仙台駅、熊狩士と元熊狩士の初対決は当然激しい
「早月センパイっ、どいてて下さいっ」
我知らず叫びながら、高陽は早月の肩を突き飛ばしていた。
「キャッ?!」
悲鳴を上げながら、早月が転がるように倒れる。
手段の是非に構う状況ではなかった。今はこうでもしないと余計に危ない、そう判断したからこその処置である。
何しろが相手は、周囲の状況など関係なしで平気で熊斬り太刀を振り回す。その危険な性格ゆえに、熊狩士のライセンスを取り消された男なのだ。
下手に高陽の近くにいようものなら、それだけで巻き込まれる可能性が高かった。
高陽は右手で左肩の後ろ、愛刀「雷神」の柄を、左手は鞘のこじりを掴んでいた。
波岡剛樹は粘っこい殺気を放ちつつ、急ぐでもなく近づいて来る。歩きながら、背中の熊斬り太刀をゆっくりと引き抜いた。
それを目にした通行人が一様に悲鳴を上げ、慌ててその場を離れようと逃げ惑い始める。
(何てプレッシャーだ・・・)
波岡の動きを封じるべく気攻めしながらも、高陽は自分も動けなくなっているのに気づいた。
凄まじい圧力、まさに冷や汗が出て来るのを禁じえない。
高陽をして、それを自覚せざるを得なかった。
いつの間にか高陽との距離が、十メートルほどに縮まっている。
「前野おぉぉぉっ、やっと、会えたぁぁぁっ」
波岡剛樹が吠えた。
「勝負、所望おおぉぉぉっ」
周囲を圧する大音声で叫びながら、ユルユルと蜻蛉に構えた。
その刹那と、思った時にはもう発動していた。
波岡はその巨体に見合わぬ敏捷さで、一気に間を詰めて来たのである。
(?!、は、疾いっ!)
高陽ほどの剣客が、一瞬反応が遅れた。
遅れざるを得なかった。
気攻めから踏み込みに移る足捌きが、べらぼうに疾かったのである。
まさに稲妻のごとき疾さを誇る、示現流の極意「雲耀」であった。
足捌きだけではない。
体捌き、身ごなしまで含めた、一連の動きがまさに「雲耀」を地でいっている。
幕末戊辰戦争の頃、多くの薩摩藩士が示現流の剣を振るいつつ戦場を駆け巡った。
その時薩摩藩士と剣を交えた幕軍将兵の多くは、その凄まじい打ち込みを受けきれず、文字通り太刀打ち出来なかった。彼らの多くは己が刀の峰を、自らの額にめり込ませて絶命したと伝わる。
示現流の恐ろしさは何も、その激烈な太刀捌きばかりではないと云えるのだ。
「チぃっ?!」
舌打ちしながら高陽が、雷神を抜き打つ。
無法新神流奥技「背刀」であった。
耳を突ん裂くような凄まじい金属音と同時に、高陽と波岡、両者の熊斬り太刀の刃が噛み合う。
と、言ってもそれは一瞬のこと。
抜き打ちの一刀で波岡の初太刀を払った高陽は、その勢いを利用して、互いの位置を入れ替えていた。
それで体を泳がせず、即座に向き直る波岡もまた並の剣士ではない。
「チィエェェェェェェェェェェェいっ!」
聞くものを総毛立たせずに置かぬような猿叫とともに、二の太刀、三の太刀が高陽を襲う。
両者の熊斬り太刀の刃が噛み合い、絡み合う。凄まじい金属音が連続する。
高陽は、波岡の打ち込み全てを、受け流すか体を捌いて躱していた。
いかに高陽と言えども、苛烈極まりない剛剣で知られる示現流の打ち込みを、いちいちまともに受け止めるわけにはいかない。
