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仕置き━━脳天気な机上の理想論者たち

「お二人とも、さっき、あの熊肉を出す居酒屋から出て来ましたよねぇ?」

高陽に拳銃を向けている、痩せた背の高い男が聞いてきた。年の頃三十前後というところか。一目で、華奢(きゃしゃ)としか言いようのない体型だった。

「もしかして、あの店で呑んでたのかよ、アンタら」

もう一人、こちらは中肉中背で度の強そうなメガネをかけた、三十代半ばくらいの男が質問を重ねてくる。神経質そうな目をメガネの奥で光らせながら、健介に銃口を向けていた。

「居酒屋にいたのに、呑まないほうがおかしいと思うがね」

高陽が、のんびりした口調で答えた。仮にも自分に銃口が向けられているというのに、まるでその状況が分かっていないかのような気楽さである。

痩せた若い方の男が、僅かに左目の目尻を釣り上げていった。

「あの店で呑んでたなら、当然、熊も食べたんですよね」

「それが名物の店だ。食わないはずがないさ」

高陽が相変わらず、目の前の銃口を意識も認識もしていないように答えた。

痩せたノッポの左目がピクリとし、下の頬が引きつったように見えた。どうやらナメられていると思ったらしい。

「おい、若僧、状況が分かってないようだな。ナメてんじゃねーぞ、コラ」

健介に銃を向けた年嵩(としかさ)が、より表情を(ゆが)めていった。

「ナメたことなんか、言ってないでしょう。熊肉がある店で熊を食べて、何が悪いんです?」

今度は健介が、冷静に年嵩に突っ込んだ。

神経質な顔が真っ赤になった。頭に血が上ったらしい。ほとんど叫ぶように喚いた。

「だから、その、若いのに落ち着きはらった態度が気に入らないんだよっ、熊肉を食うようなヤツのクセしてよっ」

一見すると学者のような男なのだが、見た目ほど品行方正ではないらしかった。

「熊を食って、ただそれだけで気に入らんと言われたら、どうにもしようがないが」

「私らは、マウント・ウルフのものです」

高陽がボヤいたのに(かぶ)せるように、痩せノッポが名乗った。答えのつもりだったようだ。

それでようやく納得がいったのは、高陽も健介も同じだった。

マウント・ウルフ(Mount・Wolf)。熊狩士や熊撃士、さらに日本中の狩猟に携わるハンターにとって、出来れば関わり合いになりたくない、面倒な団体の名前である。

何の名前かというと、動物愛護団体のそれであり、特に熊を狩ることに関し、とにかく強硬なまでに批判的なことで知られている団体だった。

どう強硬なのか、それは、とにかく過激のひとことに尽きるのだ。それも、暴力を伴う実力行使はもちろん、時には違法行為すら辞さないという、動物愛護の美名を(うた)った

犯罪集団の様相すら呈しているほどにだった。

全ては動物愛護のため、それを貫くためならどんなことも正義となるとでもいうかのような。いわば、「動物愛護無罪」と云えるかのごとき誤った活動倫理が組織の根底にある。そうとしか思えないような意識的行動が、組織のメンバー全員に共通しているようだった。

ある意味、狂信的な宗教団体に似ていなくもない。

現にいま、マウント・ウルフのメンバー二人ともが、高陽と健介に拳銃を向けている。一般市民に携帯と使用が認められている拳銃は、基本的にコルトSAAやスタームルガーのようなシングル・アクション・リボルバーだけである。それも、あくまでも護身用としてだ。己の個人的な事情、例えばケンカなどの暴力行為で使用したと見做(みな)された場合は例外なく、拳銃の没収及び、所持許可の取り消し。もちろん銃刀法違反で逮捕されて前科がつくことにもなる。

M・Wのメンバーがいま手にしているのは明らかに、違法な中型自動拳銃であり、高陽らに向けていること自体も、充分に犯罪行為でしかない。しかも、どう見ても、正当防衛が成立する状況なのは、高陽と健介の方だった。

