北海道警SATのエース、上空から凶悪ヒグマを狙う
無線がただならぬ混乱を伝えて来た。
雑音、悲鳴、怒号が入り乱れている。
何一つ、状況が掴めない。
分かっているのは、北海道警察が誇る対テロ特殊急襲部隊SAT(Special・Assault・Team)の精鋭一個小隊が、パニック状態に陥っているということだけだった。
(天下のSATが、何たるざまだ)
片桐仁は歯噛みしながら、ヘリの座席で無線に耳を澄ませていた。
北海道警SATに所属する彼は、隊内随一の狙撃手である。
学生時代に全日本ナショナルチーム入りもしたことがある伝統空手の達人でもあり、腕前は実に四段。その高い格闘能力も隊で一、二を争う男だった。
━━そっちだ、そっちに行ったぞ━━
━━うわぁ、だ、ダメだ、逃げろぉ━━
━━あ、あ、あぁぁ、く、来るなっ━━━
断続的に無線が伝えてくる同僚たちの声が、引き攣っているのが分かる。
明らかに、何かに恐怖しているようだった。
時折り、連続した乾いた銃声も混じっている。軽機関銃特有の忙しい銃声は、間違いなくSATの制式配備、H&K社製MP5−Jだろう。
「こちら救援班、どうしたっ?状況を連絡しろっ、おいっ!!」
先ほどから何度となく、無線に叫んだセリフをまた、片桐は繰り返した。
片桐が緊急出動命令を受けたのは、ほんの二十分ほど前のことである。
小樽市郊外の某所、SATの訓練場で射撃教練のため、愛用の狙撃銃を組み立てている最中だった。
突然に隊員専用の無線から、暗号音声が響いたのである。
「フォワード陣は、EでHに集合せよ」
耳にしたその時、嫌な予感しかしなかった。
SATの訓練施設は表向き、実在しない企業の工場などとして存在している。
故に内部に関する情報は、存在自体も含めて全て極秘であり、その内容を知るのは北海道警察内部でもごく一部の関係者のみ。
隊員は自分の家族にさえ、自身の所属先を知らせていない。
当然、施設内に放送設備などはなく、施設内での通信は全て特殊な周波数の無線で行う。
この無線通信の際にも、細かく暗号が決められていた。
全ては無線を傍受されたりして、盗聴されることを警戒してのことだった。
ここで言う「E」とは「EMERGENCY=緊急事態」のことを、「H」とはそのものズバリ、「ヘリポート」を指す頭文字である。
「フォワード陣」とはつまり、片桐も所属する「後方支援狙撃班」、つまり長距離狙撃などの射撃を得意とする隊員が集められており、そんな隊員に緊急出動命令が出たこと自体が、ただならぬ事態を物語っていた。
片桐が嫌な予感を覚えたのも、当然のことと言えよう。
彼の嫌な予感は、驚くほど良く当たる。
数分後、通信長からの説明によりそのことを片桐自身が思い知らされていた。
(案の定、か)
説明によると、十勝岳の麓の山林地帯に野戦訓練のため別々に展開中だった二つの一個小隊からの定時連絡が途絶えた。その上片方の小隊からの最後の通信内容はというと、至急の救援を要請する内容だったのだという。
それにより、ヘリを二機、スナイパーを二名ずつ分乗させて救援に向かわせることになった。
片桐が搭乗することになったのが、今乗っているこの機体である。
「それにしても一体、何からの救援を要請してるって言うんだ?」
「何からなのかは、オレらも聞かされてないなぁ。とにかく、先ず出動、そう言われただけだからね」
片桐の口をついて出た疑問に、操縦桿を握っていたパイロットが答える。
「シゲさん・・・・」
片桐は、前を向いたままのパイロットがいる操縦席に視線を向けた。
シゲさん、の通称で隊員たちから慕われ、頼りにされてもいるヘリのパイロット、茂田和幸が微妙に操縦桿を調整している。確か今年で五十六才になる、SAT隊内ではヘリ一筋のベテランだ。階級は警部補、操縦技術の腕一本でやってきただけに、隊内では誰からも一目置かれる男である。
「シゲさんは、何が原因だと思います?」