そんなことをしようものなら、保ってせいぜいが四、五合のみ。下手をすれば一合、ただ一太刀で叩き伏せられるだろう。
さもなければ、熊斬り太刀を折られるのが関の山だ。
まして相手は示現流開祖、東郷重位以来の遣い手として名高い、と同時に悪名高い元熊狩士、波岡剛樹なのである。
決して正面から打ち合い、切り結ぶわけにはいかなかった。
一瞬にも、永遠とも思えるほどの波岡の太刀雨が、ようやく止んだ。
まさに一呼吸で三十回は打ち込む、と言われる示現流の精髄であり、深奥であった。
その機を逃さずすかさず、再び高陽は体を入れ替えた。
さり気なく、早月の前を塞ぎガードする位置に立つ。早月はといえば、片膝ついて立ち上がる寸前の態勢のまま、呆然と高陽と波岡の乱撃戦を見ていた。あまりの凄まじさに、完全に固まっているようだ。
暴風雨のような波岡の太刀筋を凌ぎながらも、高陽がその最中でも気にかけていたのは早月のことである。
早月の身の安全であり、もっと言えば、彼女の貞操だった。
波岡について耳にしている悪い評判は何も、破壊的な剣腕ばかりではない。
その病的な女癖の悪さについても業界ではつとに有名であり、波岡が人を斬った後には必ずと言っていいほど、目についた女を犯す性癖があるというのは高陽も知っていることだった。
そして、その対象になりうる女は多くの場合、その場に運悪く居合わせたり通りがかっただけの者であり、その際には独身だろうが人妻だろうがお構いなし。
抱く理由は、波岡本人の曰く「人を斬った後は血が昂ぶる」からだということも知っていた。血の昂ぶりを鎮めるために、女体を欲することも。
まして早月は、容姿端麗を地で行く美女である。波岡の目に留まらないはずはない。現に高陽は、波岡が斬りかかる直前に、早月へ殺気とはまた違う粘ついた視線を一瞬送ったのを見逃してはいなかった。
(ああいう目を世間では、卑猥な目という)
高陽には一瞬で察しがついていた。
(オレが斬られたりしたら、今ここで早月センパイを護れるヤツはいなくなる)
高陽には、その使命感もある。
もし万が一、高陽を屠ったならば波岡は即、早月をどこか手近な人目につかない場所に拉致することだろう。
そこで短時間で手早くだろうと、思う存分に早月を犯し抜くはずだった。
なまじ早月が、大概の男なら見惚れるだろう美人だけに、容易に想像がつく。
(そんなことになったら、涼センパイに申し訳が立たん)
意地でも斬られるわけにはいかなかった。
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(何が、いったい何が起きてるの?)
早月は、混乱していた。
高陽とあの波岡とかいう男、二人の攻防が凄まじくて、ついて行けない。
夫の涼もそうだが、早月もまた、剣道六段の腕である。
学生時代には全日本女子学生選手権を制したこともあり、現在も全国教職員剣道選手権に出場を続ける遣い手だ。
全国女子選手権にも、並みいる警察勢の強豪を抑え宮城県代表として出場したことも何度かあった。
謂わば、早月も十分に「剣の達人」と呼べるレベルの剣士だったのだが、その彼女が、追いつけないのだ。
目が、思考が、高陽の太刀捌きに、波岡の動きに。
(こんな、こんな立ち合いが、戦いがあるの?)
