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終わらない悪夢の始まりの始まり

その日━━━━━━━━

支笏湖(しこつこ)周辺の空は、どんより曇っていた。

雄大な自然に囲まれたこの地は、札幌市内から車で一時間と少々あれば来ることができる。そのため観光シーズンともなれば観光客のレンタカーや、ツーリングのバイクの往来が多くなり、静かな湖畔とはいえない。

しかし秋も深まりかけた11月ともなれば、やはり交通は少なくなっていた。

湖畔のとある場所に、一軒のペンションが建っている。三階建てだ。

駐車場の入口、立木に板を打ちつけただけの看板がある。ピンクやら黄色やらのカラフルな文字で手書きされた、素朴な看板だった。

「ペンション・レークサイド美笛」とある。

そのペンションに、夕方になってから訪れた若い女の姿があった。

スラリと伸びた長い脚はモデルを彷彿とさせ、ブルーの細身デニムパンツがよく似合っている。フライト・ジャケットを模した紺の上着の下には、薄い白のセーターを着込んでいた。上着の前は閉じていたが、それでも胸元の豊かさが隠せていない。

何よりも女は、誰が見ても一目で分かる美人だった。目鼻立ちが整い、口元に意志の強さが表れた唇。肩で揃えた、セミロングの黒髪。年の頃は二十七、八才というところか。

身長は165センチほどだろう。

榊裕子だった。道警捜査一課の若き女刑事にして、前野高陽の年上の恋人である。

さらにいえば、高陽からプロポーズされたのが三ヶ月ほど前であり、正確にいえば今はもう、婚約者(フィアンセ)というべきだった。

裕子が、格子(こうし)にガラスがはまった木枠のドアを引き開ける。フロントに向かうと、眼鏡をかけた中年の女が出迎えた。

「いらっしゃいませ」

年の頃は三十半ばくらいか。やや肥満気味だが、笑顔に嘘が感じられない、明るい印象を与える女だった。

「予約してた榊です」

裕子がいつもの、涼風を思わせる微笑とともに名乗る。

「前野さまとお二人さま、二泊でよろしかったでしょうか」

女がニコりと頷いて、確認するように裕子に聞いてきた。

「はい、ただ、連れは後から来ますので」

裕子が笑顔で肯定しつつ、高陽は遅れて来ることを伝えた。

この日から二泊三日の予定でこのペンションを予約したのは、他でもない高陽だった。

「どうせ職業柄、のんびりハネムーンなんかできない。だから結婚前に一度、二人で小旅行と洒落込(しゃれこ)むとしようか」

そう言って、二人揃って三日間の休暇を取ろう、などと言いだしたのが、二ヶ月前のこと。そのあとが大変だったのは、裕子である。

何しろ一課の刑事がまとまった休暇を取るのは、ほぼ出来ないといっていい。ただでさえ普段から多忙なのに加え、一旦事件でもおきようものなら休みなど皆無に等しいからである。この休暇を取るために裕子がどれほどの仕事量をこなしたかは、高陽でなくとも()して知るべしだった。

(全くもう、他人事だと思って簡単にいうんだから)

裕子は正直、心中で高陽を軽く呪ったものである。

受付の女がルーム・ナンバーを告げながら、部屋のカギを渡してくれた。

「榊さま、ウェルカム・ドリンクは、何になさいますか」

「コーヒーをお願いします」

「かしこまりました。後ほどお部屋にお持ちいたします。わたくし、斉藤が(うけたまわ)りました」

斉藤から、ごゆっくりどうぞ、という明るい声を送られながら、裕子は二階への階段を上がった。手には大きめの旅行カバンが一つ。

二階の角部屋だった。窓の外には、原生林が

すぐ近くにあるように見える。

木製のドアにカギを通し、ノブを回す。

部屋に入ってすぐ目に入ったのは、奥の窓だった。ピンクのカーテンが閉められており、部屋内が薄暗くなっている。

裕子は先ず、奥の窓のカーテンを開けた。窓の外には、窓から直に飛び移れるかと思うほど近くまで、原生林が迫っていた。

どうやらペンションの裏山をそのまま、防風林として利用して建ててあるらしい。部屋に入って左手すぐは恐らく、ユニット・バスだろう入口のドアがあった。

奥の窓の対角線上、左手にも窓があり、その前にはセミダブル・ベッドが置かれている。

ベッド前の窓の向こうには、支笏湖を一望できる景色が広がっており、まさに絶景だった。

(婚前旅行で二泊するには、いい部屋だわ)

