追憶━━終わらない悪夢の始まりの終わり
天井から下がった鉤爪の先には鍋がかけられていた。
鍋の中身は熊肉と、マイタケ、白菜とともに秋田名物のきりたんぽが煮込まれている。熊肉鍋だ。
秋田駅前の、居酒屋の店内であった。
名物はところの地酒と熊肉料理という、地元の有名店である。
その店内の一角、テーブル席に彼らはいた。
「それが、さ」
高陽はポツリと呟くように、語り終えたところだった。
「四年ばかり、前のことになる」
目を閉じたまま、当時の記憶に蓋をするかのように、ぐい呑みの酒を呷っていた。
その高陽を見つめながら、放心したような面持ちの男が二人。
一人は村井健介だ。高陽の相方の熊撃士としての役割を、父親の健一から半年前に受け継いだばかりである。二十歳になったばかりの若者だが、幼少期から射撃と銃火器の取り扱いを健一に仕込まれただけに、ワジマ式や狩猟用拳銃の捌き方は既に熟練の域にあった。
ただ、ヒグマ相手の狩猟の現場経験はまだない。熊撃士の資格は二年前、高校生のうちに取得していたが、高校卒業と同時に秋田に修業に出されていたからである。
それが昨年、父が病に伏したことで呼び戻された。末期のすい臓がんで、余命三ヶ月。
父本人にも、家族にも、主治医はそう告知した。
父と高校で同級生だったという主治医は、父の性格をよく知っていたからである。
そして父は、自身が三年ほど担当した高陽の相方の役割を健介に託し、半年前に逝った。
「コイツのこと、よろしく頼むよ」
健一が高陽に最期、言い残したひとことである。
高陽の話のもとは、健介が高陽に訊ねたことがきっかけだった。
「なぜ前野さんは、熊狩士になったんですか」
その質問の答えが、先ほどまで高陽が話していた内容であり、裕子を亡くした経緯だったのである。
(聞くんじゃ、なかった)
健介はいま、聞かなくてもよかったことを訊いてしまった、と猛烈な後悔を噛み締めていた。親父もこういうことぐらい、話してくれればいいのに。知ってたら、知ってさえいれば、訊かなかったものを。
おかげで本人に、思い出したくもないものを思い出させちまったじゃあないか。
「そうかね、そんなことが・・・」
高陽の過去を聞き終えた、もう一人が苦いものを噛んだ顔で呟いた。
こちらは顔に深い皺の刻まれた老人である。年の頃は八十に届いたばかりというところか。
桜葉幸三、熊撃ちの世界では伝説的な人物であった。「阿仁マタギ」の通称で知られる、秋田県北秋田市大阿仁地区のマタギ集団で長年「シカリ」と呼ばれる親方を務めた、山歩きの生字引である。
熊撃士の資格は持ってはいないが、阿仁の山のことなら知らないことはない。そう断言していい老人だった。
熊のねぐらや習性、魚の取り方、茸や山菜の自生している場所。鹿や狐、ウサギやイノシシといった熊以外の獣の通り道など、全て知悉している。
この日の昼間、高陽と健介は幸三を訪ねて秋田入りしていた。幸三に、熊狩りに関しての意見を求めるためである。
秋田に修行に出された健介は、この幸三を師匠と仰いで教えを受けた。この阿仁地方を始めとした秋田や東北の山々での狩りの方法を。山での生き方、考え方などのマタギとしての心得の全てである。
その幸三が、目尻の皺をさらに深くしつつ高陽に訊ねた。
「アンタ、まさか、その裕子さんの仇をうちたくてなったものなのかね?熊狩士に」
高陽は伏せていた細い目を、幸三に向けた。
目の奥に静かな、だが妙に据わった感じのする光りがあった。こういう目を、幸三はその長い人生で何度か目にしたことがあった。
(どうやら図星じゃな。しかし若いが既に本物の、マタギの目をしとる)
幸三が見たことのある、そういう目。すなわち、本物の修羅場を知る者に特有の目だった。口元では笑っていても、目尻に笑い皺がより笑い声をたてはしても、その奥に感情が読み取れることは決してない。一切の感情を、過去のどこかに置き去りにでもしてきたかのような目である。見ようによっては、氷のように冷たい目でもある。だからこそ、怒らせるとより、恐ろしい目だといえた。
見かけはどうでも、本当に恐い漢の顔を形作るメインのパーツであった。
その目のまま、高陽は笑みを浮かべた。
「やっぱり普通は、そう思いますよね」
そうですよ。その通りです。
感情を消した目のまま、静かな声音で高陽は、やはり静かに肯定した。
健介が素朴な疑問を口にした。
「しかし、仇とはいっても、そのヒグマはもう駆除されてるんじゃ・・・・」
「いや、まだだ」