目の前で起こっている現実が、現実として認識出来ない。
(まるで、別次元じゃない・・・)
まさに異次元の戦いであり、住む世界が違う。
そう言われたら、納得するしかない、そうとしか思えない。
しかしながら、不思議と悔しさも沸いてはいなかった。
あまりにレベルが違うと分かるだけに、却ってそれを認めざるを得なかったからである。
(これが、熊狩士の戦い、なのね)
つい最近まで、いや、正確にはつい先ほどまで、高校時代のイメージで高陽を見ている自分がいた。
それは恐らく早月ばかりでなく、夫の涼もそうだろう。
だが、もはや高陽の戦闘能力は昔からの先入観では測れない。
そう思うと同時に、目が離せなくなってもいた。
血が騒いでいる。
沸き立っている。
早月の中にも当然ある、剣士としての血であった。
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「チェェストオォォォっ!」
波岡が雷鳴のごとき猿叫とともに、一気に間を詰めて来た。
例によって蜻蛉の構えからの、雲耀の体運びである。
そこにやはり雲耀の太刀打ちが加わるので、迫力満点、などという生易しい表現で済むものではない。
大概の剣士なら、状況を理解する前に斬られているはずであり、彼らは自分が死んだことにすら気づかないだろう。
猿叫は、続いている。
袈裟懸けの初太刀が、一撃め。
それを皮切りに、凶暴な嵐が吹き荒れ始めた。
一呼吸で三十回とも言われる、剛速の打ち込みを誇る示現流の太刀打ちである。
暴風雨のような乱撃が、高陽にまたも襲いかかっていた。
(まるで津波だ)
高陽のイメージでは、そうとしか言えない。
迂闊に防御を解けば、即座に斬られるだろうことが分かっている。分かり切っている。
だからこそ、高陽に出来るのは、嵐が過ぎるのをひたすら待つのみ。防ぎ、流し、躱して、耐える。
それのみであり、それしかなかった。
一太刀ひと太刀が、腕に、肘に手首に重くのしかかる。骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。
全身の筋が、断裂するかのような錯覚さえする。
やはり尋常の遣い手ではなかった。
高陽ほどの剣士が、追い込まれているのだ。
反撃する間を、与えられない。
受けるだけで、精一杯になっている。
一刀も返せない。
(ぬうっ?!)
高陽の全身から、冷たい粘ついた汗が吹き出していた。
彼自身、久々にかく嫌な汗であり、歯噛みする思いであった。
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(これほどとはっ?!)
波岡は驚嘆していた。
いや、感動すらしていたと言っていい。
信じられなかった。
今まで一人もいなかった。
波岡の剣を、示現流の打ち込みを、受けきり防ぎ躱した者が、だ。
凌ぎきった者も、もちろん逃げきった者もいない。
いたのは、一合と打ち合わせることすら出来ず斬られた者、のみだった。
(オレの初太刀を躱せる者など、おらん)
そう言い切れるほど、絶対の自信があったのである。
だが、それがどうだ。
今、目の前にいる現役熊狩士は見事なまでに防御に徹し、波岡の太刀を防いでいるではないか。
先ずもって初太刀を見切られ、躱された。
最初の驚きがそれだった。
瞬間、波岡が直感したのは、未だ嘗て
感じたことのない危険性だった。
(間を与えたら、斬られる?!)
高陽に対し一瞬でも隙を見せようものなら、即座に殺られる。
そう、判断していた。
ならば、隙を見せないようにするしかない。
隙あらば斬られるのなら、隙がないようにすれば良い。
どうするか?
決まってるだろう。
ひたすら、攻撃あるのみ。
攻め続けるのみ、切り込みあるのみ、それしかあるまい。
(攻撃こそ、最大の防御だ)
波岡をして、雲耀の太刀の激しい打ち込みを続けさせているのはそう、他でもない高陽の気攻めであり、圧力だったのである。
故に傍から見れば、波岡の激しい太刀打ちが一方的に高陽を攻め立てているように見えるだろうが、決して見た通りなわけではない。
むしろ、それは逆と云えた。
実は余裕がなく、追い込まれているのは波岡の方だった。
だったのだが、にも関わらず波岡は、驚きの後にすぐ、沸き立つような喜びを感じてもいる。
血が震え、騒ぐとはこういうことを言うのだろう。
我知らず、笑みが浮いていた。
(いい、いいじゃないかよ、この男?!)