「救援を要請してきたことのかい?仮にも北海道警が誇るSATの精鋭たる、二個小隊が」
「そうです、どう考えても普通じゃないですよ。訓練の内容が突然変更にでもなったのかどうか」
「そういえば、これは訓練ではない、って話しがあったな、出動前に」
「だからこそ尚更ですよ。一人ひとりが、多少のことなら何とでもするはずのメンバー揃いの精鋭らが、まるでパニックを起こして逃げ惑ってるとしか思えない。無線を聴く限り、そうとしか思えませんよ」
片桐と茂田の二人は無線を通して会話している。そうしなければ、騒音の激しいヘリの室内では会話が成り立たない。ヘリの室内にはもう一人、若手スナイパーが同乗していたが、彼の方は片桐とは反対方向に無言で目を凝らしていた。
「普通じゃない、ねぇ・・・」
ポツリと呟いた茂田が続ける。
「普通に考えればそうだろうよ、確かにな。けど、普通ってのは何だい?何をもって、普通とするんだ?」
静かな語り口だが、茂田の言葉にはベテランらしい重みがあった。
一瞬、返答に困った片桐に、茂田が語り続ける。
「オレらの言う、普通ってことの基準っていうのは実は、かなり曖昧なもんなんだよ。ただ何となく、これがそうだ、って思ってるだけなのさ。まあ、無意識の思い込みってやつだな」
「シゲさんには、普通のうちのことに思えるんですか?」
「そうは言わんよ、ただ、ね・・・」
片桐の質問をやんわりと否定しつつも、茂田は年長者らしい落ち着きを持って言った。
「オレがいまヘリを飛ばしてるこの空だって自然の一部だし、北海道の山や河、湖に森だってそうさ。大自然の中じゃ時々、想定外のことがよく起きる。むしろ、想定外だらけと云えるかもな。相手が大自然なら、普通、なんて考え方はどこにも持つべきじゃないんだよ」
「何とか出来る、なんて思ったらそれは・・」
「うん、それは、人間の傲慢ってやつだろうねぇ」
「傲慢、ですか・・・・?」
「ああ、そうとも。人間が大自然を相手に傲慢になったら、途端に牙を剝いて来るもんだよ。だから、自然の中では人間は常に、謙虚であるべきなんだ」
「謙虚、ですか・・・」
片桐が何気なく、洩らすともなく呟いたその時だった。
━━━目標地点、到達━━━
僚機ヘリのパイロットから通信が入った。
否応なく現実に引き戻された片桐は、反射的に無線に呼びかけていた。
「こちら片桐、誰でもいい、応答しろっ!?何があったっ?」
片桐が叫ぶ中、ヘリは原生林の上空を飛行していた。深い森の木立が邪魔で、下の状況が見渡せないほど、見通しが悪い。
━━━ガ、ガガっ━━━
依然として無線の通信状況は悪いようだった。
ダメか?
片桐がまたも通信を諦めようとした、その時。
━━・・・か、片桐センパイ、た、助けて・・・━━━
ひどい雑音に混じって、反応する無線が返ってきた。
聞き覚えのある、大学空手部の後輩でもある隊員の声だった。
即座に片桐が反応するのは当然だっただろう。
「どうしたっ?何があったってんだ、状況を説明しろっ?!」
叫ぶ片桐に後輩隊員の返信は、雑音だらけながらリアルな混乱に満ちていた。
━━━センパイ、化けモンです、化けモンが・・・━━━
声に切迫した響きがある。明らかに何かに恐怖し、パニックに陥っていると分かる。
「化けモンっ?何が化け者だってんだ?何にそんなに、ビビってるんだよ」
思わず噛みつくように、片桐は叫んでいた。
仮にもSAT隊員を恐慌状態にさせるなど、それだけで尋常な事態ではない。言うまでもなく彼らは皆例外なく、どんな極限状況でも冷静に任務を遂行できるように訓練されているからだ。
だからこそ、恐怖を感じる場面に遭遇しても、それを恥と思うことはない。先ずはそれを認めて受け入れるのである。
そうしなければ問題解決の最短かつ最適な手段が見つからないからであり、それができるよう常時から訓練を重ねているはずだった。
そのはずの彼らが、怯え、恐怖するほどの何か、何者がそこにいるというのか。
しかも一人や二人の隊員ならばともかく、二個の小隊全隊がである。極めて異常な事態だと云えた。
