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杜の都の森のクマさん、後からさらに怖いヤツ

村井健介が札幌で、興梠麻里絵の奇襲を受けていたその頃━━━━

前野高陽の姿は、仙台駅にあった。

東北新幹線を降り、ホームに立つ。大型のスーツケースを引き、背中には熊斬り太刀を担いでいた。

いつもの通り、作業着のようなジャンパーにニッカポッカの、職人系のファッションである。

スーツケースの中身は、折り畳んだ防護服(アーマー)やコンパスなどの狩猟関連の道具類の他は、二日分の着替え用の下着に洗面用具が入っているだけだ。

高陽は基本的に、仕事で出かける時には余計な物を持ち歩かない主義だった。

文庫本一冊と言えど、邪魔になると思っている。

熊狩りの時には、そのことしか考えたくないからだった。余計な雑念は、こと仕事に集中するとなれば一切ない方がいいのは、どんな仕事でも一緒だろう。

高陽はまっすぐ、降り口に向かって歩き始めた。仙台には過去に何度か来たことがあり、駅の勝手は大体分かっている。

新幹線乗り場の入口が見えてきた時、

「前野くん」

と、女の声が聞こえた。

顔を向けた高陽の目が、口元が緩む。

早月(さつき)センパイ」

入口近くに、年の頃三十前後くらいの女が立っていた。黒髪のロングヘアーが似合うスラリとした女で、目鼻立ちが整った美人である。着ているのは白のトレーナーとジーンズの軽装だが、はっきり分かるほど豊かに盛り上がった胸元のせいか、それでも花があった。

「ゴメンね、わざわざ仙台まで呼びたてちゃって」

「いえ、オレの方こそ迎えに来ていただきまして。それよりもまずは、暫らくでした。(りょう)センパイもお元気だったでしょうか」

「もう、相変わらずよ。学校と道場での剣道指導に夢中」

「涼センパイらしいですね、なら何よりです」 

「本当に暫らくだったわね」

笑顔の高陽に、早月センパイ、と呼ばれた女が微笑んだ。

この女の名は、亀岡早月(かめおかさつき)、高陽が呼ぶ通り、彼の高校時代の、剣道部の二年先輩である。

ちなみにこの、早月の夫が亀岡涼(かめおかりょう)、こちらも剣道部時代の先輩だ。

亀岡夫妻は、元々が同級生同士であり、そこから交際に繋がって結婚したのだった。

「それで、早月センパイ、例の話なんですが、具体的にどういうことなんですか?」

「それについては車の中で話すわ」

先ず行きましょ、そう言って亀岡早月は高陽と肩を並べて歩き出した。

新幹線乗り場から下に階段で降り、さらに下りのエスカレーターで降りた先の出口を出て、タクシーターミナルの近くに歩いて行く。

そこに何台か一般車両が停まっていた。

早月は女にしては背が高い方だ。高陽の身長は178センチだが、亀岡早月も170センチ弱はあろう。高陽と並んでも見劣りしていない。

「なんか、こうして歩いてるのを誰かに見られたりしたら、アタシらもカップルに見えるのかしらね」

「早月センパイ、勘弁して下さいよ。センパイ、仮にも人妻じゃないですか」

高陽は苦笑いするしかない。

(また、始まったか)