さすがは、現役熊狩士の中でも最強とも言われるだけのことはあるな。
噂を耳にして以来、日本中を探し歩いた甲斐があったよ。
オレの太刀をここまで受けたヤツは、今までに一人もいなかったぞ。
もっと、受けてくれ、簡単に、終わらせてくれるなよ。
ゾクゾクするんだよ、オレが斬撃を止めたら、一息ついたりしたら、その瞬間にとんでもない反撃を喰うことになる。
それが分かってりゃ休めるわけなんか、あるかよ、恐ろしくて出来んさ。
だから、ひたすら斬り込んでるんだ。打ち込みまくってるんだよ。
けどよ、どれだけの数の斬撃を叩き込もうと、全て受けられたら意味がないよな。
決着をつけるには、ただ一撃で十分なはずなんだ。
けど、それを狙ってるのはお互い様だろ?
オレは、ひたすらとにかく、斬ろうとしてる。
お前は、ひたすらとにかく、耐えて凌いでる。
そして、待ってるんだよな。
勝負を分ける一撃を、出すその時を。
オレも、お前も。
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(そろそろ、だよな)
高陽は、それが分かるから耐えている。
何がか?
波岡の猛烈な打ち込みの雨が止む、その瞬間である。
如何に一呼吸で三十回打ち込むと言われる雲耀の太刀と云えども、永遠に斬撃を続けられるものではない。そのはずもない。
必ずどこかで、一拍の間をおくはずだった。
「・・・・ェェェエェいっ!」
長々と、猿叫は続いている。
(全く、バケモンか、コイツは?!)
高陽は半ば呆れ、その一方でもう半分は感心さえしていた。
示現流独特の稽古法に、有名な「立木打」がある。
文字通り、地面に立てた直径15センチほどの丸木を、ただひたすら袈裟懸けに打ち続ける稽古であり、これによって斬撃力と胆力を練るのだという。
嘗ては「朝に三千、夕に八千」といわれ、数ヶ月で立木の両側が細くなるほどに繰り返し稽古された、示現流の基本でもあった。
この「立木打」を波岡も、恐らく何十万、何百万回となく繰り返したことだろう。
「三間を飛ぶように歩行する」と言われる雲耀の進退も、この「立木打」によって養われるという。
事実、波岡の斬撃の疾さ、体捌きの進退の疾さともに、雲耀を地で行っていると云えた。
(惜しいな)
本音である。本気で高陽は、そう思った。
これだけの腕を、技を持ちながら、何故に熊狩士ではいられなかったのか。
有り余る剣の素質を、その悪過ぎる素行で、悪癖で全て、台無しにしたというのか。
せめて、女を前にして欲望を抑える理性を人並みに持ち合わせてさえいれば、今頃はまだ、全国で共に、或いは別々の地で熊を追っていたかも知れぬ。
もしかすると、今ここでこうして剣を交えることすらなかったかも知れない。
いや、間違いなくそうだろう。
ん、どうやら、さすがに息が切れたか。
ようやく、猿叫が途切れたな。
うん、やっぱり蜻蛉にまた、構えたか。
本来、示現流は「二の太刀要らず」と言われてるからな。
そこからまた、袈裟懸けの初太刀が来るんだろ。
あ、もう何太刀もオレに防がれてるから、初太刀とは言わないよな。
随分と息が上がってるな、そりゃあそうか。
あんなに狂ったように斬撃を繰り返せば、当たり前だ。
どんな遣い手でも、そうならない方がおかしいよ。
よし、ならばオレも、ここらで勝負だ。
次は、「背刀」ではなく、違う手で行こう。
本来の、抜刀術だ。
無法新神流、特と御覧じるがいいさ。
なあ、波岡よ。
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(な、何だ!?)
