相方とはぐれた熊狩士は仕方なく単身狩り
あたり一帯に、強烈な獣臭が漂っていた。
━━フウー、フウゥーっ━━
荒い息遣いが聞こえる。獣の口臭まで届いてくるような、聞く者にとっては出来れば聞きたくないだろう呼吸音だ。
(確実に、血走った目をしてるんだろうな)
前野高陽は獣を前にしながら、不思議なほど呑気にそんなことを考えていた。
獣━━とはつまり、言うまでもなく熊である。それも、体長は三メートル近いだろう、大型のヒグマだった。
そのヒグマと、距離を置いて対峙している。
正面で、向かい合っている。
北海道内、日高地方の原生林のど真ん中、部分的に開けた草原の上である。
牧草のような、丈の短い雑草が地面を覆い、風が草の表面を撫でるように吹いていた。
風下は、こっちだ。風上から吹く風が、ヒグマの体臭を運ぶように吹いてくるのである。
距離はおおよそ、二百メートルほどだろう。
この二百メートルという距離は、ことヒグマを相手にした場合、決して安全と云える距離ではない。
何しろがヒグマは、百メートルを5秒ないしは6秒で走る走力に加え、助走なしでいきなりトップスピードを発揮できる瞬発力を併せ持つ生き物なのである。
二百メートルの距離など、あってないに等しい。
気を抜けば、瞬きする間に間合いを詰められ、鋭い牙や爪の一撃を喰らうことになるだろう。
(さて、どうするか?)
高陽は己が胸中に問いかけた。
ヒグマはといえば、こちらに目を向けたまま、依然荒い息を繰り返している。
━━フウゥー、ヒフゥーっ━━
突進したいのを、無理やり抑えている呼吸だ。すぐに、そうだと分かる。
高陽がチラリとでも隙をみせれば、即座に襲いかかってくるはずだった。
そうはして来ないのは、高陽も気攻めを途切れさせていないから。
さらに言えば、ヒグマもヒグマなりに、不用意に飛びかかれば危険だと判断しているからに他ならない。
理屈ではない、野生の本能でだ。何を、とはもちろん、高陽をである。
それだけ、高陽の気攻めが功を奏していると云えた。今のところは、だが。
(だが、その内ヤツも焦れてくるはず)
それも、分かっていた。
高陽は静かに、背負っていた愛刀の熊斬り太刀「雷神」に右手を伸ばした。刀身を抜き放つためではない。背に括り付けた革のケース、そこからいつでも抜けるように、左肩の後ろに柄頭から鍔、鯉口までが、ケースの外に常に露出している。
その鯉口を掴み、鞘ごと革ケースから抜き出す形で取り出した。
さらに鯉口を右手で鍔を抑えるように持ち替えると、腰に帯刀し直す。
この時、右手の親指は鍔にただかかっているのではなく、いつでも鯉口を切れる隙のない状態になっていた。
よく見ると、左腰にはベルトとは別に、ナイロンで出来た独特の装具を着けており、その装具に差し込む形で帯刀している。
これは稽古時の袴と帯の状態を、部分的に再現したものであり、稽古着ではないズボンを履いている時でも刀の帯刀・操法を容易にする、通称「熊狩帯」であった。居合術の基本にして生命、奥技とも云える「鞘引き」が稽古時同様に出来るようになっている。つまり、これさえ装着していれば、袴を着け帯を締めた状態と同じように刀が遣える。そのように工夫された優れものだった。
無法新神流居合術の宗家にして、現役の熊狩士でもある大谷源助が考案し、防衛省に開発を要請したもので、製造は例によって、輪島秦重工が手掛けた。ちなみにこの大谷源助は、高陽の無法新神流・熊狩り双方の師でもある。
その熊狩帯に帯刀した「雷神」の柄に、高陽は緩やかに右手を伸ばした。左手は帯刀した際、鯉口を自然に掴んでいる。
静かに鯉口を切りながら、思った。
(それにしても、この大事な時にどこに行ったんだ?ウチの相方は・・・・・)
健介とは、山に入ってからほどない頃にはぐれてしまっていた。
かって、一度もなかった事である。
一旦、熊を追うとなった時には常に、村井健介が高陽の傍を離れたことはなかった。
それが今回、近くにいるとばかり思って歩みを進めていた高陽がふと気づいた時には、健介の姿がなかったのである。
ひとこと、異常事態と云えた。
コンビを組む熊狩士を後方援護
するのは、熊撃士の最低限の仕事であり、健介も当然、言われずとも分かっているはずだ。
(アイツの注意を引きつける、何かがあったんだ。それも差し当たり、目の前にいる訳じゃない熊以上に)
そうとしか、思えなかった。
恐らく、健介が次に姿を見せる時、第一声はこう言うだろう。
「前野さんなら、ボクが近くにいなくとも、それならそれで何とかするはずですから」
(全く、簡単に言ってくれるよ)
まだ言われた訳ではないセリフを想像し、高陽は苦笑した。
一人で何とかなるのは、熊撃士なら、だぞ。
熊狩士の場合、そうとばかりも言えないよ。
それこそ、相手があの、紅隻眼のヤツだったら、どうするんだ?