早月はというと、楽しそうなこと、この上ないようである。

亀岡早月という女の、悪い癖なのだ。

後輩の高陽がコメントに困る質問を、わざとする。困ることが分かっていて、その反応を楽しんでいる、そういうところがある。

いわゆる小悪魔キャラであった。

これはもう、人妻になった今でも変わらない。

「誤解を招くかしら?それとも、そうなったら迷惑?」

「誰かに誤解されたら困るのは、センパイでしょう?オレは別に困りませんけどね」

「試しに誤解されてみたい気もするけど」

「・・・・オレは担ぎませんよ、片棒」

「うちの旦那に、気を使ってる?」

「そりゃあ、怒られたくありませんから、涼センパイに」

「・・・もう、マジメなんだから、相変わらず」

でも、そこが前野くんのいいところよね。

早月がため息半分で言うと同時に、停まっていた黒のアルファードの前で立ち止まった。

高陽が軽い驚きの表情を浮かべた。

「クルマ、買い替えたんですか?」

前に仙台に来た時と変わっていたからである。確か前は、中古で買った旧型のプリウスではなかったか。高陽は記憶を手繰った。

「うん、先月に買ったばっかり」

「ずいぶん思い切りましたね、教師の給料が高いわけでもあるんですか、宮城県って?」

「普通じゃないかしら」

高陽は目を丸くした。亀岡夫妻の職業は夫婦ともに教師であり、一般的なイメージ通りならあまり給料は高いとは言えないはずだった。

いくら夫婦共稼ぎでも、普通に考えれば教師の給料で買える車ではない。

どうやって?どういう訳でですか?

高陽が尋ねるより先に、早月が説明してくれた。

「お義父(とう)さまがね、愛花(まなか)もいることだし買い替えた方がいいって言って下さったのよ」

「涼センパイの親父さま、亀岡先生が、ですか」

なるほど、納得した。愛花とは亀岡涼と早月の間に昨年産まれた娘のことだ。

涼の父、亀岡翔(かめおかしょう)は高校で校長まで務めて長年教鞭を執る傍ら、宮城県剣道界の重鎮でもある。

剣道の腕前は実に、斯界最高位の範士八段。腕前のみならず、人格者としても知られており、県内外を問わず信奉者がいる。

高陽も何度か会ったことがあり、目をかけてもらってもいたし、尊敬してもいた。

その翔が、やっと産まれた初孫の愛花に夢中だというのは、高陽も亀岡夫妻から耳にしていたのである。

つまりは孫可愛さに、お祖父ちゃんが息子夫婦のクルマの買い替えを応援したということのようだった。

「なるほど、亀岡先生が、ね」

「そういうこと。先ずは乗って、前野くん」

「そういえば、愛花ちゃんは今どこに?」

「大丈夫、旦那の実家にお願いしてあるから」

「ち、ちょっと、それで良かったんですか」

「それも大丈夫よ、お義母(かあ)さまもむしろ、喜んで下さってたから」

言い終えた時にはもう、早月は運転席に座っている。

高陽は一瞬迷った。

「オレは、どこに乗ればいいですか?」

一応、尋ねた。何とは言っても相手は、いくら気心の知れた特別な感情などない女とはいえ、仮にも人妻だからだ。

早月がニコりとして言った。

「助手席でいいわよ」

「涼センパイに、怒られたりしません、オレ?」

苦笑いする高陽に、早月はさらに微笑んでいる。

「心配なら、怒られない程度にしておくことね」

アタシは別に、前野くんが相手なら誤解されても平気だし、むしろ光栄だけど。

助手席に乗り込んだ高陽に、早月はイタズラっぽい笑みを浮かべて言った。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 