波岡は正直、戸惑っていた。
高陽が、左手で背中の鞘を引き抜き、腰の熊狩帯に差し直したからである。
そのくせ、右腕の剣先はというと波岡の喉にピタりとつけられ、やや右半身の正眼に構えていた。
見事に隙がない。
隙が見いだせない故に、波岡は不覚にも蜻蛉に構えたまま動けなかった。
迂闊に斬り込めば、良くて相討ちだっただろう。
高陽は熊狩帯に鞘を押し込むなり、 今度は素早く納刀した。
むろん、素早いのは鯉口に切っ先が入るまでがであり、その後はいつでも抜けるよう、ゆっくりと納めている。
(・・・・見事だ!)
波岡は、真剣勝負の最中なのを忘れて思わず、唸ったと言っていい。
納刀中にも関わらず、逆に凄まじい気攻めであった。
波岡ほどの剣士をして、打ち込む隙をまるで与えない。
それほどに、見事な残心を示していた。
そして今、高陽は鍔元一寸のところで、鯉口を左手で握ったまま、鍔には親指をかけたまま。
右手は変わらず、熊斬り太刀の柄にかけたまま、いつでも抜き打てる状態である。
つまり、居合術の遣い手が最も恐ろしい構えになっていると云えた。
本来、咄嗟に抜き合わせることが前提の居合には構えというものは、ない。
唯一、構えと呼べるのはまさに、この状態だけだろう。
この点は、示現流の蜻蛉と同義であり、共通だった。
互いが、互いに、唯一にして最強の構えを取り対峙している。
高陽も、波岡も。
(いいね、いいね、ゾクゾクしてきたぜ)
波岡は、打ち震えていた。
怖さに、悦びに、緊張に、何よりも、幸運にだった。
(期待以上、だったな)
本当に自分は運がいい、そう思う。
噂通り、どころではない。
これほどの遣い手とまみえることが、一体生涯で何度あるだろう。
恐らく、二度とあるまい。
現実に、今の今まで、出会えなかった。
それが、どうだ。
今ここで、こうしてやっと、会えている。
立ち合い、うなじが逆立つようなヒリヒリした緊張感を伴う、殺し合いが出来ている。
これを何と言うかだと?
決まっている。
(剣客冥利に尽きる、というやつだ)
それ以外に言いようが、あるはずがなかった。
(次の一太刀で、勝負だ)
何か、何でもいい。
合図があれば。
波岡は、腹を括った。
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高陽は、僅かに後悔していた。
(最初からこうするべきだったか)
何のことはない。
波岡が遠くから呼ばわってきたその時に、この状態になってしまえば良かっただけの話しだったのである。
(そうしてりゃ、無駄にあの激烈な打ち込みに付き合うこともなかった)
早月をわざわざ、突き飛ばす必要もなかったのである。
そうだった。オレは、剣道家であるだけでなく、今や居合遣いなんだ。
だったら本来、この納刀状態から両手を刀にかけた「いつでも抜けるぞ」的な、この居合ならではの構えが一番、力を発揮できるはずなんだよ。
自分でそれを、忘れていた。
やはり、この構えの居合術遣いは強い。
気構え、体構え、気攻めはもちろん、目付けに気の配りまで、一切の隙がなくなっていた。
居合では、残心とは何も戦い終えた後にばかり示すものではなく、戦い始めの気の置きようも残心だと教えられる。
つまり、始めの気の張り、示しも残心なのである。
高陽が悔やんだ通り、最初にこの通りに身構えていれば、波岡に突進を許すことはなかっただろう。
恐らく蜻蛉に構えたまま、前進を躊躇ったに違いない。
現にもう、先ほどまでとは打って変わって、波岡は蜻蛉に構えたまま動かない。
(かと言って、このままでも埒が明かないな)
誘いをかけてみるか。
高陽が思い定めた、その時だった。