裕子は独りごちながら、フライト・ジャケットを脱ぎ、ベッドの上に投げ置いた。

薄手の白セーターが、裕子の肢体の豊かな曲線美を際立たせている。

だがそれ以上に彼女のボディ・ラインを強調していたのは、彼女の両脇に通された、革製の武骨な留め輪であり、その輪から背中に伸びたたすき掛け状の皮のベルトだった。

拳銃を携帯するための、ショルダー・ホルスターであった。当然、左脇には拳銃が差し込まれており、反対側の右脇には予備の弾倉が三本差してある。

裕子は上着に続いて、ホルスターも外した。両脇を挟んでいた重量物から解放されたことで、彼女の豊かな乳房が僅かに揺れた。

そのホルスターをそのまま、部屋の中央のテーブルの上に置く。テーブルをはさむように置かれたソファの片方に腰を下ろし、裕子はホルスターから拳銃を引き抜いた。

ホルスター同様の武骨さを持つ、鈍く鉛色に光る銃身が姿を表した。

グロック27である。40S&W弾を使用する、スイスの銃器メーカー「グロック社」製の小型拳銃だ。各国の警察が採用している、いわば警察の「御用達」であり、開発から半世紀以上を経た今なお、もっともポピュラーな拳銃と云える。

素材には強化プラスチックなどの非金属部品も多用されており、従来の拳銃に比べて軽量化されていた。

元々は9mm弾とも呼ばれる9✕19mmパラベラム弾を使用する大型自動拳銃「グロック17」の超小型化版として開発された「グロック26」が元となっている。この「グロック27」はその「40口径バージョン」となり、装弾数は9発。

ただでさえ元々軽量な拳銃のミニマム版なので、女性の裕子にも扱いやすい代物と云えた。しかしながら、強力な40S&W弾を使用することに変わりはないため、実戦となればやはり頼りになる。それが裕子がこの拳銃を愛用している、一番の理由だった。

装弾数が15発ある、グロック17の40口径版グロック22用の「オリジナル弾倉(マガジン)」を使用する手もあるが、裕子はあえてそうしていない。マガジンの下部に、小指を握り締められるように取り付けられた「フィンガー・チャンネル」のデザインが気に入っているせい、でもはある。だがマガジンが大きくなれば当然、携帯時にかさ張ること、この上ない。

何よりも、裕子がもう一つ、この拳銃を選んだ理由がある。

それは、9発以上は必要ない、ということだった。

例え、相手が大型自動拳銃だろうと軽機関銃(サブマシンガン)だろうと、9発あれば何とかなる。裕子が自分の射撃の腕に、絶対の自信と自負があったればこその選択だった。

もちろん、射撃の腕で鳴らす捜査一課の刑事としての矜持(きょうじ)もあったからである。

裕子はマガジンを外し、残弾を確認した。9発、きっちり込められている。弾丸は使用した都度、必ず補充しておく。いつ如何なる場所で、拳銃を使用することになるか分からない立場である以上、必須の心得といえた。

マガジンをグリップに装填し直した、その時である。

部屋のドアが二回ノックされた。

「どうぞ」

裕子が答えながら、グロックを腰のベルトに挟んだ。正面からは見えないよう、右の後ろ腰にである。

「失礼いたします、コーヒーをお持ちしました」

斉藤の声だった。

裕子はソファから立ち上がると、ドアの方に歩み寄った。恐らく斉藤の両手は、コーヒーを載せたトレイで(ふさ)がっているだろう。

そう思ったがゆえの配慮だ。

裕子がノブを回してドアを開けた。

部屋の入口にやはり、トレイを両手でもった斉藤の姿があった。キチンと豆を引いて()れたらしい、豊かなコーヒーの薫りが鼻をついた。

「お待たせいたしました」

斉藤が笑顔でそう言った、その時。

裕子に向けられていた斉藤の視線が、不意に裕子の肩越しの背後に向けられた。と同時に、「ひっ??!」と一瞬で表情を引き()らせ、両手で持っていたトレイを落としたのである。 

