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熊狩士を愛した女は未だに想い断ちがたく、切ない片思いに気づかないのは彼ばかり

夕日の差し込みがきつくなりつつあり、西を向くともう、目を開けていられなかった。

西日がさしているのは、道場である。

それも、その辺の町道場ではない。

札幌市内で、いや、北海道中を見渡しても恐らく、一般市民では先ず立ち入れない道場だ。

もし、何かの事情で入れるわけがあったとしても、普通は二の足を踏むことだろう。

どこの道場なのか?

さもありなん、北海道警察本部の庁舎内、剣道特錬員の稽古場であった。

その、夕日に照らされた道場内に、竹刀を交える音が響いている。

鋭く床を踏み込む足音、足さばきの擦過音とが重なり、裂帛の気合いがそれに付随し混じってもいる。

剣を交えているのは、二人。

一人は身長180センチ弱の、スラりとした印象の男だ。

だが、その腕をよく見れば、竹刀を打ち込むたびに筋肉が太く盛り上がり、決してひ弱ではないことが分かる。

肩周りから胸周りも(たくま)しく、そのくせ背中から見た腰回りには無駄肉が一切ついていない。

恐ろしく均整のとれた、効率よく作られた身体といえた。

もう一人は、背は頭一つだけ小さい。

こちらは小柄なせいもあってか、見た目はかなり華奢に見える。

それもそのはず、面の襟足から一本にまとめた長い黒髪を垂らしているところからして、女のようだった。

道理でというべきか、男の気合いに比べて、

かなり甲高いそれを発している。

「メッ、エェぇーん!」

「オメェェーん!」

互いに面に飛び、相打ちになった両者の面がバチンと鳴った。

同時に二人が、開始線に戻り分かれる。

双方、蹲踞(そんきょ)から竹刀を納めるように携刀姿勢になり、立ち上がって一礼。

ここでようやく、張りつめていた糸を緩めるように、二人ともリラックスしたようだった。

道場の端に、両者の荷物が置いてある。

下がりがてら二人とも、そこに移動した。

そこで初めて向かい合って座し、面を外す。

向かい合い、座礼。

「ありがとうございました」

「ありがとうございました」

両者の声が重なっていた。

顔を上げた一人は、前野高陽だった。

元警察官で熊狩士の、前野高陽である。

この日の彼は、久々に北海道警察本部に稽古に訪れていた。

熊狩士になるべく警察を辞職してから、そろそろ六年になろうとしているが、今でも時々こうして、地元に戻った時は古巣で稽古するようにしている。

熊狩りや犯罪者相手の賞金稼ぎは、言うまでもなく実戦であり、こと勝負度胸をつけるためには、これほど効果的なものはない。

一度の実戦経験は十年の鍛錬に匹敵する、そう断言する武術家もいるほどである。

しかし、その弊害(へいがい)と呼べるのは、こと実戦慣れしすぎると武術の基本から外れやすいということ。

つまりは技が我流になりやすいということだった。

これは無法新神流居合術の師、大谷源助(おおたにげんすけ)からばかりでなく、道警特錬時代の恩師である、松竹直行(まつたけなおゆき)首席師範からも常々、言われていたものである。