━━パァンッ━━
乾いた一発の銃声が、仙台駅の駅ビルに反響するように谺し、思わず高陽も波岡も、その音源と覚しき方向に目を向けていた。
「動くなっ」
警告の声とともに、制服警官がニ人、波岡の後方、十メートルに立っていた。一人は銃口を上空に向け、もう一人が拳銃をこちらに向けて構えている。上を向いた銃口から硝煙が上っているところを見ると、警告のための威嚇射撃だったのだろう。
どちらの警官もまだ、若い。
拳銃を構えているのは、まだ二十代半ばに見える小柄な女性警官だった。
二十代後半くらいの男性警官が、警告のために声をかけながら威嚇射撃したらしい。
おそらく、仙台駅に常駐する鉄道警察隊だろう。出張って来るのが、やたらと早かったのを見ると間違いない。
「刀を納めて、両手を上げなさい!」
女性警官の警告を補佐するように、男性警官も銃口をこちらに向けた。
二人に銃口をピタリと向けられているのは、波岡だった。
「波岡剛樹、だなっ?」
「全国指名手配の凶悪犯が、よくも堂々と、この仙台駅前を歩けたものね」
二人は銃口を向けたままジリジリと、波岡に詰め寄ってきた。
拳銃の持つ絶対優位性と、いざという時の殺傷力を信頼しているからこそである。
いよいよになれば、波岡の手足にでも発砲すれば何とかなると思っているのだろう。
更には、応援の警官が二人、三人と駆けつけて来るのが見えた。
だが、高陽は逆に、
(いかん?!)
状況がより危険度を増すことを直感した。
波岡はといえば、女性警官の警告に従い、熊斬り太刀を背中の鞘に納めた。そのまま両手を上げて、無抵抗の意を示してはいる。
一見、極めて素直に見えた。
「どうやら、観念したようね」
その様子を見ていた早月が、いつの間にか高陽の傍近くに近寄りつつ呟いた。
早月に限らず、大概の人間はそう判断したことだろう。
しかし高陽の直感は、確実な危険を察知している。より凄惨な、数瞬先を予期していた。
その直感が思わず、高陽に叫ばせていた。
「危ないっ、ソイツはっ・・」
高陽が叫ぶのと、ほぼ同時だった。
波岡が、背中に納刀されていたはずの熊斬り太刀を抜き放つなり、蜻蛉に構えた。と、見る間もなく、彼を取り囲んだ三人の警官を切り捨てたのである。
まさしく雲耀の間であり、瞬間よりもさらに短い、コンマ数秒のことであった。
波岡が納刀状態で手を上げていたため、抵抗の意思はないと思わされた。それ故に、油断とまでは行かずとも、不用意に近づいたからこその悲劇だったと云える。
三人の警官は、発砲する間もなく我が身に何が起こったのか、理解出来ぬまま絶命した。
二人がそれぞれ、左右の袈裟懸けに両断され、一人は返す刀で横薙ぎに首を刎ねられていた。
夥しい鮮血が周囲に飛び散り、三人の斬られた身体の断面からも血が迸る。
遠巻きに事態を見守っていた野次馬から、一斉に恐怖と驚愕に満ちた悲鳴が上がった。
たちまち仙台駅前、ペデストリアンデッキ上がさらなるパニックに陥る。
高陽の前に若い女性警官が、波岡に銃口を向けたまま回り込んだ。最初に駆けつけた二人のうちの一人だ。
しかし、発砲出来ない。
無理もなかった。
目の前で同僚たちが、手もなく血祭りに上げられたのを見て、すっかり怯んでしまっている。
その証拠に拳銃の銃口が、ガクガクと震えて定まらない。狙いがついていなかった。
「邪魔だっ!」
波岡が叫ぶなり、またも突進してきた。
無論、雲耀の足捌きで、目的は高陽のはずだろう。
高陽は咄嗟に女性警官の襟首を掴み、思い切り引いた。
「ひゅっ?」
上げ損ねた悲鳴のような吐息を漏らし、見事なまでに女性警官は高陽の後方まで吹っ飛ばされていた。ほとんど力づくで投げ飛ばされたと言っていい。