トレイが床に落ちてけたたましい音を立てる

のと、斉藤があらん限りの絶叫を上げたのも同時だった。

裕子は反射的にグロックを引き抜きながら振り向いた。むろん、後ろを向いた時にはもう右腕をまっすぐ伸ばし、銃口を前方に、とりあえずだが向けている。何かを、なぜかなどと考えているひまはなかった。

その視界の先にそれは、いた。

窓の外、すぐの所にだった。

先ず視認できたのは、顔であり、血走った両眼だった。

次いで、黒い鼻先、さらに開いた口と、口腔から(のぞ)く、凶悪極まりない白さの牙。

口辺からは(よだれ)を流し、腹が()いていることが一目瞭然の顔だった。

ただし、それは人間の顔などではなかった。

その顔面全体を(おお)う、まがまがしい黒い体毛から、北海道の住民なら誰もがすぐにそれと認識するだろう生物であり、猛獣の顔。

そう、ヒグマだった。

裕子が目にしたのは、ヒグマの顔だったのである。

全身の血が一気に冷えきった。同時に咄嗟(とっさ)に、グロックのスライドを引いて薬室に弾丸を送り込む。

窓外のヒグマの眉間に、銃口を再度伸ばす。

裕子はグロックを両手で構えるなり、叫んだ。一瞬で口中が干上がるのを自覚していた。

「奥の方へっ、急いでっ!!」

一課の刑事として、数多くの修羅場を経験してきたからこその、本能だった。

どうやら、それが合図になったらしく、窓外のヒグマがやにわに、右手を振り上げた。

と、思う間もなくそれは、驚くほど無造作に振り下ろされていた。

窓を外から覆っていた鉄の格子が、次いで二重窓が、さらにはその回りの壁が破壊されるのが、コマ送りのスローモーション映像のように流れていく。

一拍遅れて初めて、凄まじい轟音が響いた。

それを耳にした時には既に、裕子は夢中でグロックの引金(トリガー)を引き絞っていた。

考えているひまは無かった。

ドン、ドン、ドン、ドン、ドン。

裕子のたおやかな右腕がグロック40口径弾を、撃つ、撃つ、撃つ。

ヒグマは銃声と、大口径弾のパワーに押されることなく、突進してきた。

身の毛もよだつような、凄まじい獣声を上げながら。まさしく、獰猛(どうもう)な暴力そのものだった。

裕子はここに至って初めて、自分が置かれたのっぴきならない状況を理解していた。

恐怖を、自覚している。逃げれるものなら、逃げたい。だが、逃げられない。

後ろでは恐らく、斉藤が腰を抜かしているのだろう。彼女の引きつったような悲鳴が聞こえていた。

(一般市民がいるのに、自分だけ退避はできない)

警察官として、裕子には使命感もある。

最低でも、斉藤だけは逃さなくてはならない。

一瞬でそこまで、裕子の思考は回っていた。

裕子がさらに、ヒグマの顔面めがけてグロックの引金を引き絞る。

ドンっ、ドン!

40S&W弾が2発、ようやくヒグマの右目にヒットしたらしく、赤い血飛沫が上がった。同時に、腹の底にひびくような叫びがヒグマの口から吐き出され、ヒグマの動きが一瞬止まっていた。

(や、やったの?!)

