熊撃士とスナイパーの接近は、色々な意味で危険を呼ぶ
健介がようやく草原に姿を現したのは、高陽が仕留めたばかりのヒグマの解体を粗方終えた時であった。 熊の解体を手早く出来るかどうかも、熊狩士と熊撃士の必須条件と云える。
「あっ、れぇ?もう、終わっちゃったんですか?」
ワジマ式を腰だめにしたまま、近づいて来たのはいいが開口一番、呑気にそう言ったものである。
「おいおい?!」
振り返った高陽が、健介を軽く睨みながら突っ込んだ。
「肝心な時にどこ行ってたんだよ?おかげで、かなり手こずらされたんだぞ」
「いやあ、とりあえず目の前にまだ、奴さんはいませんでしたからね」
「だからと言って、オレに断りくらい入れろ。いつの間にか、いなくなられたんじゃ、こっちも戦術の立てようがないだろ?全く。フラッグ弾でなく通常弾でいいから、ワジマ式を二、三発もぶち込んでくれてたら、もっと早く簡単に決着がついたところだ」
その通りだと云える。本来なら、する必要のない苦戦を強いられただけに、珍しく高陽は恨み節全開だった。
「まあ、前野さんならボクがいなくとも、それならそれで何とかするはずだ、と思いましたんで、ね」
まるっきり予想通りの答えが返って来た。 簡単に言うなよ。相方の信頼に苦笑しつつ、高陽は状況を説明する。
「バカ言うな、言っとくが必死だったんだぞ。お前さんがいないことに気づいてすぐ、この野っ原に出たと思ったら、奴さんと鉢合わせしたんだ。木の陰からのっそりと立ち上がったのを見た時は、どうなることかと思ったぜ。そのまま、しぱらく睨み合いになったんだが・・・」
「気攻めの攻防をしてたんですね」
「ああ、そうだ。その均衡が破れるきっかけになったのが、どうやらお前さん方の発砲音だったのさ」
「あれ、じゃあ前野さんに勝負始め、の号砲を撃っちゃったのは、ボクだったわけですか?」
健介が申し訳なさそうに、大げさに驚きの表情を浮かべた。もっとも、いい意味でだが本当に申し訳ないとは、思っていないようである。それだけ高陽の腕のほどを、信頼しきっていると云えた。
そういう事さ、と言ってから高陽が、改めて尋ねた。
「だが、銃声は確かに、二種類聞こえた。一つはワジマ式だったが、もう一つの方にこそ、健介、お前さんが持ち場を離れざるをえない理由があったんじゃないのか?オレにはどうも、そうとしか思えんのだが」
「さすが前野さん、ご名答です」
健介がニコりとした。このあたりは高陽も、健介を信頼しているからこそだった。
「そうでもなけりゃ、ボクだって不用意に単独行動に移ったりしませんよ」
「さしあたり、最優先で確認する必要があると、判断したからこそ、だな?」
「その通りです。まだ目の前にいない熊よりも、危険だと判断しましたんで」
「もう一つの銃声、あれはオレの読みでは・・」
「はい、それ多分、当たりですよ」
高陽に皆まで言わせず、健介が結論を代弁した。高陽の言わんとしたセリフを、知っていたからである。
「ズバり、狙撃用ライフルです」
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村井健介が、それ、に気づいたのは山に入ってすぐだった。
地元ハンターの案内で山に入り、逃げたヒグマを追い始めたのはいいが、妙な光りが遠くに見えたのである。
最初、それが何の光りかは分からなかったし、てっきり自然の反射光かと思った。
が、すぐに妙なことに気づいた。
その光りがどうも自分たち、つまり、高陽と健介を追っているような感覚を覚えたのである。
しかも、点滅でもするかのように時々不規則に消えたりする上に、常に一定の間隔を保っているようでもあった。
(尾行られてるな、どうやら)
健介は直感していた。この辺りは熊撃士の本能と云える。
高陽もそうだが、健介もこういう時の己の直感は信じることにしていた。
熊狩士と熊撃士は日々野山を駆けめぐるせいかほぼ例外なく、野生の勘ともいうべき第六感が鋭くなる傾向がある。そしてそれは、大体の場合、外れではないことが多い。
(かと言って、今のところまだ、確証もない)
高陽に告げようかと思ったが、やめた。
「追跡者」がどこで見ているか分からない以上、それは危険だと判断したからだ。
それこそ狙撃用のスコープを使っていたりしたら、二人のやり取りは全部見られていると思っていい。
健介が何か高陽に声をかけてから別行動に移ったりしたら、それだけで悟られる可能性があった。
視線をはっきりと向けて凝視するわけにも行かない。こちらは「追跡者」の存在に、気づいていないふりをしなければならない。
(今のところ、撃ってこないのは、まだ気づいていないと思われてるからだ)
間違いない。気づかれたと、悟ったらその瞬間にライフル弾が飛んで来るだろう。
遠距離から狙われたら、基本的に近距離用のワジマ式では太刀打ち出来ない。
(・・・こうなれば、手は一つだな)
健介は決断した。
高陽が前方に注意を向けている時に、ごく自然に別行動に移るように、徐々に離れ始めた。
もちろん、「追跡者」の放つ「光り」の位置は、把握しながらである。
だが、以外にこれは骨が折れた。
大体の位置は分かっていたものの、追跡者の視線を掠めて、後ろを取る必要があったからだ。
おかげで健介は、山林の樹木に身を隠しながら、大きく迂回して近づくしかなかった。
距離的には一キロにも満たないほどではあったはずだが、一々木かげから周囲を注意深く伺いながらなだけに、手間も時間もかかるのは仕方ないとも云えるだろう。