高陽と健介は、顔を見合わせた。

「なるほど、あの団体の方々でしたか。それなら納得ですよ」

健介が得心した顔でいう。

「アンタらはといえば、そこでずっと、張ってたわけか。オレらが店から出て来るのを」

高陽が、素朴な疑問を口にした。

「そういう事です。申し遅れましたが、私は酒井。M・W内では一応、秋田県内の取締担当部長を務めるものです」

「オレは黒沼、同じく副部長だ」

M・Wのメンバー二人が、ここでようやく名乗った。

「ほう、部長さんと副部長さんのお二人が、自らお出ましか。他に人材はいないのかい?現場に出るべき人間は」

「あいにくと、ウチも人手不足なのは確かでしてね。仕方ないんですよ」

「そうなのか」

「そうです」

「で、なぜオレらに目をつけた?」

高陽の質問には、酒井ではなく黒沼が答えた。

「簡単さ、オレたちがここで張り込み始めてから、最初に出てきたのがアンタ方だっただけのことだ」

「はい?理由はたったそれだけだったと、そういうんですか?」

健介が半分驚きながら訊ねた。もう半分は、呆れたような顔である。

「そうだよ、アンタ方は運が悪かったのさ」

「何をもって、運が悪かったというんだ?」

「私たちにここで、目をつけられたことがです」

酒井も黒沼も、勝ち誇ったような薄笑いを浮かべていた。完全に、自分たちが有利だと信じて疑っていない。

そしてそれは、拳銃の構え方一つにも表れていた。酒井も黒沼も、片手で無造作に構えていたからである。

明らかに素人だ。射手(ガンナー)の健介はもちろん、高陽もすぐに気づいた。本来、拳銃とは両手で構えるべき物だからだ。

それも顔の正面で、体を相手に正対させて構えるのが基本である。向ける方向を変える時には、顔と同じ方向を向く。つまり、いつも銃口は、視線の先に向けて連動していなければならない。

また、そうしないと撃った時に反動を抑えきれない。銃口が跳ね上がって狙いが定まらず、反動の大きい大口径の拳銃を片手で撃ったりしようものなら、肩を脱臼することさえある。どんなに鍛え上げた肉体を持つ射撃のプロでも、これは同じだった。

しかも二人とも、拳銃のグリップの握り方もなっていない有様だった。これも射撃の基本だが、通常拳銃を握る時は、雑巾を絞り込んだ時と同じように親指を内側に絞り込む。そうすることで、反動に負けない、強靭な握り方になるのである。握り手の指の付け根、つまり拳骨(げんこつ)部分が正面から見えては決していけない。いわば、剣の手の内と同じなのだ。

だが、酒井も黒沼も、人差し指を引金(トリガー)にかけるのに、トリガー・ガードの中に巻き込むように突っ込んでしまっていた。これでは人差し指を引金にかけたり外したりする際にもスムーズに出来ないし、反動に負けて銃口が跳ね上がるのみならず、引金を握り込むように引いてしまうことで、いわゆる「ガクブル」を起こす。こういう握り方をして撃った銃弾は、よほどの至近距離でもないかぎり、まず当たらない。

つまりは、二人とも、射撃の素人ぶりを露呈していたのである。

「運が悪かった、ねえ」

「いったい、どっちが運が悪いんだか、ですよね」

高陽と健介の呆れきった会話を、酒井と黒沼は諦めと取ったようだ。

「そうです。あなた方は、これから私たちの崇高な精神による活動の生け贄になるんです、有り難く思ってくださいよ、ひゃはっはははっ」

「オレたちの組織が、熊の生命を尊重しろ、熊にだって生きる権利があるって主張しながら、保護活動に取り組んでるのは知ってるよな。だから、熊を食うとこうなると、世間の連中への見せしめになってもらうからよ、ガハハハハッ」

「それは、オレらを撃ち殺す、ってことか?」

高陽が無表情になりながらいった。

「そうですよ、他にどんな意味があるんです。ヒャハハハッ」

酒井がまた、偏執的な笑声をあげながら答えた。

高陽が、返した。静かな声音で。ナメられたモンだ、とでも言いたげな表情だ。

「それじゃあ、仕方ないな。正当防衛、だ」

「何ィ?!」

黒沼が吠えるように問い返してきた。

「どうやら状況がまだ分かってないようだな。この状態で、どう、正当防衛するってんだよ、アタマ悪いだろ、テメェっ」

「どうといったって、そうだろ、そんな・・・」

高陽は、言いきった。

「そんな素人感まるだしの握り方じゃ、どんなに狙ったって、当たらんよ」

「素人だとっ?!テメェっ!!!」

逆上したらしい。黒沼が銃口を一瞬、高陽に向けた、まさにその時。

ダンっ!