故に高陽は、どんなに多忙でも月に一度は札幌に戻り、こうして特錬の稽古場に顔を出すようにしていた。

幸い、松竹師範を始め昔の仲間たちも快く迎え入れてくれたためだ。

もっとも、高陽が道警本部に顔を出す理由はもう一つある。

「全くさすがというか、相変わらず強いわよね、前野くんは」

汗を拭いながら、高陽の稽古相手を努めていた女性剣士が白い歯を見せた。

北海道警察の剣道特錬が誇る、強豪の女性剣道家、田代紗也乃(たしろさやの)だった。

襟足で束ねまとめた長い黒髪に、整った輪郭の目鼻立ちが際立つ美人である。

「そういう紗也乃だって、また腕を上げたじゃないかよ」

「あ、また何か、余裕かましてるでしょ?本当はもう、アタシなんか稽古相手にならないとでも、思ってるんじゃ、ないの?」

「そんなわけ、あるかよ、マジでだよ」

「マジねぇ?まあ、そういうことにしておきますか」

彼女、田代紗也乃とは警官時代、高陽は同期だった。

いや、正確にはもっと前、高校時代からのつき合いになる。

お互いが、北海道内でも強豪として知られる高校の剣道部に所属していた。

学校は違ったが、道内の大会や稽古会でよく顔を合わせるうちに親しくなり、よく話すようになった。

高3の時には、二人とも道代表としてインターハイに出場してもいる。

不思議なほど、馬があった。

紗也乃とは、特に気を使うことなく何でも話せたものである。

そう、高陽が特錬の稽古に参加するもう一つの理由、それはこの、田代紗也乃に会って稽古し、他愛のない冗談を言い合うことが、何よりの気分転換になるからであった。

事実、六年前に裕子を亡くした時には、かなりの支えになってくれたと思ってもいる。

紗也乃が前髪をかき上げながら、顔中の汗を拭っていた。

何の香りかは分からなかったが、彼女から僅かに良い香りが漂い、高陽の鼻腔をくすぐる。

「それで、今度はいつまでこっちにいれるの?」

紗也乃が(たず)ねたのは、高陽が次の狩り場にいつ()つのか、ということであった。

常にヒグマ、(こと)に宿敵、赤隻眼(あかかため)を追うことに躍起になっている高陽は、地元に戻って休養するのはせいぜい、三日もあればいい方だ。

いつも慌ただしく準備すると、また熊狩りのための情報を集めながら、北海道内のどこかしらかに出かけてしまう。

そしてもちろん、その中心にあるのは当然いつも赤隻眼のことである。

一度など、赤隻眼の情報が入ってきた途端、戻ったばかりの日に休暇返上で出かけたこともあり、とにかくその名を聞くと人が変わったようになる。

それが高陽の休暇事情であり、その危うさをよく見ていたからこその、紗也乃なりの気遣いだった。

「今度は結構、長く地元にいることになるよ。だいたい、一週間くらいかな」

一週間、と聞いた紗也乃が目を丸くした。

素直に驚いたようである。地元に戻った際にここまで長く休むなど、かつてなかったのだから無理もない。

「珍しいわね、そんなに長い休みを取るなんて。どういう気持ちの変化?」

何かあった?

高陽の答えは単純明快だった。

「オレが取りたいから、じゃあないよ。うちの相方が休みたいだろうから、半分は仕方なくなんだが、な」

「村井くんが?それはまた、どういうわけでなのよ?」

紗也乃は健介とも面識がある。既に二度ほど、高陽と三人で呑みに行ったことがあった。

「それが、どうやら彼女ができたらしいのさ」

「ええっ、本当に?」

高陽が苦笑いしながら言ったのは事実であった。

健介はつい三ヶ月ほど前から、幼馴染みの女子大生とつき合い始めたばかりであった。

テレビ通話のできる衛生スマホで、泊りがけの夜などはよく会話していたからである。

「ああ、アイツもまだやっぱり、若いな。

札幌が近づくとソワソワして落ち着かなくなるし、もうそのことしか、考えられなくなるらしい」

「それは仕方ないわよ、本当に若いんだもの。まだ二十二でしょ、彼?」

紗也乃が半分ニヤニヤしながら言った。

「アタシらみたく、来年には三十路に手が届くひとたちとは違うのよね」

「おいおい、勝手に自虐(じぎゃく)するなよ、オレらだって、まだまだ若いぜ、十分に」

オレまで一緒に年寄り扱いするなよ。

高陽が軽く(にら)みながら言った。だが、その口元は笑っている。

「じゃあさ、まだまだ若いなら・・」

紗也乃が美しい笑みを、表情全体に浮かべたまま言った。

「今晩、久々に二人で呑まない?二人だけの同期会ということで」

「お、いいね」

高陽が即答した。

「ここのところ、毎回健介も一緒だったからな、確かに久々だ、悪くない」


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


シャワーを浴び終えた紗也乃は、身体にバスタオルを巻きつけたまま、髪を乾かした。

乾いたところで、自慢の長い黒髪をアップにし、洗面台の棚からサムライ・ウーマンの小瓶を取り出す。適量を手首でこすり合わせ、うなじにつけた。

「こうしてても、気づかないのよね、あの鈍感は」

思わず独り言が漏れた。

自宅のバスルームである。

バスタオルの胸元を派手に押し上げる、豊満な胸の谷間が(なま)めかしい。

「全く、こんなものアタシがつけるのは、いつ、誰のためだと思ってんのよ」

そう、紗也乃が滅多につけることのない香水をつける。それが意味するのは一つしかない。

その理由はずばり、高陽であった。

実は紗也乃は密かに、高陽のことを想っている。

それも高校時代からずっとであり、想いをつげることが叶わぬまま、今日まで来てしまっていたのであった。

高校時代には、とても告白など出来なかった。何となく、そのタイミングを逃した。

それが高校卒業と同時に北海道警に奉職してすぐ、警察学校で顔を合わせた時には、

(チャンスが来た)

そう思ったものである。

しかし高陽にとって紗也乃は、仲のいい同期の一人にしか過ぎないようだった。

何しろが、剣友としてのつき合いが長すぎたと云える。紗也乃が自分でもそう思うように、高陽も恐らくそう思っているはずだった。

「何だよ、どういう風の吹き回しだ」

多分、想いを口にしたら高陽はそう言うだろう。

現に今までにも、何度か遠回しにサインを送ってもいたのだが、まるで気づいてもらえていない。

警察に入りたての頃、これはいよいよ本音を正直に言うしかないかと、一度はそう肚を決めた。もちろん、玉砕は覚悟の上でだ。

だが、その矢先に高陽が裕子とつき合い始めたことで、またタイミングを逃したものである。

紗也乃は裕子とも仲が良かったので、余計に複雑だった。

何といっても同期の間でも知らぬもののない、熱々のベスト・カップルである。

完全に入り込む余地がなくなり、高陽と裕子の仲睦(なかむつ)まじさを見るにつけ、嫌でも(あきら)めざるをえなかった。

以来、こうなったからには二人を友人として見守ろう。自分はそれでいい。一晩中泣き明かした末に、そう決心した。

決心したはずだった。

それが揺らいだのが六年前に裕子が、今では凶悪な(ひぐま)として名が知れるようになった赤隻眼に襲われ、無惨な死を遂げた時である。

高陽の嘆き、哀しみの様は当然見ていられぬほどであり、彼のそんな姿が痛々しく辛かった。紗也乃に出来たのは、高陽を黙って見守ることだけだった。

だからこそ、高陽が警察を辞して熊狩士を目指すと言い出した時には、彼女は一切反対せず、全力で応援したのである。

しかし、同時に彼女は気づいてしまった。

何にか?