「それで、その熊ってのは今、どんな状態なんですか?」

早月の話しを聞き終えた高陽は、助手席の窓から流れる景色を見ていた。

窓の外は鬱蒼(うっそう)とした山林が広がっている。

仙台市の郊外は太白(たいはく)区、秋保(あきう)地区である。

仙台市の特徴として、中心部は東西南北に走る地下鉄やJR線などの交通網が発達しているだけでなく、少し郊外に出ると海にも山にも比較的近いということがある。

つまり、自然も豊かだと云え、一度住むとその住みやすさと景色が気に入る者も多い。

そのためか大手企業のサラリーマンなどには、転勤で仙台に来たのを機に郊外に家を買い、また転勤になった際は家族を仙台に残し単身赴任するという例が結構な数であった。

市街地のそこかしこに植えられ整備された銀杏並木と相まって、「杜の都」と呼ばれる由縁である。

「とりあえず今は、地元の猟友会の方々が監視してはいるけれど・・・」

ハンドルを握る早月が、前を向いたまま答えた。

早月の話は先ず、三日前に(さかのぼ)るところから始まった。

秋保地区の入口とも云える温泉街に、一頭の熊が現われた。

体長は推定で150センチほど、恐らく雄のツキノワグマだという。

見かけた湯治客が通報し、警察と猟友会が集まったのは良いが、何と言っても湯治客で賑わう温泉街である。

駆除しようにも、場所が悪い。

うっかり発砲などしたら、どこから人が出て来るか分かったものではない。

念のために近隣住民と、温泉宿に宿泊中の湯治客には外出自粛が呼びかけられてはいたが、まさか一帯を封鎖するわけにもいかなかった。

三十年ほど前の法改正で、条件が揃えば市街地でも熊駆除のための発砲が許可されるようにはなったが、こんな街中ではその許可はなかなか下りそうもない。

事実、三日経った今も下りていないらしい。

そのことを知ってか知らずか、熊はというと悠々としたもので、もはや我が物顔で地区内を徘徊(はいかい)しているという話しだった。

一日目などは先ず、地元でも知られた有名スーパーの店内に入り込み、その店の名物のおはぎをほぼ食い尽くした。本当に食ったかどうかは不明だが、売り物にならないほど荒された。

店の中にいた従業員や買い物客は逃げて無事だったのが幸いだったと云えた。

「発砲して仕留めるのが難しいようなら、方法は他にもあるんじゃ?麻酔弾を撃ち込むとか?」

「それがねぇ・・・・」

早月の話だと、異常にすばしこい熊らしく、地元猟友会のメンバーはもちろん、出動した地元の警察署員でも仕留め切れそうもないようだということだった。

「だから射殺に手間取ってるんですか。でもだったら、箱罠を仕掛けて追い込むとかは?」

「それも試したようなのよ、でも、猟友会のお爺ちゃんたちの体力では追いきれないんですって」

「警察は、一体何を?」

「猟友会の支援に集中するため、後方待機ということになってるらしいわ」

ここで高陽は軽く舌打ちした。どうも熊が関わる話しになると、警察はどこでも同じのようだった。

(何が後方待機だよ、及び腰なだけだろう)

つまりは、自分たちが前に出たくないだけだ。どうにも熊が相手だと腰が引けるのは、どこの警察も昔から変わらない。

発砲命令を出さないのだって、何かあった場合の責任を誰も取りたがらないだけの話しだろうが。

高陽の腹の中は正直、煮えくり返る寸前であった。

そもそもが猟友会を前線に立たせた後は、後方の「安全地帯」に陣取り、高陽がいうところの「高みの見物」と洒落込むのは、昭和の昔からの警察の伝統とも云えるのだ。

(いつまでも猟友会やオレら、熊狩士や熊撃士頼みにするんじゃなく、少しは自分らの組織内で養成するという考えが持てんのか、人材を)

これが熊狩士としての視点から、高陽が全国の都道府県警に抱いている率直な感想であり、要望でもあった。

その、悪しき慣例とも云えるほど何気なく、何となく続いてきた制度上の問題で、迷惑するのは誰よりも、他ならぬ地元住民なのである。

何かといえば、前例がない、と言って自分たちの腰の重さを正当化することだけは上手な、警察や役所、役人ではないのだ。

高陽のそんな思いを知ってか知らずか、早月が続ける。

「それでね、どうするかって話しになった時に、現場で相談を受けたお義父さまが、つい()らしたみたいなのよ」

「洩らした?何をです?」

「あなたのことをよ、前野くん」

それでか。それでだったのか。

ようやく高陽は合点がいった。

亀岡涼から、電話で連絡をもらったのは昨晩のことだ。

「急な話で悪いが、とにかく熊狩士の支度をして何も聞かず仙台まで来てくれ。訳はこっちに着いたら話す。駅まで早月に迎えに行ってもらうから」

涼に頼まれた場合、昔から高陽はいちいち理由を訊かない。今回も、何か理由がある、と思った。そんなものは後で聞けばいい、そうも思っただけだった。

それに夫妻とも高陽の知るかぎり、変な頼みをするような人物ではない。

たまたま札幌に戻って休養中だったところで、時間と身体がたまたま空いていたからオーケーしたにすぎなかった。

「亀岡先生がつい、言っちゃったんですね、知り合いに熊狩士がいる、と」

「そうなの。で、前野くんの名前を出した途端、みんなビックリしてたみたい。あの前野高陽と知り合いなんですか、って」

やっぱり有名人じゃない。

早月がまた微笑する。

そこから後はもう、呼べるかどうか、いや是非にも呼んでくれ、という話しになり、昨晩の電話に繋がったというわけだ。

ここでふと高陽は、仙台を拠点にしている凄腕の熊狩士がいたことを思い出した。

そうだ、あの人がいたはずじゃないか。

なのに、何でオレなんだ?