銃声が鳴った。

黒沼の右手から拳銃が弾き飛ばされる。

「があああ、ぐわっ、痛え、痛えよぉっ!」

黒沼が、己の右手を押さえ、喚きながら(うずくま)った。

「手がっ、オレの手がぁぁぁっ!?」

「大袈裟ですね」

健介が呆れたようにいいつつ、いつ抜いたのかワルサーP99を両手で構えていた。銃口からは、硝煙がまだ立ち上っている。

「手を撃ち抜いたわけじゃありません。銃に当てて弾き飛ばしただけですから、そのうち治りますよ」

「テ、テメェ・・・」

黒沼が憎悪に(たぎ)った目を、健介に向けた。押さえている右手の人差し指が、ありえない方向に曲がっている。

「い、いつの間に?!いつ、抜きやがったっ??」

呻きながら、訊ねてきた。

「いつもなにも、たった今ですよ」

「コイツに射撃で勝てるヤツなんて、そうはいないよ」

高陽が補足した。余裕の表情である。

酒井はといえば、まだ何が起きたのか把握しかねているようだった。口をあんぐり開けたまま、ポカんとしている。

が、どうやら自分たちが有利な状況でなくなったのだけは、すぐに理解したらしい。

「くっ?!」

慌てて高陽に向けていた銃口を、健介に向け直そうとした、その刹那(せつな)

高陽が、踏みこんでいた。無造作にも見える拍子で、酒井の(ふところ)に。

酒井が気づいた時には、目の前に高陽の顔が、ほとんど突き当りそうになりながら迫っていた。ニィっ、とつり上がった口元が、かえって凄みを感じさせた。

一瞬で間を詰められた酒井が、驚愕と焦りが混じった表情を浮かべたのも一瞬。次の瞬間には、高陽に銃身を左手で押さえられると同時に、水月に右拳を突きこまれていた。

「ぐふっ!?」

酒井が膝から崩れるように、腹を押さえて蹲る。口を金魚のようにパクパクさせ、(よだれ)が口端から流れ落ちた。息が詰まったらしく、完全に呼吸困難に陥っている。

「全く、運が悪いのはどっちなんだか」

「ここまで身のほどを知らないのって、面白いを通り越して、哀れですね」

高陽は何気なしに、自身の手に移った拳銃をしげしげと確認した。もちろん先刻、酒井から奪い取ったものである。軽くだが、その目が驚きに見開かれた。

「まだ、こんな旧式を使ってるヤツがいたのか」

「それも、もう半世紀以上前の、もはや博物館ものですよね」

高陽と健介が驚いたのも、無理はなかった。

ベレッタM84。21世紀も半ばに差しかかった現在では確かに、前時代の遺物と云えなくもない旧式である。その高性能ぶりは、発売当時は確かに高評価を得たが、今の時代ではより高性能の自動拳銃は、同じベレッタ社製も含めていくらでもある。

「確かに今どき、こんなのを使うのは、プロにはいませんよ」

「オレはあんまり、銃には詳しくないが、それでもそれぐらいは、分かる」

「おいテメェら、ちょっと待ちやがれっ!?」

右手を押さえて呻いていた黒沼が、高陽と健介の会話に割って入った。

「さっきから聞いてりゃ、プロだの素人だのと、何なんだ、何モンだ、テメェら?」

「ああ、そういえばまだ、オレらは名乗ってなかったな」

高陽がいま気づいたように、のんびりと言った。

「まだ、だとぅっ、ふざけんじゃねぇぞ、この若僧どもがよ。ナメやがって、テメェらごとき若僧が、オレらに名乗れるような身分でも、あるのかよっ、えぇっ?!」

黒沼のこのセリフには、高陽も健介も、明らかに呆れたような表情になった。どうやら、まだ現実を理解できないらしい。

仮に足腰立たないほど叩きのめされても、口が利けるうちは騒いでいるというタイプだ。短絡的で実力もたいしたことのない人間に、こういう手合いが多い。まさに口だけは達者な人間の典型といえよう。