封印し断ち切ったはずの、高陽への想いにだ。

(けど、あんなにユウちゃんのリベンジに燃えてるのを見てると、言うにいえないわよ)

そうも思った。

以来、何となくまた想いを言い出せぬまま、六年が経とうとしていたのである。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


白のワンピースに着替えた紗也乃が待ち合わせの店に入った時、高陽はもうカウンターに座ってビールを呑んでいた。

ロングスリーブのTシャツに、ジーンズのラフな格好だ。

彼女の到着に気づいた高陽が、手を上げた。ここだ、という合図だ。

「それ、何杯目?」

待たせた詫びもそこそこに、紗也乃が尋ねる。

高陽は紗也乃に笑顔を向けつつも、無言でVサインを作って見せた。二杯目ということらしい。

「本当に?」

紗也乃はさりげなく確かめるように、カウンターの中にいる坊主頭のオヤジに視線を向けた。店主である。

オヤジが笑顔で(うなず)いたところを見ると、どうやら本当らしい。

疑いを解いた紗也乃が、ビールを注文しながら高陽の隣に腰をおろした。

札幌市内、行きつけの居酒屋である。

高陽にとって、警官時代からの馴染みの店であり、常連になっている店。

亡き裕子とも何度となく来ていた店であり、一時期、裕子が亡くなった直後は足が遠のいたが、紗也乃や健介の誘いもあり、また通うようになった店だ。

そして、高陽ばかりでなく、現在の北海道警の警官たち、特に剣道特錬員らの行きつけにもなっていた。

故に、紗也乃も当然のこと、店主やスタッフと顔馴染である。

「こんばんわ、サヤちゃん、今日はコウちゃんとだけかい?」

オヤジが紗也乃に尋ねる。二人だけ、なのが随分と久々に思われたらしい。

「うん、今日は同期同士の呑み会、ってね」

「早く追いつきなよ、コウちゃんはもう、結構呑んでるぜ」

「おいおい、オヤジさん、オレはまだ二杯目だよ、まだ」

「大丈夫、前野くんが呑む時は、こんなものじゃないのは分かってますから」

「・・・おい、オレはいつも、こんなモンだろ?!」

高陽が苦笑いしながら突っ込む。

「にしても、遅かったじゃないかよ」

「シャワー浴びてたのよ、稽古の後の汗臭いまんまじゃ、いくら何でも嫌でしょ?」

「オレには、そんな気なんか使う必要ないだろ、今さら。何年のつき合いだよ」

「親しき仲にも礼儀あり、って言うじゃないよ。そういう前野くんは、まさか稽古の後のその足で来たわけ?」

「いや、オレも一応、シャワーは浴びて来たがな」

「ふうん、一応、ね」

「親しき仲にも、だろ」

言いながら、ビールのジョッキを空にした高陽が立ち上がった。ちょっとトイレ、と断り、歩いて行く。

店主がニヤニヤしながら、高陽の背を見送った。

「全く、こんな良い匂いさせてるのに、気づかないのかね?彼は」

「あら、オジさん、気づいてくれてたんだ」

「そら気づくよ。だって、サヤちゃんが香水なんかつけるの、コウちゃんの前でだけだろ?」

「そうなの。でも気づいてくれないのよ、彼」

「本当だよな」

相槌(あいづち)を打った店主が、それにしても、と付け加えた。

「・・・・やっぱりまだ、忘れられないのかなぁ、裕子ちゃんのこと」

「・・そうみたい、ね」

「あんな形で亡くなったからなあ、気持ちは分かるけどね」

「仕方ないわ、仮にも結婚までするはずだったんだもの、ユウちゃんとは」

だからこそ、まだ追いかけてるのよ、仇のヒグマを。

紗也乃がボヤくのに合わせ、店主もため息をついた。

「そろそろ、自分の幸せのことも考えた方がいいはずなんだけどなぁ、あれだけのイケメンなら」

無理よ、取り()かれてるから、赤隻眼に。

紗也乃が諦めにも似た思いを口にする。

「もう回りは皆、気づいてるんだけどね、サヤちゃんがコウちゃんにホの字なのは」

気づいてないのは本人ばかり、か。

店主がボヤくのに、今度は紗也乃が合わせた。

「本当に、これだけサイン送ってるのに気づかないのよ」

あの、ド鈍感は。

僅かな(いら)つきを、紗也乃は吐き出したのだった。

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