病院内は癒やしどころか、危険がいっぱい
太田和美は、点滴のパックを載せたワゴンを押し、廊下を歩いていた。
札幌市内、北札幌済寧館病院の外科病棟の廊下である。
170センチ近い長身に、白の看護服がよく似合っていた。
和美の年齢は、二十七才。
決して美人という顔ではないが、ぷっくりとした口唇のせいか妙な色気がある。
胸も尻も豊かだが、腰回りは細い。
そのせいか廊下をすれ違う、入院患者や見舞い客などの男たちが粘つくような視線を送って来ていた。
卑猥な視線というやつだ。一目でそうと分かる。
だが和美はというと、今ではそんな視線には慣れっこだった。
自分が人目を、特に男の視線を集めずにはおかない肢体の持ち主だということは、自覚している。
ゆえに、そんな目で見られることが嫌いではなく、むしろ快感であり優越感すら覚えていた。
一年ほど前からは妻子ある外科部長を色香で誑かし、不倫関係になっている。
そのおかげで、かなり自分に都合がいいローテーションを組んで貰えていた。
事情を薄々知っている同僚たちからは売女だの、娼婦だのと陰口をたたかれていることも知っていた。
(だから何よ、結局は手段が何であれ、うまくやったモン勝ちじゃない)
和美本人は、どこ吹く風である。
色じかけだろうが何だろうが、のし上がる手段があるなら何でもする。自分の場合は持って生まれた恵まれた肢体が、その手段だっただけのことである。せっかくの女の武器を使わない手はあるまい。
それが和美のやり方だった。
その自分でも、もて余し気味の豊かな肢体に集まる視線にいつもながらの快感を覚えていた時だった。
その女に声をかけられたのは。
「あの、看護師さん、大変ですっ!?」
後ろからの切迫した声で、和美は振り返った。
黒のロングヘアーが似合う、自分と同じくらいの長身の女だった。
サングラスをかけているため表情は分からないが、恐らく年の頃も和美とほぼ同じだろう。
バイクにでも乗って来たのか、黒革のライダースジャケットが豊かな胸や下半身を包んでおり、腰の細さがそれを際立たせていた。
一目で大概の男には、いい女と思われるだろう。
それが女の自分から見ても分かるだけに、和美は少し不機嫌になった。
「何ですかぁ?」
間延びした、いかにもやる気のなさそうな声で応える。基本的に、自分より魅力的だとわかる女は嫌いなのだ。
「そこの病室の入口近くに、倒れてる人がいますっ!」
サングラスの奥で、女がどう思ったかは相変わらず分からなかった。女の声の調子も変わらないままである。
倒れてる?病室の中で?
そうと聞いては職務上、確認しないわけにもいかない。
心から不本意ではあるが。
「どこですかぁ?」
和美はまだどこか、やる気のなさを滲ませたまま、女に尋ねた。
「ここです、こっちです」
女が、自身の最寄りの病室を指差しながら、そこに入る。
(全く、面倒くさいわね)
ワゴンを一旦、廊下に停めたまま、女の後を追ってその病室に入った。
えっ?!ここ、この病室って、確か・・・
「誰もおられないようですけど」
入ってすぐに気づいた。
そう、確か今は、空きになっていたはずの病室であり、倒れている者も見当たらない。
一体どこに人が倒れて?
怪訝な顔で和美は女に尋ねようとして、出来なかった。
口を開きかけた瞬間、女に後ろから腕を首に回され、一瞬で絞められていたからである。
フロントチョーク、MMA(総合格闘技)ではよく用いられる、俗にいう裸絞め。
格闘技の知識が少しある人間なら、すぐにそれと分かる。
頸動脈が一瞬で圧迫され、息が詰まった。
無意識に必死で、喉に巻かれた女の腕に手をかけるが、指一本入る隙間もない。
即座に自分の置かれた状況を理解するしかなかった。理由を問う余裕ももちろん、ない。
(だ、誰か・・・)
助けて、と叫ぶことも出来ない。
何しろ首が絞まっている。当然、声が出せない。
廊下を通る者でもいれば、と入口に目を向けた。
無駄だった。
いつの間にか、入口の扉が閉まっている。
どうやら女が、入るなり閉めたらしかった。
これで声が出せない以上、完全な密室である。
和美はもがいた。せめて物音をたてて、室外に異常を知らせたい。
しかし、女もそれは分かっていると言わんばかりに、凄まじい力で部屋の中央へ和美を引きずっていた。
和美が両足をバタつかせて、必死の抵抗を試みんとした時。
女が、和美の首を絞めていた腕を解いた。
と、見る間もなく今度は瞬時に右手を左顎に、左手を右側頭部にあてがい、無造作に捻る。
ゴキリ、と不気味な音が室内に、意外に大きく響いた。
同時に和美の四肢が、糸の切れた操り人形のように力を失い、女の両手で掴まれた首を支点にだらりと垂れ下がった。
女が一瞬で首関節を極め、和美の頸骨を折ったのである。
手を離した途端、生命の失われた和美の肢体は力なく床に転がった。
首を絞められてからの時間は、十秒とかかっていない。
一瞬といえば一瞬、文字通りの瞬殺である。
「だから言ったじゃない。倒れてる人がいるって」
女がサングラスを外すなり、毒づくように言った。
次いでロングヘアのウィッグを取り、下に隠されていたブラウンのセミロングが現れる。
興梠麻里絵だった。
標的を仕留めるためなら手段を選ばない、女ながら凄腕の殺し屋。プロとしてのその非情さから「ダーティ・マリー」の異名を取る女だ。
