情させて注射を打とうと思わせない作戦!私、注射は嫌いじゃないけど綾芽から打たれるのはやばい。
綾芽の動きが止まった。やっぱり、私は天才だ。まぁ“反逆者”のリーダーだし?これくらいできて当然かな?
「……深雪はん?そんな怖がらはらんといてくれやす。そんなことされたら、うちめっちゃ興奮してしまうんどすえ♡注射の針がスッと入るあの瞬間、たまらんどすわ〜」
綾芽の頬はリンゴのように赤く染まり、顔周りの湿度が高くなっている。そして、手の動きは私に注射を刺す気満々だ。
私は逃げようとした。……逃げられなかった。だって、まだ服を着ていなかったからだ。こんな変態スタイルで廊下を出歩くなんてお嫁さんにならない。
「野乃は屈しなっーー」
「あぁあ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛♡♡♡」
「どんどん快感になっていくやろ?もっと、もっと打たせておくれやす。あんたがびくっとするたび、うちの心は弾けるんどすえ♡」
綾芽が何か言っているが、聞き取れない。視界が真っ白になり、ぼっーとしてしまう。気が付いてたら床で寝ていた。
今日2度目の目覚め。窓から差し込む橙色が保健室を夕方に包む。多くの人が帰ったであろう静かな校舎には、変な気持ちだけが残された。
自分の身体を見ると、しっかりと服を着ていた。きっと綾芽が着せてくれたんだろう。そういえば綾芽は?
私が周りを見渡すと保健室には誰もいない。ただ一つ違和感があったのは、ベッドのカーテンだ。寝てしまう前には、全てのカーテンが開いていたのに一つだけ閉まっている。
気になった私は、思い切って開けてみるとそこにいたのは――、
綾芽だった。でもさっきの様子とは打って変わっていた。目の周りが赤く腫れ、鼻も少しすすけている。
泣いて……た?
「……あんた、なんでそんな顔してんの?」
思わず声が低くなる。
綾芽は一瞬だけ目を逸らし、それから無理に笑った。
「なんでもあらしまへん。ただ……うち、自分が怖いだけどす」
「怖い?」
「……あんたに注射したとき、ほんまに楽しかったどす。心臓がバクバクして、もう一回したいって、頭の中で何回も響いて……。そやけど、そないな自分が……気持ち悪ぅてしゃあない」
弱々しい声。さっきまでの、私をからかってくる綾芽とは別人みたいだった。
私は少し考えてから、口を開く。
「……別に、気持ち悪くないよ」
「は?」
「人って、誰でも変なところあるじゃん。野乃だって怒られたらすぐ反抗しちゃうし、好きな人の前じゃ挙動不審になるし。……綾芽ちゃんは、注射がすき。それだけでしょ」
綾芽は何も言わず、じっと私を見た。目の奥に、揺れる水面みたいな光があった。
ふと、その手元に何かがあるのに気がついた。小さな、色あせた写真。2人の大人が並んで笑っている。
「……これ、誰?」
綾芽は一瞬、言葉を詰まらせる。
「……うちの、両親どす」
私は少し黙った。綾芽はもともと京都で生まれて、北九州市には途中からきた。だから、きっと寂しいんだと思った。
――けど、綾芽の表情はその寂しいとは少し違っていた。もっと、何か深い理由があるみたいで……でも、今は聞けなかった。
「……そないなこと、平気で言えるの、あんただけやなぁ」
ぽつりと呟くと、綾芽は私の肩に膝を預けた。
私はその温もりを受け止めながら、そっとカーテンを閉めた。
保健室の外では、夕焼けが静かに沈んでいく。
綾芽と別れ、保健室を出ると、廊下はもう薄暗くなっていた。
校舎の外からは、下校する学校好きな生徒たちの声が遠くに響いている。
ポケットの中で、スマホがやけに重く感じる。
――七瀬沙彩。
名前を見るだけで、胸の奥がきゅっとする。
あの日のことを思い出す。
ほんの少しのすれ違いから、どんどん言葉がキツくなって、最後には「もういい」と背を背けてしまった。
気づけば、1年も話していない。
今、電話をかけたら……何を話せばいいんだろう?
「久しぶり」?それとも「ごめん」?
……いや、それすら重くなるかもしれない。
指が、発信ボタンの上で止まる。
声が聞きたい気持ちはある。でも、相手の気持ちがわからない。
出てくれなかったら――出ても冷たい声だったら――きっと、もっと寂しくなる。
私はそっとスマホを閉じ、深く息をついた。
……今日はやめておこう。
窓の外、街灯がぽつぽつと灯り始めていた。
その光が、なんだか遠くに見えた。