派手に地面に転がされながら、苦しそうに咳き込む。しかし、高陽がこうでもしなければ、次に真っ先に波岡に血祭りに上げられるのは彼女だっただろう。
高陽はそう判断したからこそ、迷わずこうしたのであり、手段の是非など問う以前の問題だった。
「チェエストオオォっ!」
やはり迷わず、波岡は高陽めがけてまっしぐら、蜻蛉から袈裟懸けの初太刀に来る。
「キィィエイッ!」
高陽も迷わず、腰の愛刀の柄に右手を這わすなり、気合いもろとも引き抜いた。
それはそのまま、強烈な抜きつけの一刀となる。
こちらもまた、瞬速の一太刀。
波岡の初太刀が雲耀、つまり「稲妻」ならば、高陽の居合はすなわち「竜巻」と云える。文字通り、風神の一撃だった。
またしても「雷神」と、言わば「風神」の刃が何度目かで激しく絡み合う。
もはや高陽と波岡の愛刀のどちらが「雷神」で、どちらが「風神」なのか、本人たちにも分からなくなっているだろう。
目の前で火花が飛び散り、ストロボを焚かれたような閃光と耳を突ん裂く金属音が、両者の間の空間に満ちた。
それも一瞬で、波岡の怒濤の連続攻撃が再び始まる。
誰もがそう思った、その時だった。
波岡があろうことか、再度蜻蛉に構えるやいなや、雲耀の足捌きで突進したのである。
高陽にではなかった。
雲耀の身ごなしで身体の向きを変えるや、高陽の右前方三十度の角度、五メートルの空間にだった。
そこにいたのは誰あろう、何と早月である。
(何だとっ?!)
ま、マズい。
思う前に、考えるより先に身体が反応していた。
波岡の雲耀の踏み込みに、必死で追いすがる。ほとんど、無我夢中で突進していた。
早月はというと、ほぼ呆然として棒立ちのまま反応出来ていない。何が起きているのか、状況の理解が追いついていないのだ。
波岡の顔を、ちらりと横目で捉える。
見るからに邪悪な笑みを浮かべていた。普段が無表情な顔と、感情のないような声の男である。それだけに不気味で、ゾッとする凄みがあった。
高陽の視界がコマ送りのスローモーション映像のようになっている。
ギリギリで何とか、早月の前に飛び込んだ。
波岡が凄い笑みを浮かべたまま、初太刀を切り下ろそうとしている。
━━━チィエェェィイっ━━━━
波岡の猿叫が、遠くに聞こえた。
受け止めるしかない。そうしなければ防げない。
その前の段階で間に合うタイミングは、もう過ぎている。
初太刀を迎え打つように、まともに受け止めた。
受け止められ、なかった。
波岡の剛剣は高陽の太刀を、圧し切る勢いで振り下ろされ、高陽ほどの男が押し込まれたのである。
受け止めきれなかった波岡の初太刀の切っ先に、押された愛刀「雷神」の峰が高陽の防護服の右肩に食い込んだ。
「ぐうっ?!」
まともに受けた斬撃の重さに、思わず高陽が片膝をつく。
ここでようやく右肩が、尋常ではない衝撃を自覚した。
ついで、肩から全身に広がるような激痛が走る。
そのさらに次には、嘗て感じたことのない吐き気が、肺から気道をせり上がった、
━━ぶふっ━━
一瞬で意識が遠のいた高陽の口から、血泡が吐き出されていた。
「ま、前野くぅんっっ?!」
早月の悲痛に叫ぶ声すらも、どこか遠くで聞こえていた。
早月の胸前、白のトレーナーの中央が縦に裂け、薄いピンクのブラジャーに包まれた豊かな白い双丘の谷間が露わになっている。
高陽が止め損ねた波岡の切っ先が掠めたことで、切り裂かれたものらしい。
(服だけで、済んだか・・・・)
辛うじて、怪我はないようだ。
そのことを確認した瞬間、高陽は意識を失っていた。
無法新神流居合術の、修行時代以来の失神だった。