裕子が一瞬、疑問を持ったのも無理はない。

通常の拳銃弾では、熊や虎といった猛獣には、よほどの至近距離で撃たないかぎり効果はないという。

それも、357マグナム弾以上の大口径でなら、という話だ。一般的に狩猟用拳銃(ハンティングハンドガン)と呼ばれるのは、俗にマグナムといわれる強力なものである。

しかも猛獣を相手に通常、それだけの至近距離で発砲するのは、滅多にない状況だといえた。ライフル弾で仕留めた後の、止めに撃つ場合を除いて、だ。

つまり、猛獣狩りの際に拳銃を使用するのは、=(イコール)相手に接近を許してしまった極めて危険な状況であり、いつ反撃を受けるか分からない状態といえるのである。

裕子はいま、かつて経験したことのない緊張感を覚えていた。

どんな巨悪犯と対峙しようと、激しい銃撃戦になろうとも、ここまで呼吸もままならなくなったことなど、ない。

二年前には、札幌市内の銀行に押し入った上、行員や居合わせた客を人質にとって立て籠もり、男性行員を四人射殺、女性行員三人を強姦するという暴虐のかぎりを尽くした極悪犯を、一切の躊躇(ためら)いなく射殺してもいる。

この時の犯人は政界の大物の縁者だったことから、道警上層部が逮捕に慎重になるあまり、解決が長引いた経緯があった。

その結果があの惨状に繋がったのであり、上層部の連中があたら我が身可愛さのあまり、犯人に連なる大物に下らない忖度をしすぎた故の、救いようのない事例ではあった。

だが裕子はその状態を、ただ一発の銃弾で文字通り、撃ち抜いてみせたのだった。

その時に裕子が使用していたのも、今日と同じグロック27であり、40S&W弾である。あの日のあの時と同じ拳銃をつかいながら、あの時には決して覚えなかった感情をいま、裕子は抱いていた。

それはつまり、一言で「恐怖」、そのものだった。その、かつて味わったことのない恐怖が、彼女の神経を(たか)ぶらせ、同時に鈍らせてもいたのだった。

それでも、さすがは捜査一課の刑事である。迷いは一瞬で振り払えた。追撃の銃弾を打ち込もうとした、その時だった。

「ひっ、ひぃいいぃっ」

後ろでまだ、斉藤が腰を抜かしたまま逃げられていないのに気づいた。

「早くっ、逃げてぇっ!?」

裕子がグロックを両手で構えたまま、叫ぶ。一瞬だけ、前方のヒグマから視線を(そら)した。

そう、ほんの一瞬だけのはずだった。

裕子が見せた、ほんのわずか一瞬の()き。

だが、この狡猾で凶暴な野生動物は、その隙きを見逃したりはしなかったのだった。

裕子が後ろの斉藤に向けた注意を、再び前方に向けた、まさにその時。

それは、突然だった。

ヒグマの右手が不意に、急ぐでもなくノロノロと持ち上がったのである。特に攻撃の意図など感じさせない、まるで友人に対して手を挙げるような軽さだった。

と思われた、その刹那(せつな)

ヒグマの右手が、恐ろしい急激さで伸びてきた。さっきまでのスローモーさが、信じられない。まるで武術の達人ででもあるかのような、恐るべきズルさを伴う、錯覚を起こさせる一撃と云えた。

悪魔のようなずる賢さだった。

裕子ほどの敏腕刑事をして、つい、攻撃の意図はないと錯覚させられてしまった。

そのため、反応がどうしても、一瞬遅れたのである。

裕子が、はっ、としてグロックをさらに二発撃つのと、裕子の左肩をヒグマの右手が(えぐ)ったのが同時。

ドン、ドンっ!