気になったので尋ねてみた。

「しかし、仙台といえば、熊狩士ならあの人がいるでしょう、その人には連絡つかなかったんですか?」 

「もちろん、真っ先に警察は連絡をとったみたいね、けど・・・」

「けど?」

早月はため息をつきながら言った。

「その人、一週間前に和歌山で熊を仕留めたらしいんだけど、その際に崖から落ちて足を骨折したらしいのよ。今は入院中なんですって」

どうも、様々な悪条件、タイミングの悪さが重なったらしい。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


「あそごだ、あの小屋の中に逃げ込んでっしゃ」

地元猟友会の老人が指差した先を、高陽は黙って見つめた。

現地に着いてすぐ、詳しい状況の説明は受けた。仙台弁丸出しだったので細かい部分は分からなかったが、要約するとどうも、二時間ほど前から小屋の中に入り込んで出て来ないらしい。その上で、地元の関係者らに案内されたのがここだった。

(小屋の中に居座ってるのか、厄介だな)

高陽の見つめる先にあまり広くはない畑があり、その奥に作業小屋がある。小屋の裏には細道があり、その後ろは竹藪。畑には何も植えられていない。だが小屋の中には、色々な農具やら農機が置いてあるようだ。

そうなると、小屋を壊してしまうような追い立て方は出来ない。

「この畑と、あの小屋の持ち主には連絡は取れたんですか」

高陽は地元の関係者の誰にともなく尋ねた。

「それならもう、問題ねよ。あの小屋さ入らいだ時に、連絡はしてあっから」

猟友会の誰かが応じた声がする。

「何か言ってましたか、その人?」

「何がっつうのは?」

声に対して高陽が投げかけた質問に、質問が返ってきた。

「小屋の中ではなるべく捕まえないようにしてほしいとか、畑は荒らすな、とか」

「ああ、そっだらごどなら、大丈夫だね、小屋は壊さいだらマズいって言ってだげっとも、畑は何も植わってねえがら(なん)じょなりしてもらって構わねどっしゃ」

仙台弁がキツくて何を言っているのか、高陽には分からない。

ひとことで訊き返した。

「つまりは、畑の上でなら駆除しようが捕獲しようがオーケーということですか?」

「そういうごったね」

どうやら正解らしい。

(じゃあ、決まりだな)

畑の方に何とか追い出してもらい、そこで待ち構える。それしかない。

高陽が戦術を決めかけた、まさにその時だった。

「危ねえ、そっちゃ行ったどっ」

小屋の後方から突然、緊迫した叫び声が上がった。小屋の裏手で包囲していた関係者の誰からしかった。

同時に、

━━━ガウルっ━━━━━

半分開いていた小屋の戸口を押し破るように、一頭の褐色の弾丸が飛び出して来たものである。

陣形を整えている時間など当然、ない。

「全員っ、退避っ」

高陽は咄嗟(とっさ)に叫びつつ、熊の前に立ちはだかるように立った。

その時にはもう関係者は皆、高陽の後方に下がれるだけ下がっている。

━━━━ゴルラァっ━━━ 

熊は唸りながら高陽に突進してくる。体長150センチ、体重は100キロ以上はあろう、ツキノワグマだ。

二十メートルほどの距離が、一瞬でゼロになった。

(?!、速いっ!)