「やれやれ、どうもまだ、状況が理解できないらしいな」

「認めたくないんでしょう。何せさっきまでとは、立場が逆転してますからね」

「うるせえ、ナンボのモンだ、コラァっ?!」

さっさと名乗れっ、身分証を見せろ。そう騒ぎだした。

高陽はチラリと周囲を見渡した。さきほどまでは人の通りがまるで途絶えていたのに、さすがに騒ぎになっているらしい。遠巻きに、あるいは物陰から成り行きを見物している野次馬が、何人か集まってきていた。何しろ、銃声まで聞こえただろうから無理もない。もっとも、実際に発砲したのは先に拳銃を抜いた酒井と黒沼ではなく、健介ではあったが。

「・・・仕方ないな」

高陽がため息混じりに、何かのカードケースを取り出した。手帳型になっており、開いた面を黒沼の目の前にかざす。

確認した黒沼の両目が、これ以上ないというほどの驚きに見開かれた。

「お分かりいただけたかな?」

「く、く、く、クく、クくくク、熊狩士だとぅっ??」

黒沼が(ども)りながら、やっとのように声を出した。目は大きく開いたままである。 

高陽がいま黒沼に提示したもの。それは、高陽の身分を証明する、熊狩士の資格証(ライセンス・カード)に他ならなかった。

「ああ、正真正銘、熊狩士さ。前野高陽だ、よろしく」

名乗りつつ、カード入れをたたむ。

「ボクの方は村井健介、熊撃士です。全国の自治体に、やれクマが可哀想だの、クマにだって命があるのと、頭の中が極楽とんぼな理想論をぶちまけてるアナタ方とは、敵同士の職業ですね」

申し訳ないですけど、とつけ加えて健介も自己紹介した。

「健介、博物館ものは、こっちのもだ」

道端に目をやった高陽がもう一丁、落ちていた拳銃を拾い上げた。むろん健介が黒沼の手から先刻、弾き飛ばした物である。

「あらら、やっぱり、プロじゃない証明ですね」

またも健介が呆れた、黒沼の拳銃。

トカレフだった。前時代もいいところだろう。

「構え方はなってないわ、撃ったところで当たるはずもないわ、拳銃自体も今どき使う人間の見当たらない旧式ときたら、もう素人そのもの、としか云えないな」

まるで何も知らない素人相手ならともかく、プロ相手には脅しにもならない。

高陽と健介の本音は、そこにある。

「熊狩士の、ま、前野高陽、と、熊撃士、の、村井健介、ですっ、て??」

ここで酒井が、やっと驚いたようにいった。どうやら、やっと呼吸が回復したらしい。

「お、お、オレら、オレらは、そんな大物を、相手にしちまったってのか?!?」

「どうりで、どこかで見た顔だと・・・・」

見た顔だと思ったら。そういいたいのだろう。だが、酒井も驚きのあまり、二の句が継げないようだった。

恐らく、マウント・ウルフのメンバーには、全国の熊狩士・熊撃士の顔写真も含めたデータが、組織全体に出回っているのだろう。

「覚えていただいてたとは、光栄だね」

「ボクら、思ってたよりも有名人だったようですけど、そうなんですか?」

健介がのんびり訊ねた。酒井と黒沼の、どちらにともなく、である。

黒沼がこれに答えた。

「ああ、テメェら、その通りだよ。ウチの組織内(なかまうち)じゃ、かなり有名だぜ。今までに、何頭ものクマを仕留めてる極悪人としてな」

「クマの保護、生態系の保全を理想に掲げる我々にとっては、アナタ方お二人とも、宿敵であり、天敵でもあるんですよ」

それにしても、と酒井が、つけ加えてきた。

「汚い、卑怯ですよっ」

「おいおい、何が卑怯なんだ?」

「だってそうでしょうっ。アナタ方二人とも、代名詞の狩猟太刀もワジマ式も、持ってないじゃないですかっ?!」

「あのですね、呑みに出る際にもいちいち、武器を持ち歩くわけじゃありませんよ、ボクらだって」

どこまで頭の中の都合がいいんだ。健介がそう、言いたげな顔になっていた。

「太刀も銃も、分かるように持ち歩いててもらわねえと、すぐにそのプロだとなんか、分かる訳がねえだろっ!?」

「そうですとも、おかげで、すっかり(だま)されたじゃありませんか。てっきり、素人だと思ったんですよ、こっちは?!」

酒井も黒沼も口々に喚くが、何とも手前勝手な理屈だった。

そもそもが、高陽と健介の顔を見知っていた。見知っていながら、すぐに彼らがそうだと気づかなかった、その時点で自分たちの不注意でありミスなのである。それを棚に上げ、まるで高陽と健介の所為(せい)にしている自体も、プロとは云えなかった。