そして、片桐が現実としてそのことを、否が応でも認識せざるを得なくなったのは、さらなる後輩からの返信だった。
━━━熊です、巨大な熊です、センパイ━━
(クマだと?羆かっ)
熊と云えば羆のことを指す、それは北海道では子供でも知っている常識だ。
「どこだっ?どの辺にいる?」
━━━我々の後方、約二百メートルほどの林の中をっ、移動ちゅ、う、うわぁっ・・・━━━
突然の絶叫とともに無線が切れていた。通信が途絶える間際、またもMP5のものらしい銃声が連続した。同時に後輩隊員が発したらしい、「疾い」というセリフが最後に聞こえたのは、ひどい雑音の中にである。
眼下に広がるのは相も変わらず、深い森林地帯で、地上の状況はまるで分からなかった。
「おいっ、どうしたっ?!」
片桐が無理やり中断された無線に怒鳴った時。
「ジンちゃん、どうやらあの辺りだぜ」
操縦桿を操作していた茂田が叫んだ。どうやら軽機関銃の発砲に伴う発射閃光で場所の見当をつけたらしい。
「シゲさん、近くに着けられますか?」
「任せなってっ、お安い御用だ」
返事をした時には茂田はもう、操縦桿をその方向に倒していた。
一流のパイロットである茂田の視力は、同様に一流のスナイパーにも匹敵する。
その彼の鋭い目は先ほどの、片桐と後輩隊員の通信が途絶える際の一瞬の発砲の閃光を、この広い眼下の原生林の片隅に確かに捉えていたのである。
射撃の腕さえあれば、間違いなく良いスナイパーにもなれたのに。
片桐をしてそう言わしめた、鷹の目ともいうべき眼力、実力だった。
ヘリは右に素早く旋回し、茂田が目星をつけたと思われるポイントの上空に達しつつあった。
僚機も無線の内容を理解したらしく、一定の距離を保って追随してきている。
まるで絨毯を敷き詰めたように樹木の枝が密集している原生林の下は、相変わらずよく見えない。
しかし、ほぼ真上の位置になったせいか樹木の枝間から、時折人影らしいものが垣間見えるようになって来ていた。
目が慣れてくるにつれ、より視界がはっきりとしだして来る。
ヘリに乗り合わせた、優れた視力を持つ三人の目はその人影が、人間たちの姿が何なのか認識できていた。
戦闘服に身を包んだ人間だ。
明らかに、自分たちの同僚と同じ、特殊部隊の隊服である。
そう、SATの隊員たちに他ならなかった。
同時に片桐や茂田ら、ヘリの乗員たちが視界に捉えたのは、信じられない光景だった。
全員、同じ方向に進んでいる。
前へ、ではない。後ろへ、だ。
正確には、全員が同じ方向を向いたまま、ジリジリと後退しているようなのである。
それも、ただ後退しているわけではなかった。
彼らは一様に、狂ったように軽機関銃を乱射していた。
そう、ほとんど必死に撃ちまくりながら後ろに下がっていたのである。
まるで何かから逃れようとするように、明らかに恐怖していた。
その、何かが何なのか、それが分からない。
枝間がかなり広い範囲に渡って、揺らされてはいる。その分だけ影がきつくなり、上空からでは確認できないのだった。
「シゲさん、もう少し低空で飛べませんか?」
「やってみるさ」
茂田が操縦桿を押し込んだ。
ヘリの機首が下がり、それに伴い高度も一気に下がる。
たちまち眼下に、森林の樹木の枝が迫った。
一本いっぽんの枝の張り具合や絡み様まで、すぐに分かるほどに肉迫してくる。
(妙だ、な)
片桐は、二つのあることに気づいた。
一つは、隊員たちの銃を向けている方向だ。
全員、同じ方向にいる、同一の敵に向かって発砲している。
集中砲火、というやつだ。
それを全員、総掛かりで浴びせている。
ヘリの飛行高度が下がったことで、状況をよく確認できるようになった故に気づいたことだった。
その隊員らの銃口が向いた先の、周囲の樹木が、枝葉がかなり広い範囲で揺れている。
それも、ほぼ同じタイミングで、である。
それが、二つ目の気づいたことだった。
(何だ・・・・?)