高陽は咄嗟に右に体を開き、身を(かわ)した。

躱しきれなかった。

熊が置き土産とばかりに振り回した左前足が、高陽の防護服(アーマー)の右脇腹を(かす)めていたのである。 

もんどり打って独楽(こま)のように吹っ飛ばされながら、辛うじて持ちこたえた。

(()うっ、やりやがったな)

メット帽の中で、高陽は舌打ち混じりに顔を(しか)めた。防護服のおかげで衝撃はかなり吸収されてはいたが、下手をすれば肋骨を折られかねないパワーがある。

高陽だからこそ、躱せた一撃といえた。

並のハンターでは、脇腹を(えぐ)られていただろう。

一般的な比較では、ツキノワグマはヒグマほどのパワーはないという。だがそのかわり、ヒグマにはない敏捷性があるところが、厄介といえば厄介な点と云えた。

━━━━グガァっ━━━━━━━

初撃を高陽に躱された熊が、唸りとともに追撃してくる。

熊が右前足を振った。高陽はその下を潜るように、前転することで躱した。

これでここで、やっと僅かに間合いが空いた。一足一刀の間合い、高陽にとっての絶好の間合いであった。

ようやく出来た、自分の得意とする間合いである。

(ここだ)

ここを逃す手はない。

高陽は左肩の後ろに生えた、刀柄に素早く右手を伸ばした

同じく左手は、鞘のこじり付近。

愛刀の熊斬り太刀「雷神」を、鞘引きとともに引き抜きかける。

高陽に右を躱された熊が、素早く身を(ひるがえ)した。

唸るなり、またも高陽に突進する。

━━━ガアアっ━━━━━

今度は咆哮一番、大口を開けて迫ってきた。

噛みつく気だろう。あの強靭な顎で噛まれたりしたら、人間の頭蓋など簡単に砕ける。

(だが、な)

「ィエイッ!」

気合いとともに、高陽が抜きかけていた雷神を一閃させた。

背に負ったままの状態から抜き放つ、特殊な片手抜き打ちの一閃。

無法新神流居合術の基本技にして、奥技とも言える技、「背刀(はいとう)」であった。 

高陽はあえて抜きかけた態勢のまま、褐色の突進を待ち構えたのである。

高陽の右腕にも右手にも、何の手応えも伝わって来なかった。

(誰が黙って噛まれるかよ)

高陽に斬られたはずの熊は、そのまま何事もなかったように数歩走りすぎていく。

まるで互いの身体をすり抜けたように、高陽と熊は交錯していた。

「何だべ、いま、斬ったんでねがったのがや」

地元関係者の誰かが、(つぶや)いたその時。

まだ走っている熊の体表から、突然鮮血が噴き上がった。

次いで熊の体が、走りながらスローモーションのように左右に割れ、ドウと倒れる。

(おびただ)しい出血とともに、もはや意志のないはずの熊が、己の臓物やら脳漿(のうしょう)をまき散らしたのがその次の瞬間。

驚くべきことに、こうなってもまだ熊は走ろうとするかのように、四肢をバタつかせていた。

(自分が死んだことに、気づいていない)