「もっとも本当に倒れてるのは、たった今から、だけどね」
倒れてる人も、他でもないアナタだけど。
息も乱さず、麻里絵は病室内を見回した。
空のベッドの下になら、和美の死体を隠しておけそうである。
判断しつつ、麻里絵は思案した。
「さて、どうやって始末しようかしら。入院中の相手を」
まさか寝込みを襲ってズドン、では芸がない。
ふと、和美の死体に目をやって、気づいた。
「使えそうね」
美しい面に、ニヤリと凄艶な笑みが浮かぶ。
麻里絵は標的の名を、口に出した。
「もう少しであの世行きにしてあげるわ」
前野高陽よりひと足先にね。
呟いた顔に、女らしからぬ凄みがある。
この病院に入院している麻里絵の標的は誰か。
そう、それは熊撃士、村井健介に他ならなかった。
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米田理一郎は会議を終え、自分の仕事部屋に向かって歩いていた。
米田は医師である。肩書は、外科部長。
北札幌済寧館病院が勤務先である。
年齢は四十五才、年の割にはスマートな方と言えるだろう。
基本的に若い頃から、優秀な医師として通っている。そのせいか、女には不自由したことはない。
妻と中学生の娘が二人いる身だが、今なおそうだった。
今も自分の勤務先であるこの病棟内に一人、不倫関係にある看護師がいる。
太田和美という、とにかく色気だけはたっぷりな女である。
(そういえば、ここのところ忙しくて、久しく抱いてなかったな)
外科部長室に向かう、外科病棟の廊下を歩きながらふと、和美のことを思い出していた。
確か今日は昼勤務だったはずだ。
後で見かけたら、今晩あたり誘ってみよう。
そんなことを考えながら、何人かの病院関係者や見舞い客とすれ違った時だった。
(いつ、入ったんだ?)
廊下の向こうからワゴンを押して歩いて来る、見慣れない看護師に気づいたのである。
年の頃は、太田和美と同じくらいだろう。
しかし、どう思い出してみても、その顔に見覚えはなかった。
この病院に限らず医療業界では、医師や看護師の中途採用は珍しくない。
しかしながら、仮にも外科部長の自分に断りも報告もないまま、採用されることなどないはずだった。
(まさか、またか?!)
米田の脳裏に、過去のある事件の記憶が浮かんだ。
看護師の女子更衣室に侵入した若い女が、看護師の白衣を盗み出して着込んだ上、院内を歩き回るという事件があったのだ。
結局は、その白衣に名札がついたままだったのを、盗まれた看護師本人がたまたま廊下ですれ違った際に気づいたことですぐ発覚し、犯人の女は御用となったのだが。
確か、その理由というのは院内に入院していた恋人の男から、看護師ルックのところを犯してみたいと言われたからなどという、どうしようもなく下らない理由だったはず。
またか、というのはその時のことだったのである。
「きみ、ちょっと待ちたまえ」
とりあえず、呼び止めた。先ずは確認しないことには始まらない。立場上、しておく必要もあった。
「はい?」
米田とすれ違おうとしていたその「看護師」は、廊下の中央をはさんで米田を見やりながら立ち止まった。二、三歩ほどの間を空けてである。
途端、かなりの量のボリュームを持った胸のラインが目に飛び込んできた。前から見た時には気づかなかったが、今は顔だけをこちらに向けている。当然、体は米田から見て横を向いているので、分かりやすく強調された格好になったわけである。
思わず米田は、自分の視線が好色そのものになるのを自覚した。
こういう場合のそれは、オスの本能と云えるだろう。
鼻の下を伸ばしかけた米田ではあったが、それでも看護師の胸の名札に目をやった。
目をやって、その途端、訝しむ顔になった。
名札には確かに名が印されていたからてある、「太田和美」と。
おかしい。同姓同名の看護師は、自分が知る限りいなかったはずだ。
そして、外科部長の自分がそう気づくということは、それが全てのはずだった。
やはり、また、だったか。
「きみは・・・・」
太田くんじゃないね、と問おうとした。
出来なかった。
「太田和美」の名札をつけた「看護師」が、ごく自然に米田の腕を引き、近くにあった給湯室に引き入れたからである。
「な、な、なな、何を・・・」
何をする、と言う間さえ与えられぬまま、米田は給湯室に半ば押し込まれる格好になった。
状況の理解が追いつかない米田の口唇に、女が自身のそれを押し当てて来る。
「ぶふっ??」
驚きのあまり、半開きのままの歯の間から、ねっとりとした舌が差し込まれる。
女はいつの間にか、米田の首に両腕を回していた。
女の執拗な舌使いの甘美さが、米田の理性をたちまち軟泥に変えていく。
もとより女好きであり。こういうシチュエーションも、経験がないわけではない。
こうなる理由は?などという細かいことを気にすることもなく、米田もつい、その気になっていた。
女の背中に腕を回して、抱きしめる。
右手が女の、後頭部を支えている。
これ以上ない、濃厚なキスシーンの完成だった。
だか米田は、ついその気にさせられる前にわずかでも、考えるべきだった。疑問を持つべきであった。
なぜ見ず知らずの、今ここで初めて会ったばかりのはずの女に、突然かつ唐突に、ディープキスをされているのか?