片桐の脳裏を、恐怖じみた疑問が過ぎった。
何か、かなり得体の知れないものが相手の気がしたからである。
どうやら、それが先ほどから隊員たちを恐慌状態に陥らせている、何かの正体らしかった。
(それが、ヒグマだというのか)
ありえない。いったいどれだけの巨大なヒグマだと言うんだよ。
片桐がそこまで自問した時、
「・・・ジンちゃん、これは、エラいことになってるよ・・・」
茂田が声を震わせていた。
顔が青ざめている。血の気が引いているのが一目でわかる、そういう顔になっている。
経験の豊富さに裏打ちされた冷静さが売りの、このベテランにして珍しいことである。
それが事態の深刻さを物語っていた。
片桐はそのことに、すぐに気づくしかなかった。
「・・シゲさん、エラいことって、いったい・・・」
自身の顔面までがつられて蒼白になるのを、自覚しながら片桐が尋ねかけた、その時。
「森が切れます、平坦な原っぱに出そうですっ」
それまで黙って状況の推移を見守っていた、同乗のスナイパーが叫んだ。
その声に片桐が視線を向けた、二百メートルほどのその先に確かに、半径二百メートルほどの野原が開けていた。そこに隊服姿の隊員らしい人影が五、六人、後退りしながら姿を見せ始めている。
(おっつけ、奴さんも姿を現すはずだな)
片桐は思わず、叫んだ。
「シゲさん、隊員の上空につけられますか?機首も同じ方向にっ!?」
「そのつもりだよっ」
茂田が素早く、ヘリの機体を大きく旋回させる。たちまち、機首が隊員らの正面を見下ろす格好になった。
(・・・いる、あの辺だ・・・)
「来るぜっ、エライのがっ、同僚がこうなってる元凶がっ!」
片桐が見当をつけるのと、茂田が叫んだのとが同時だった。
それは、全くの突然。
そう、突然としか言えないタイミングでの、まさに予想のつかない事象であり、何の前触れがあったわけでもない。
何の予兆もなく、誰の予測も許さない現象だったと言えるだろう。
その現象は、突然というその通りに、片桐らの眼下で展開されていった。
先ず、軽機関銃を撃ちまくりながら後退する隊員らの前方で、森が真っ二つに割れた。
割れた、としか表現できない。正確に言うと、左右に倒れたのである。
次いでそこから飛び出したのは、黒い塊。
巨大な黒い塊だった。
その塊は一瞬、誰の目にも球体に見えた。
そこから、尖った物が数本、飛び出した。
爪である。鋭利な刃物を想起させる、短いが細く尖った爪。
その爪を押し出したのは、黒い丸太が二本。
前足だった。
さらにその真ん中に、やや大きな爪が二本、鈍く光っている。
と思ったのも、つかの間、それは牙だった。
凶々(まがまが)しい光りを放つ、二本の大剣と数本の小刀が、邪悪なほどの赤い口腔の中に羅列していた。
その剣が、意志を持つ者のように咆哮した。
━━━━グゴォァァァァァアーっ━━━━
人間の本能に訴えかけずにはいられない、否が応でも恐怖を覚えさせる獣声が、ヘリの爆音すらかき消す。コックピット内にまで、それが響き渡るようだった。
片桐でさえ、足がすくむような恐怖を覚えざるをえなかった。
眼下では何人かの隊員が、尻もちをついた状態で後退りしていた。
腰を抜かしたのである。仮にもSAT隊員ともあろう者が、などとはもはや言えない状況になっていた。
悪魔のごとき獰猛な叫びの後を追うように、黒い巨体が姿を見せてきた。
手近な隊員に襲いかかろうと、その体躯からは想像できない俊敏さで歩を詰めようとしている。
「ちぃっ?!」
ドンっ、ドン、ドンっ!
ようやく姿を現したヒグマに対し、舌打ちとともに片桐が素早いライフル射撃を見舞った。反射的に隊員を救うべく、ヒグマを牽制するための射撃であり、もとより狙ってのものではない。
━━━ガフゥゥフゥウ━━━
ここで初めて、ヒグマが不思議そうに上空を仰ぎ見た。それによりヒグマの顔が、表情が片桐や茂田ら、ヘリの搭乗員からも確認できていた。
「デカいな、三メートルはある。体重は、軽く三百は超してるぜ」
茂田が独り言のように呟くのを聞きながら、片桐の興味は別のところに向かっていた。
片桐が愛銃バレットM82A3のスコープのレンズ越しに捉えた、ヒグマの顔。
そのヒグマの顔が、片桐が話しに聞いていたあるヒグマの特徴と、はっきりと一致していたからである。
(・・?!、あれは?!)
それは彼がよく知る男が追い続けている、彼とその男がともによく知っていた女を食い殺した巨大ヒグマだということを、これ以上ないほど雄弁に証明していた。
「あ、あれは、赤隻眼じゃねえのか?あの、凶悪ヒグマのっ!?」
茂田が叫ぶ。
(赤く潰れた右目、間違いない)
拳銃で撃ち抜かれて破裂した傷痕。
榊につけられた傷だ。
その傷をつけた女━━━今は亡き榊裕子━━━と片桐は、北海道警の警察学校で同期であり、性別を越えた親友だった。
やにわに片桐の胸中に、なにかドス黒い憤怒が湧いた。憎悪、と置き換えても差し支えはなかっただろう。
(こいつは、なんて巡り合わせだ)
片桐は思わず、僥倖に感謝しつつも、もう一人の親友に胸の内で詫びていた。
何もこの赤隻眼を狙ってるのは、お前さんだけじゃない。
(そうだろ、前野?!)
悪いがここで、仕留めさせてもらうぜ。
片桐は冷静に、バレットのスコープの照準をつけ直していた。
12・7ミリの大口径を使用する軍用狙撃銃である。
加えて片桐の腕なら、撃ちもらすはずはなかった。
スコープの中心がアカカタメの眉間を捉えた瞬間、片桐の人差し指は引金を絞っていた。