裕子が銃声を聞いたのと、左肩に得体の知れない重さを持った、熱風のような熱さを感じたのも同時。

ここで、ヒグマが獰猛な、耳を()()くような咆哮を上げた。

耳にしただけで身の毛もよだつ、とはこういう雄叫びを言うのだろう。

たまらず裕子は、吹き飛ばされていた。

吹き飛ばされながら、裕子の視界は、ヒグマの右目を捉えた。右目全体が()ぜたように紅く染まっている。確実に右目は潰したようだ。次いで、自分よりもさらに向こうに飛んでいく白い物体を二つ。

一つは長い。

もう一つは、小さな固まりだ。

視認する間は与えられなかった。

フローリングの床に、叩きつけられたからだ。

右の肋骨を強打した。

━━(つう)っ━━

思わず呻いた裕子が、左手をついて立ち上がろうとした。

立ち上がれない。

左手の感覚が、ない。

自分の左手に目をやった。

信じられないことになっていた。

左手どころではなかった。左腕そのものが、ない。肩の付け根から、引きちぎられて無くなっている。

左肩と左胸のあたりから、しきりと血が流れていた。

声にならない絶叫をあげながら、裕子は先ほどチラリと見た白い長いものを確認していた。

今度は確かに視認できた。

自分がいま着ている白いセーターの片袖がついたままの、片腕。

見覚えのある婚約指輪が、指に光っている。

間違いようはない、裕子の左腕だった。

ここでようやく、絶望感を伴う激痛が全身を駆け巡った。

失神しそうになりながら、それでも裕子は、まだ確認していないもう一つの白い物体を探した。

あった、あれだ。

あれは、体のどこかの、肉の一部だ。

どこの肉だろう?

え、何だろう、あの真ん中の紅い突起は?

え、何?まさか、あれは、アタシの、胸?

裕子が視認したのは、左腕同様の、残酷な現実だった。

そう、もう一つの小さな白い物体、それは、

左腕と一緒に千切れ飛ばされた、裕子の豊かな左乳房に他ならなかった。

狂いそうなほどの怒りが湧いた。

よくも、アタシの、オッパイを、女の印を。

だが裕子にはもう、その怒りをヒグマに向ける余力は残されていなかった。

全身を支配する激痛に加え、左半身からは(おびただ)しい出血。

グロックを撃つどころか、動く力さえ、残ってはいない。

出血と激痛で薄れゆく意識の中、裕子はぼんやり、ヒグマの行動を見ていた。

ヒグマはもう裕子が反撃してくることはないと、分かっているらしい。

心なしか、口元に勝ち誇ったような、余裕の笑みが浮いているように見えた。

(悔しいか)

ジロリと動いた左目が、そう言っているように感じる。

(無様だな)

嘲笑(あざわら)うように、やたら緩慢な動きをしていた。

やにわに身を屈めて、小さな肉片を(くわ)えたようだ。それが、見えた。

ヒグマの牙の間から、落ちていた裕子の左乳房が覗いていた。

見せつけるかのように、わざとゆっくり咀嚼(そしゃく)し始める。

まるでガムを噛むような、クチャクチャという音が、破壊された部屋中に響いた。

「や、めろ、アタ、シ、の、むね、を」

食うな、といいかけた裕子だったが、声にならない。声が既に出なくなっていた。

もう、その余力もないほどに、血を流しすぎていたのである。

ヒグマは次に悠々と、裕子の左腕を咥えた。

バリバリと骨を噛み砕く音が聞こえ始める。

これ以上ない、残酷な現実の告知といえた。

裕子はその光景を、まるで別の世界の出来事のように、ぼんやり見ているしかなかった。

意識が、途切れそうになる。

薄れゆく寸前の意識が、階下に階段を駆け降りていくらしい足音を捉えた。

斉藤だろう。恐らく転がらんばかりに、いや、転がるように逃げおりているはずだった。

(良かった、逃げ切れそうね)

裕子が僅かに、安堵したのは救いになったのだろうか。

(コウ、お願い・・・)

ここで初めて裕子は、高陽を、高陽の顔を思い浮かべた。

この前のデートからそれほど時が経っているわけではない。昨夜も電話で話したばかりである。

にも関わらず、ひどく懐かしさを覚えていた。何だか無性に、高陽に会いたかった。

(た、す、けて、コウ・・・)

それが裕子の、最期の意識だった。

己が後頭部、白いシルクのような肌触りの裕子の首すじに、鋭利なヒグマの牙が突き立てられた感覚。それを自覚した時には、裕子の意識は今度こそ、闇に堕ちていった。

後は、死を受け入れるだけだった。


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