(孤独が身に沁みるよ)
我ながら、不思議なほど冷静だなとも感じていた。いつ突進してくるか分からないヒグマを前にして、そんな事を考えながら、且つ、殺気を込めた気攻めも途切れさせていない。
このあたりが、つまりは前野高陽という男を超一流の熊狩士たらしめている部分だったのだが、その高陽がそこまで集中を切らさず考えた時だった。
━━━ドッ、ゴオォン━━━━
━━━ズダーン、ダーン━━━━
方角までは咄嗟に判断出来なかった。
だが、しかし、かなり離れた距離ではあったが、銃声が二発重なって山間に木霊していた。
うち一発は、高陽も聞き慣れたもの。そう、ワジマ式特有の轟音。
高陽がそこまで瞬時に判断した、まさにその時。
━━━━ガァロォォォーッ!━━━━
邪悪なまでの巨大な黒い存在が、雄叫びを上げて躍動した。
どうやら、高陽の気攻めが僅かに緩んだ、その瞬間を彼の隙と見てとったらしい。
(ちっ、マズったか?!)
己に舌打ちしたのも、一瞬。
高陽も一気に、突進していた。
身はあくまで、這うように低く。
両手は依然、腰の愛刀にかけたまま、いつでも抜き放てるように。
方向はずばり、ヒグマの正面。
これしか、ない。これが一番、正解のはずだった。
このような場合、最も良くないのは距離を取ろうと背を向けることなのはもちろんだが、
下手に左右に回り込もうとしても逆効果だ。
いざ攻撃しようにも、迂回したその分だけ、こちらの間合は遠くなってしまう。
たが、熊の攻撃はこちらの間合の外から、余裕で届く。つまり、熊に一方的に攻撃するチャンスを与えるだけになり、結果として、こちらは逆に何も出来ないことになる。
そうなると、もうひたすら逃げまくるしか手がなくなるのだが、一旦熊に接近を許した以上、逃げ切れる訳はなく、鋭い牙なり爪にいずれ必ず捉えられることになるのだ。
そうならない為には、相打ち覚悟で度胸一発、飛び込むしかない。という訳で、当然それは高陽ばかりでなく、経験を積んだ熊狩士なら皆知っていることであった。
まさに捨て身になってこそ、浮かぶ瀬もある。それが、熊狩りの鉄則であった。
もっとも、高陽は北海道警の剣道特錬員時代から、捨て身の大事さを身に沁みて知っている。もはや身体で覚えていると言っていいだろう。
ヒグマと高陽、互いに突進したことで、一気に間合いが詰まっていた。
ヒグマが大きく開けた口から、白い牙を覗かせて迫る。一瞬だが、やけに赤く光る、禍々しい口腔がはっきり見えた。噛みつこうというのだ。
━━━グォゴォっ!!━━━━━━━
遅れてきた咆哮が、天然の凶暴な野生を分かりやすいものにしている。
(貴様の噛みつきなぞ、喰らうかよっ?!)
