女スナイパー、絶対絶命のち、性懲りもなく濡れる
麻里絵の白いうなじに、汗が光っていた。
冷や汗であり、粘ついた嫌な汗である。
久々の感覚だった。
間違いなく、つい先ほどまでは絶対優位の状態だったはずだ。
それが一転、逆に圧倒的不利に変わってしまっている。
もう少しで村井健介を、国内最高の熊撃士のひとりとも言われる男を仕留めることが出来たはずだった。
それがどうも、そのことに夢中になりすぎたあまり、ここに姿を表わす確率の高い健介の相方の存在をすっかり失念していたものである。
そう、その確率を常に考え、計算に入れておくべきだったのだ。
それを怠った故に、今、麻里絵はのっぴきならない状況に立たされていると言えた。
前には手負いとはいえ、村井健介。
後ろには、これも右腕が使えないようではあるが、やはり国内最強の呼び声高い熊狩士、前野高陽。
まさに、前門の狼に後門の虎、というやつだった。
(何ともスリリングじゃない)
思わず息を呑みながら、麻里絵は己が左後ろの首すじに冷たい刃の感触を自覚した。
前では、口元の血を拭いつつ立ち上がった健介が、拾ったワルサーを改めて突きつけている。
むろん、愛銃ワルサーP99だ。
この上ないほど、身動き出来ない状況である。間違いなく、生命の危機そのものだった。
にも関わらず、実は麻里絵の心中でもう一つ、燃え上がっている感情がある。
そしてそれは、おおよそ戦いの最中には似つかわしくない、場違いな感情と云えた。
何を想っているというのか。
その答えは、彼女の股間に表れていた。
下着の中央に、濡れ沁みが出来上がりつつある。妙にムズムズする。
それでいて、身体が熱く、火照り始めていた。
(ああ、いっそのこと、この二人とも・・・)
麻里絵は強烈な興奮を覚えていた。
つまり、欲情である。
目の前の男二人、いっそのこと、抱いてしまいたい。
それが正直なところだった。
そう、麻里絵は戦いの最中だというのに、性欲を覚えていたのである。
高陽と、さらに健介にだった。
「真正の婬乱、か」
高陽が聞いたら、そう言って呆れるだろう。
「いるんですね、変態って・・・」
健介がため息をつきそうである。
そして恐らく、まともに誘われたら二人とも、はっきりと告げるだろう。
「ノーサンキュー」と。
(だから何よ)
正直、知ったことではない。
目の前に腕の立つイケメンが、二人もいる。
彼らと、戦り合い、交わり合いたい。
強烈に、濃厚に。
一言で、ヤリタイのである。
どちらも麻里絵の、大好物と云えた。
(ダメ、濡れてきた・・・)
麻里絵はそろそろ、我慢の限界である。
色々な意味で。
もう我慢できない、やりたいやりたいやりたい、ヤリアイタイ、それしか考えられなくなってきた。
でも、どうしようかしら?
このまま下手に動いたら、毛すじほどの動きでもしようものなら、愉しむ前にあの世行きだわ。
この二人、さすがにそれを見過ごすほど、甘くはないはずよね。
そこはプロだもの。
彼らがフェミニストだとは、聞いたことがない。
リアリストとは、聞いてるけどね。
麻里絵の思考がそこまで一周した、その時だった。
「キャアあァっ?!」
病室のすぐ外、入口のあたりで若い女のものと思しき悲鳴が上がった。
麻里絵の位置からでは分からないが、どうやら廊下を歩いてきた女が、この様子を目にして叫び声を上げたらしい。
「ひ、ひ、人殺しぃっ?!」
引きつった声が、震えていた。
一瞬、という間もないほどのわずかな間ではあった。
しかし、そちらに気を向けざるを得なかっただろう、わずかなそのコンマ数秒にも満たぬ間。
高陽と健介でも、そして麻里絵と言えども、つい、気を取られた。
高陽と健介にとってはアンラッキーこの上ない瞬間であり、麻里絵にしてみれば、その逆でしかない。
すなわち、生き死にの境すらかかっていたと言えよう。
そして仮にもプロだからこそ、この隙を逃す麻里絵ではあるはずがなかった。
麻里絵は咄嗟に拳銃を左手に持ち替えるなり、腰を捻って右の裏拳を高陽に繰り出した。同時に腰の回転を活かした左の足刀で、健介の拳銃を跳ね上げる。