今度は健介の方に向きながら、即座に首を振って見せた。
「ヤツはまだ、駆除なんかされていない。今なお生き延びて、北海道中を股にかけて暴れてるんだ。まだヤツが生きてるかぎり、オレの戦いは終らないんだよ」
ここで高陽の声には、微かに感情が混じり始めた。それは紛れもなく、怒りであり、哀しみであり、悔しさでもあり、そして憎しみももちろんあっただろう。いくつもの感情が複雑に絡み合っているはずだった。
しかも心なしか、目の奥に不気味な光りが宿っているようにも見える。感情は見事なまでに相変わらず、ない。それだけに余計、凄みが感じられる目に変わっていた。
「まだ生きてるって、何か手がかりになるものはあるんですか?案外もう、広い北海道の原野のどこかで死んでるかも・・・・」
「死んだなんて話しは、聞いたことがない。
何よりも逆に、目撃情報をいまだに、年中耳にするんだ」
健介の疑問を遮りつつ、高陽は話しを続けた。
「紅隻眼、こう言えば、分かりいいんじゃないか」
「紅隻眼?!あの紅隻眼ですか?前野さんの追ってる裕子さんの仇のヒグマってのは、アカカタメのことなんですか?」
「何と・・・・・・・」
健介の驚く声と、幸三の絶句する声が被った。
「あの、北海道中で、人と言わず家畜と言わずに喰い殺し、全道にヒグマ唯一の指名手配にもなってる凶悪羆がか。アンタ、よりにもよってとんでもないヤツを相手にしとったんじゃなぁ・・・」
幸三が、何かを噛むように呟いた。そのまま、ぐい呑みのどぶろくを一気に呷った。
「知っての通り、ヤツの、アカカタメの名は、日本中の熊狩士や熊撃士、ハンターの間では知れわたってる。知らんなどと言ったら、そいつはモグリだと思っていい」
高陽の説明を聞きながら、健介は生唾を呑み込みつつ僅かに武者震いした。興奮してきたのだ。
高陽が続けた。
「ヤツは道内中そこかしこ、至るところに神出鬼没に出現しては、駆除に挑んだハンターや警察官をことごとく、返り討ちにしてる。
今やその名はある意味、恐怖の代名詞だ。
今のところ、そのアカカタメに最も深い傷を負わせたのは・・・」
「裕子さん、という訳じゃな。何しろ、ヤツの通り名の語源になる傷をつけたんじゃからの」
幸三が高陽にいわせるまでもなく、代わりに肯定で説明した。
高陽が肯く。
「アカカタメ。ヤツの右目を打ち抜き、片目にしたのは、裕子さん・・・」
健介が震えを帯びた声で呟いた。
「そう、体毛や血痕などのDNA型から、他にもヤツと断定出来るものはある。だが、センパイに潰された右目が、ヤツを見分ける何よりの目印になってもいる。なぜに紅く爆ぜ割れたような傷になったのかは、オレにも分からんが、ね」
これに幸三が、自分の推測を口にした。
「恐らくそれは裕子さんの、執念のようなもののせいででもあったんじゃあ、ないかのう。ワシには、そうとしか思えんのじゃが」
「ボクもそう思います。だって裕子さん、前野さんと婚約して、幸せの絶頂だったはずです。いくらヒグマが相手でも、生きて帰ろうともしたはずですから」
健介も同調する。声が興奮で、やや上擦っていた。
「センパイの銃弾に、どれだけのパワーが・・・・・」
高陽は呟きながら、上着の内側から、ゴソリと音を立てて拳銃を引き抜いた。裕子の形見、グロック27である。
裕子亡き後、高陽は常に一発だけ弾倉に入れた状態で、これを携帯していた。
亡き恋人の代わりに常に抱いていたい、などという女々しい感情などでは、もちろんない。
いつか紅隻眼に出会い、対決したその時、止めに撃ち込むためだった。
「ヤツは、ヤツとの決着は、センパイのこの銃でつける」
オレたちの想いの全てを、叩き込んでやる。
それが、オレとセンパイの、ヤツへの復讐だ。人間様をナメまくりやがって、思い知らせてやる。
高陽が叫ぶようにいった。酒に酔ったせいでそうなっている訳ではない。彼なりの、魂の叫びだった。
「付き合いますよ」
健介が思わず立ち上がり、いった。
「ヤツを仕留めるまで、ボクも」
裕子さんの無念、ボクも晴らしたくなりました。
健介が両手で、高陽の右手を取りながらいった。下の瞼に、涙が浮かんでいる。
嘘や勢いなどではなく、感動しただけのようでもない。本気で決意した証だった。
(こりゃあ、やれるかも知れんな)
この二人なら。幸三は満足気に、口元にぐい呑みを運んでニンマリした。
(日本中の熊撃士やハンターの多くが、その名を聞いただけで尻込みする凶悪羆。本当に近いうちに、この二人が仕留めたニュースが聞けるかも知れんて)