いや、なぜ彼女はこんなにも激しい口づけを、自分と交わさなければならないのか?
そのことに思いが至らないまま、女と舌を絡ませ合い、甘美なシチュエーションに酔った先にそれは待っていた。
それはまさしく、極楽の後の地獄。
ブツっ!!
何とも恐ろしい、不気味な低音が給湯室内に響いたかと思うと、米田が女から慌てて口唇を離した。
いや、女も同時に米田から離れたというべきか。
米田が何事かを言おうとしたらしく、口を開こうとした。
言葉が、出てこない。
ごぶっ、と音を立て、血泡が吐き出される。
その開けようとした口中が、朱に染まっていた。
口中にたちまち、鮮血が溢れていく。
その時にはもう、米田の顔が苦しげに歪んでいた。
虚空を掴もうとするかのように両手を伸ばし、次いで己が喉をかきむしる。
ゴボゴボと音を立てて、口内から鮮血を吐き出しながら米田が仰向けにひっくり返った。
まだ喉を苦しげにかきむしっていたが、すぐに動かなくなる。
それにつれて喉をまさぐっていた両手が、力なくだらりと床に投げ出された。
その様を見た女が、べっ、と何かの塊を床の上に吐き出し、端に蹴りやる。
「悪く思わないでね」
そう言って看護師ルックの女━━━興梠麻里絵━━━は、凄艶な笑みとともに口元の血を拭った。
麻里絵が吐き出した物、それは、彼女に噛み切られた米田の舌だったのである。
米田は麻里絵に舌を噛み千切られ、一瞬で絶息したのだった。
「でも、本望でしょ?人生最期のキスが、アタシのようないい女なら」
麻里絵のナルシスティックな言葉の中で、床の上では噛み切られた米田の舌が、まるで別の生き物のようにピクついていた。
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浅倉秋菜は、病室の窓辺から外を見ていた。
村井健介が入院した、北札幌済寧館病院の外科病棟の一室である。
個室だ。
最初は四人部屋だったが、健介が病院に話しをして変えてもらったのだ。
熊撃士の健介は、いつ誰に狙われないとも限らない。
ただでさえ今回の入院理由にしても、この通りの事情である。
万が一、入院中に襲われれば、他の患者を危険にさらしてしまう可能性があった。
健介は何よりも、それを恐れたというわけだ。
その健介、先ほどから一階の売店まで、呑気にも漫画週刊誌を買いに行っている。
一週分買い逃がすと、話の続きが訳がわからなくなる。
それが健介の言い分だった。
「まったく、いくら大事を取っての検査入院だからって、呑気すぎるわよ」
仮にもこうなった原因は、あんな目に遭ったからじゃなかったっけ?
それは分かってるだろに、どういう神経してんのよ?
いくら何でも、感覚が麻痺してるんじゃないの?
健介が戻って来たら、並べ立てるべき文句を呪文のように、独り言で繰り返す。
「・・・心配してるんだぞ、マジで」
ため息とともに呟いた時、入口の引き戸が開く音がした。
戻って来たの?
思わず振り返る。
「遅かったじゃ・・」
ないの、と言おうとして秋菜は、語尾を飲み込んでいた。
そこにいたのは、恋人などではなかった。
「そうね、お待たせしてゴメンなさいね」
冷徹な視線と声音で、拳銃を構えて立っていたのは、看護師の格好をした背の高い女だった。