もちろん、高陽らが武器を携行していなくとも、体格や身ごなしで見抜けなかったこともそうだと云える。

「あのなあ、それは、アンタらが悪い話しだろ?アンタらが少しばかり、間抜けだったってだけさ」

高陽が苦笑しつつ、(なだ)めるようにいった。

「うるさいっ!何が間抜けですかっ?」

酒井がヒステリックに喚きながら、あらん限りの雑言を言い立て始める。

ここまで来ると、(あわ)れみすら覚えるほど滑稽だ。そう言いたげに、高陽は呆れたように苦笑しながら見ていた。

その表情が突然に一変したのは、酒井がある一言を発した時である。

酒井は言った。

「そもそも、熊に襲われるようなことをしている、人間の方が悪いんですよ。襲われた結果、死んだとしても、自業自得というものだって話ですよ。彼らだって腹は減るし、その時に目の前にいる方が悪い。喰われる方が間抜けなんです・・・」

その瞬間だった。高陽が左の目尻をつり上げ、整った眉をひくつかせたのは。

いつになく寒気を覚えるほどの殺気が空間に膨れ上がるのを感じて、健介は思わず高陽の方を見た。

世にも恐ろしいものがそこにあった。その時、健介が目にした高陽は、それまでの健介が一度たりとも見たことのない、恐ろしい表情をしていたのである。

普段は冷静で、むしろ飄々としているマイペースな男。常に穏やかな笑みを浮かべていて、決して怒りなど面に出さない。そういう温厚な人間だと、そう思っていた。そのはずだった。

だが今健介の前にいる高陽は、知っている高陽ではなく、初めて見る表情を見せていた。

目尻が釣り上がり、左の眉がピクピクしているのに、目の奥に不気味な光りを(たた)えている。

そのくせ、口角も釣り上がっているのは、決して愉快なせいでなど、あるはずがなかった。

(い、いかん?!)

健介がそう直感した時には、もう遅かった。

高陽はやにわに、ツツっと酒井に近づいた。

急ぐようでもない、滑らかな足の運びであり、その拍子のまま胸倉を掴んだ。立たせた。酒井の体重を、まるで感じさせないスムーズさだった。

「な、何をっ??」

喚きかけた酒井の顔面に、高陽の右ストレートがめり込んだ。一瞬で鼻頭が潰れ、ゴキともバキともつかない、不気味な音が周囲に響き渡る。鼻骨が折れた音だ。

「がはああああぁっ!」

酒井が折れた前歯を飛び散らしながら、鮮血を悲鳴で吐き散らす。断末魔にでもなったかのように、また膝から崩れ落ちた。そのまま腰を折った形で、顔面からアスファルトの地面に突っ伏す。尻を持ち上げられた格好なので、かなりみっともないダウン状態になった。

「て、テメェ、こんな真似して、ただで・・」

ただで済むと思ってんのか?そう言いたかったのだろう。

文字通りに顔を潰された相棒の姿を見た黒沼が、青ざめながらも叫ぼうとしたが、高陽がそれを許さなかった。

酒井を沈めた一撃の返す刀で、顎を強烈に右足で蹴りあげたからである。

「っ!?!」

ウンともスンとも言わず、黒沼がひっくり返った。呻くことさえ出来ず、気絶している。

口元からの出血の具合で、顎が砕けているのは一目瞭然だった。

「あっ、ちゃあ・・・」

健介が、額を押さえながらため息をついた。

「前野さん、やり過ぎですよ」

でも、とつけ加えた。

「よりにもよってこの二人、前野さんの前では一番いっちゃあいけないセリフを、いっちゃいましたからね」

「当然、さ」

答えた高陽はもう、いつもの冷静な顔と声音に戻っている。

「熊に喰われるヤツの方が悪い、なんてことを、その被害者の遺族の前でなんぞ言ってみろ。オレじゃなくとも、八つ裂きにされるぞ」

これでも手加減した方だ。そう言う代わりのように、吐き捨てた。

「コイツら、怒り狂ってるヒグマの前に放り出してやりたいな、一回試しに」






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