高陽は姿勢を低くしたまま、突進しながら腰の「雷神」を一気に引き抜いていた。
「つあぁいっ!」
高陽が肚の底から、空間に響くような気合いを発した。聞く者によっては、怪鳥の鳴き声にも似た奇声のように聞こえたことだろう。同時に、雷神による抜き打ちの一刀を一閃させていた。
一瞬の煌めきにも似た光りは、剣先に反射した陽光。その陽光が消えた刹那、巨大な凶暴性の右脇腹から血飛沫が吹き上がっていた。
━━━━グォォォガァウガァッ!?━━━━
高陽に脇腹を切り裂かれたヒグマが、絶叫のように吠える。怒りに燃えたつ目を向けながら、高陽に振り向いた。
高陽はというと、ヒグマの後ろ足の間をすり抜けて地面を転がると、その勢いを利用して振り向きつつ立ち上がっていた。八双に構えることにより、自然、体勢はすでに整えられている。
高陽は、こうなるともう、休まない。
「あぁぁいさぁあーっ!」
絶叫するように裂帛の気合いを響かせ、躊躇いなく追撃に移った。居合術の遣い手はそう簡単に刀を抜かない代わりに、一度抜いたら相手を仕留めるまで決して刀を納めない。手負いにした以上、時間をかけるのは危険でもあった。
元よりヒグマ相手に戦闘態勢になった場合、間違っても情けなどかけない男である。
ヒグマが覆いかぶさるように迫りながら、右の前足を振ってきた。ライオンの首すらへし折ると言われる獰猛な一撃が、高陽に迫る。
ほぼ同時に、高陽の剣も動いていた。
気合いもろとも、高陽の太刀筋が八の字を描く。ドサッ、と不気味な音を立てて、不吉なまでに黒い体毛に覆われた二つの物体が落下した。
ヒグマの両前足だった。高陽が一閃させた二筋の軌跡は、そのまま前足を一本ずつ切り落としていたのである。
両腕ともいえる前足を失った、ヒグマの前肢から大量の血が吹き出した。
━━━ガアアァアアァアアアっ??━━━
巨大な凶暴性が顔を左右に振りながら、今度こそ絶望的な悲鳴とも取れる絶叫を上げた。鳴き声が、泣き声にも聞こえる。もはや、こうなると哀れでしかなかった。それは、どんな生き物でも同じことが云えるだろう。
(こうなると、速やかに止めを刺してやるのが情けだ)
ヒグマが高陽に顔を向け、動きを止めた一瞬だった。
高陽は勢いよく飛び上がりながら、大上段に振りかぶった熊斬り太刀を、ヒグマの眉間めがけて振り下ろした。
遠心力たっぷりの、高陽の無声の気合いも載せた一撃が脳天に食い込んだように見えた。
高陽が着地する。次の瞬間、ヒグマの脳天から股まで、体表の前半分が真っ二つに切り裂かれていた。
━━━━ガッ??━━━━━━
大量の血を迸らせつつ、ヒグマが短く、疑問のような声を出す。声が流れる血の量に、見合っていない。
高陽は雷神の切っ先、物打ち付近の棟に左手を添えた。ヒグマの心臓に、切っ先を静かにあてがい、
「・・・許せよ」
言うなり、一突きに刃を潜らせていた。
━━グムゥッ━━━
今度こそ、絶息するように肺の中の空気を全て吐き出したらしい。高陽が刃を引き抜くのに合わせて、ゆっくりと仰向けに倒れていった。
ドスンッ。
ただそれだけの音ながら、地響きのように一帯に響き渡る。
高陽は雷神に血振りをくれながら、防護服のポケットから折りたたまれた紙を取り出した。ごく普通のコピー用紙だが、血振りの後の血の拭き取りにはこれが一番よく、狩りに出る際には常に何枚か持参している。丁寧に刀身に拭いをかけ、納刀した。
もちろん、倒れた熊に対してと周囲への残心を示しながら。
鍔止めの、パチり、という音が高陽なりの、ヒグマへの憐憫の情を表していた。
(いつもながら、これがヤツだったら、と思うのは同じだな)
ヤツ、とはつまり、紅隻眼のことに他ならない。
今しがた自らが倒したこのヒグマに、別に特に、個人的に恨みがある訳ではなかった。
「・・・許せよ」
もう一度詫びを口にし、高陽は遺骸の解体に着手した。
紅隻眼以外のヒグマには、常に哀れみを忘れない男でもあるのだった。