「ちぃっ?!」
舌打ちしつつ高陽が咄嗟に頭を低く沈め、麻里絵のバックハンドブローを躱す。
しかし、さすがの高陽といえども、第三者の目前でナイフを振るのはやはり憚られたと云える。
躱すのがやっとで、麻里絵の首すじに当てがっていた刃先を引くまでは、さすがに出来なかった。
健介は健介で、麻里絵の横蹴りをまともに喰らうほど間抜けだったわけではない。
「くっ!?」
そこはさすがで、咄嗟に伸ばしていた両手をたたみ、拳銃を飛ばされるのを防ぎはした。
だが、再び構え直すまでの、わずかなタイムラグが生じるのまではやむを得なかったと言うべきだっただろう。
麻里絵が狙っていたのは、むしろそのタイムラグであり、本当に健介の銃を蹴飛ばせると思っていたわけではない。
そのタイムラグの間に麻里絵は躊躇うことなく、脱兎のごとく身を躍らせていた。
健介の右方の窓ガラス目がけて、一切の迷いなく。
この状況ては、何をしても、自分が不利でしかない。だからこそ、先ずは逃げるしかない。
命がありさえすれば、また狙う機会はあるというもの。そう判断したゆえである。
窓ガラスを突き破るけたたましい音と、麻里絵を追うように伸ばした拳銃を、健介が連射したのが同時だった。
ダンっ、ダン、ダンっっ!!
健介の銃弾は割れた窓やガラスに遮られたらしく、手応えがなかった。
麻里絵のバックブローを躱した高陽は、麻里絵が窓ガラスに跳躍した瞬間には、廊下に素早く目を走らせて悲鳴の出所を確認していた。
どうやら本物らしい女看護師が、目を見開いて立ちすくんでいる。
視界の端でそれを確認するなり、高陽はランボー・ナイフを投げた。左手で、である。
ナイフは麻里絵にヒットすることなく、麻里絵の消えた窓の脇、内壁に突き立った。
(やはり左手では、無理があったか)
とりあえず投げた意味合いが強かったとはいえ、思わずため息をついた高陽は、すく女看護師に向き直り、資格証を提示した。
むろん、熊狩士の資格証である。
「警察を呼んでいただけますか、事情と経緯の説明は、こちらでしますから」
高陽の資格証を見て、大体の事情を察したらしい。恐らくはまだ二十代前半だろう痩せ形の女看護師は、とりあえず頷きながら駆け出した。
最寄りのナース・ステーションにでも向かったのだろう。
看護師が走り去ったのを見届けた高陽が窓際に駆け寄ろうとした時、外を確認していた健介が振り返るなり首を横に振った。
「前野さん・・・」
笑みが苦い。
逃げられた、ということらしかった。
「スゲえ女だな、アイツ」
高陽が呆れ半分で感心した時には、健介はもう、ベッドに手錠で繋がれたままだった恋人に駆け寄っている。
「秋菜っ、大丈夫かいっ?!」
口を塞いでいたガムテープを先ず、剥がした。
「・・・・ケンちゃん・・・・」
言葉にならない様子の秋菜の手錠を、同じく駆け寄った高陽が瞬く間にあっさりと外していた。
さすがは元警察官である。鍵がなくても外せる方法を、高陽はよく知っていたのだった。
「どうやら怪我は、ないようだ、な」
高陽の問いかけに頷くより先に、秋菜が健介にしがみつく。
大きな瞳に、たちまち涙が溢れ出した。
「ケンちゃああぁんっ、怖かったよおぉっ!!」
もはや身も世もなく、号泣し始めた。
泣き声に加え、涙と鼻水が混じり合い、目も当てられない。
うえーんえんえん、という当て字がピタリとはまる、そういう泣き方だった。
こうなった若い女は、もう思う存分泣かせてやるに限るだろう。どんな言葉も、耳には入らない。
秋菜を抱きしめながら健介が、その背を、髪を撫でてやった。
よしよし、と、子どもをあやすかのようだ。
「それにしても、ここ、確か八階だぞ?どうやって逃げたんだ、あの女。アイツだろ、ダーティ・マリー、ってのは」
高陽が冷静に尋ねるのに、健介が答える。
「それは、追々(おいおい)、説明しますよ」
それはもう、凄かったですけどね、それより、と続けた。
「前野さんこそ、どうしたんですか、その右腕?」
せっかくの背中の熊斬り太刀も、それじゃ抜けないじゃないですか?