その場に居合わせた関係者全員がそれに気づきながら、同時に言葉を失っていた。

開いた口が、とはこのことだっただろう。

それほどの、恐ろしいほどの太刀筋を見せた高陽はと言えば、残心を示すようにゆっくり納刀している。

何だかまるで、どうだ、と言わんばかりの仁王立ちだった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


「じゃあ、本当にここでいいの?」

アルファードの運転席から、早月が尋ねてきた。

「いいですよ、少し、歩きたいんで」

高陽は既に車から降り、自分の荷物を取り出している。背に愛刀の「雷神」をきちんと背負っていた。

仙台駅前、青葉通り。まっすぐ5分も歩けば、仙台駅西口名物ペデストリアンデッキに繋がり、そこから駅構内に入れる、そういう場所だった。

秋保地区でツキノワグマを仕留めたのが、昨日のことである。

そのまま亀岡夫妻の自宅に泊めてもらい、さきほど辞去してきたところだった。

何としても今日中に札幌に戻るつもりである。

「せっかく仙台まで来たんだから、もう二、三日ゆっくりしていけばいいのに」

お義父さまも、ウチの旦那も喜んでたし。

早月が名残り惜しそうに、引き止めてきた。

高陽は昨晩の亀岡親子から受けた、ささやかな歓待の酒宴を思い出していた。

亀岡翔も涼も、(したた)かに酔っ払っていたし、高陽自身もかなり呑んでいた。

その様子を、愛花をあやしつつ見ながら早月も笑っていたものである。

皆、高陽との久々の再会が嬉しいようだった。

「何事もなかったら、そうさせていただいたところ、なんですけどね」

高陽は曖昧な笑みを浮かべている。

曖昧にならざるを得なかった。

亀岡家の人間にはあえて説明していなかったのだが、実は昨晩、健介から連絡があったのである。

正確には健介の恋人、浅倉秋菜からだった。

そこで昨日、健介が興梠麻里絵と覚しきスナイパーに狙撃され、それにより札幌市街が戦場のようになったことを知らされたのである。

さらには健介も負傷して入院したらしく、秋菜はかなり慌てていた。

それで高陽は、翌日すぐ札幌に戻ることにしたのだった。

(よりによって、相手はあの、ダーティーマリーか)

いったいなぜに、どういう状況で、興梠麻里絵に狙われたりしたのか、狙われねばならなかったのか。

いずれにせよ、仙台にいたのでは分からない。秋菜ではなく、健介から話しを聞く必要がある。それも、一刻でも早い方がいい。

場合によっては、相方の自分にも火の粉が飛んで来ることになる以上、のんびりしてはいられなかった。

「何しろが、仕事絡みなんで、すいません」

亀岡先生と涼センパイにもよろしく。

まだどこか名残り惜しそうな早月に(いとま)を乞い、高陽は駅に向かって歩き始めた。

後ろで早月が何か言ったようだったが、もう高陽の耳には聞こえていない。

興梠麻里絵が動いたということは、誰かの依頼でに間違いないだろう。

それは誰か、誰が依頼したのか?

心当たりがあるようで、ないような気もする。というよりも、いちいち覚えてもいられなかった。

何も賞金を稼ぐために、実力を行使したのは熊ばかりではない。何人か、賞金首の犯罪者もいたからである。

それは自分も健介も同じだと、考えながら高陽は、バスターミナル脇の階段を昇った。

ペデストリアンデッキに上がり、まっすぐ駅の入口に向かおうとした、その時。

「前野くん」

後方、階段の下から駆け上がりながら、息せき切って追って来たのは亀岡早月だった。

トレーナーの下で、豊かな乳房が弾んでいる。すれ違った男たちが皆一様に、好色そうな視線を向けていたがお構いなしだった。

「早月センパイ、どうされたんですか?」

軽く驚きながら尋ねる高陽に、呼吸を整えながら早月が答えた。

「どうせだったら、ホームまで見送ろうと思ったのよ」

「それは有り難いですけど、センパイ、人妻ですからね。ちょっと、微妙なんですが」

「悪かったわね、人妻で。そう言うなら、誰か良い人はいないの?」

言ってから早月は、しまった、という顔をした。むろん、亡き榊裕子のことは知っていたからである。

謝る代わりに、さらに質問を重ねた。

「もうそろそろ、誰かと幸せになることを考えても良いんじゃない?例えば紗也乃ちゃんとか」

田代紗也乃は早月とは、中学で先輩後輩の間柄だった。今も連絡を取り合っており、実は早月は、紗也乃が高陽に寄せる想いを知っていたのである。

早月がさり気なく、高陽に質問を投げかけた、ちょうどその時だった。

「まえのーっ、前野っ、高陽おーっ!」

高陽と早月がいる階段の上がり口から、百メートルほど離れたあたりから高陽を呼ぶ叫び声がしたのである。

太い、それでいてハイトーンではないが、妙に腹の底に響いてくる声だった。

そして、声と同時に(まと)わりついてきたのが、粘つくような、それでいて、冬でもないのに鳥肌が立つような、凄まじい殺気。

自分の名を呼ぶ声の主を見た高陽の顔色が、僅かに変わった。

彼がそこで見た男の姿は、彼が知るかぎり、熊狩士の世界ではもっとも顔を合わせたくない人物の特徴を、全て備えていたからである。

高陽は、自分が知っている、その男の名を思わず口走っていた。

そう、高陽ほどの男が思わず、そうさせられた男の名前は、

「波岡剛樹っ!?」

言った時には、背に負った愛刀の柄に右手を伸ばしていた。



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