健介の目がそう問いかける気配を察し、口に出される前に、高陽も答えた。
苦笑とともに、である。
「それも追々、説明するよ」
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八階から飛び降り、腕時計に内蔵していたワイヤーを街路樹に引っ掛けて落下の衝撃を殺した。
その上で、街路樹の中にあらかじめ停めておいたハーレーに跨り、逃げおおせたものである。
その張本人の麻里絵は、宿泊していたホテルの部屋でシャワーを浴びていた。
(・・い、痛っ・・)
豊かな胸を撫でた瞬間、思わず左乳房の乳首の近くを押さえる。
白い乳肉が、一部分だけ、内出血を起こしたようにアザになっていた。
健介のパンチを入れられた、その箇所である。
(思ってたより、やるわね)
正直に感心していた。今更ながら、だが。
あの時、健介は突いた部分が部分だけにまるで手応えを感じなかったのだが、麻里絵の方はそうではなかった。
彼女の胸は、健介の拳で一時的に確実に、抉られていたのである。
それを健介に悟らせなかったのは一重に、麻里絵の乳房が見た目より筋肉質で弾力があり、芯の部分から押し返すような張りがあったからだったのだが。
(もう、一箇所よね)
麻里絵は右頬も、押さえるように洗い流していた。
こちらは薄く短い、ごく小さな傷が出来ている。切り傷だ。
誰あろう、高陽につけられたものだった。
高陽に振り向きざまにバックブローを入れようとして躱された、あの時に他ならない。
実はあの瞬間、高陽は決して狙ってやったわけではなかったのだが、躱す時にわずかに、ナイフを引くように振っていたのである。
これも高陽には、手応えを感じられない程度のものだったが、麻里絵の顔についた傷が全ての結果を物語っていた。
「いい女の顔に、肌に傷をつけたのは、高くつくわよ」
バスルーム内に思わず独り言が洩れた。
形相が、凄いことになっている。
一言で、夜叉と言うにふさわしい顔だった。
(それにしても、前野高陽、確かに右腕を三角巾で吊っていたわ。あの状態じゃ確かに、熊斬り太刀も使えなかったからでしょうけど)
にも関わらず、左手でナイフを器用に使いこなし、且つ格闘も難なくこなす。
(恐ろしい男もいたものね)
麻里絵は思わず、シャワーの中で我知らず身震いした。利き腕を負傷していたにも関わらず、あれだ。これで熊斬り太刀を使われることになっていたら、どうなっていたことか。
それこそ今、ここになど居らずあの世にいたかも知れなかった。
後ろを取られたことにも、まるで気づかなかった。陸自のレンジャー部隊の精鋭だった麻里絵に、まるで気配を悟らせなかったのである。
高陽が言った通り、まさに剣士とか武術家というより暗殺者の足取りだった。
(まさに恐るべきは前野高陽)
それに加えて、相方の村井健介も油断出来ない。
先ず、健介を確実に仕留めるために、病室に入るなりその恋人、浅倉秋菜に拳銃を突きつけ、彼女を縛りあげたまでは良かった。恋人が人質なら、いかにプロといえども動きが鈍ると思ったからである。
ところが、病室に入るなり健介は、麻里絵も真っ青の動物的な勘を発揮してみせた。
即座に立ち止まり、咄嗟に麻里絵が立っていた方向、つまり己が右に向かって雑誌を振り回したのがそうだ。
加えて、まだまだ本当の実戦格闘のプロ相手には通用しないまでも、格闘技まで身につけつつあったのが何よりの驚きだった。
(こと、あの二人を相手にする場合、昨日の情報は当てにならないと思った方が良さそうね)
常に日々、驚くほど進化し続けている。
敵ながら、感嘆に値する漢どもと云えた。
しかし、麻里絵には逆の相反する感情も芽生えている。
「あの二人とも、確実に一人ずつ始末する」
けど、とさらに独り言を止めない。
「殺す前に、じっくりと・・・」
再び夜叉の顔になり、そして、
「犯すわよ、絶対に・・・・・」
まさかの逆強姦の誓いを口にしていた。
このアタシを、ここまでその気に、本気にさせた以上、責任は取ってもらうわ。
燃えさせたんだから、ね。
麻里絵の顔が、相貌が、怖い笑みで満ちている。
ダーティ・マリーの名の通りと云えよう。