本来山を歩き慣れた健介なら、ただ移動するだけならそう手間取る距離ではない。
そのはずが、たっぷり三十分以上を要しながら、歯ぎしりする思いで移動していたのだが、その時は唐突に訪れた。
(・・・・いた、アイツだ)
「追跡者」に他ならなかった。
健介の前方、百メートルほどの崖を前にした岩かげで、スコープつきのM25と覚しきライフルを構えた男を発見したのである。
しかも、向けた方向は高陽がいる辺りで間違いなかった。
やはり健介の読みは外れではなかったことになる。しかし、自分の感の良さを自画自賛している場合でもなかった。
グズグズしていたら、次の瞬間にもライフルの引金を引くかも知れないからだ。
(幸いまだ、ボクの行動にも気づいていない、な)
迷ってはいられない。
健介は足音を立てないように距離を詰めながら、「狙撃手」の後方に移動していた。
スコープの中の様子見に夢中でいるらしく、まるで健介の気配に気づいていない。どうやら、筋金入りのプロという訳ではないようだった。
「動くなっ!!」
我ながら月並みなセリフだな、と思いながら、健介はワジマ式を構えながら狙撃手に鋭く声をかけた。距離はもう、三十メートルほど。ワジマ式でも十分渡り合える距離である。
狙撃手が、ギョッとしたように振り向いた。
本当に夢中だったらしく、心底驚きの表情を浮かべている。二十代後半くらいの、一見コワモテではあるが決して、アタマの切れそうな男ではない。やはり、本物のプロとは言えそうにないようだった。
その証明ともいうべきか、狙撃手が開口一番に発したセリフが全て物語っていたといっていい。
「ばっ、馬鹿な、いつの間にオレの後ろに?!」
「後ろを取られたことが、そんなに意外ですか?」
質問に答える代わりに、健介はのんびりと尋ねた。
「てっきり、前野とは別行動に出たものと思ってたんだぞっ?!」
「あのですね、ボクがアナタの視界から姿を眩ませた時点で、自分の狙撃が気づかれたとは思わなかったんですか?仮にもボクも、プロですよ」
自分の判断と行動が、全て狙い通りに行っていた。その事実に内心、してやったり、とほくそ笑みながら、さらに質問を重ねていった。
「あらゆる可能性を想定して動くことと、常に周囲への注意を怠らないのは、プロとして絶対条件のはずですけどね」
「やかましい、若造にどうこう、言われたかないっ」
「おおかた、スコープの照準でウチの相方を追うのに夢中だったんでしょうけどね、本物の狙撃兵はスコープを使わないんですよ。
光りの反射で自分の位置を特定されるのを嫌うらしいですから」
これは事実である。
第二次世界大戦に於いて北欧フィンランドにソ連軍がスターリンの指示のもと侵攻した、いわゆる「冬戦争」の時のことだ。フィンランド軍に「シモ・ヘイヘ」という名の、凄腕の狙撃兵が在籍していた。
このシモ・ヘイヘも、やはり自分の位置を悟られるのを防ぐため、愛銃モシンナガンに装着可能なスコープを着けなかったという。
もっとも、彼の場合はそれ以上に、スコープのレンズが曇って見づらくなるのを嫌ったからでもあるらしいが。
余談ながら、ヘイヘは他にも例えば、自分の回りの雪を踏み固めて雪煙が舞わないようにしたり、常に口中に雪を含んで白い吐息が上がらないようにするなど、自分の位置を特定されないようにする用心を怠らなかった。
その甲斐もあり、モシンナガンを巧みに使いこなしたヘイヘは、開戦からの100日間で実に505人ものソ連兵を射殺。
ソ連軍からは「白い死神」と呼ばれて恐れられたという。
以上は余談。
「まあ、おかげでアナタの位置を知るのは、さほど難しくありませんでしたよ。むしろ、この山の傾斜やら起伏のせいで、移動に時間がかかった分、いつ相方を撃たれるかと冷や冷やしましけど」
「まさか、だからといって、反射した光りだけで狙撃だと気づくとはっ?!」
「言ったはずですよ。ボクもプロだ、と」
スナイパーの男はまだ、M25を前方に向けたままだった。健介の方に首だけ向けた格好だったので無理もない。
健介は変わらず、腰だめに構えたワジマ式を男に向けたまま。
形勢は完全に、健介の圧勝と言ってよかった。誰か見ている者がいたら、勝負あったと誰もが思ったはずだった。
その決まりかけた形勢が、一瞬だが崩れるきっかけは突然だった。
遠く、といっても距離的には一キロと離れてはいないはずの場所。
その遠くから、ヒグマの唸り声のような咆哮が、風に乗って僅かに聞こえてきたのである。
位置的に、高陽がいると推測される地点だと、健介にはすぐに分かった。
熊撃士は職業がら、熊の声にはつい敏感に反応してしまう癖がある。
この時の健介も例外ではなかった。
つい、ヒグマの鳴き声の方角に視線を流した、その瞬間。
スナイパーはその隙を見逃さなかった。このあたりは、この男もさすがにプロを名乗るだけあると云える。
身体を捻り、前に向けたままだったM25を旋回させると、健介にめがけて引金を絞った。
これに対して健介も、即座に反応した。
今さらさすがと、言うまでもあるまい。
咄嗟に右に横っ飛びするように身体を投げ出すと、ワジマ式を撃っ放していた。
二人の銃声が山間に交差する。
ズダーン、ズダーン!
ドッゴオォン!
男は健介の動きを追いながら、連射したようだった。
健介が右に転がりながら体勢を立て直して立ち上がったのは、男が右肩の辺りを押さえて崖下に落下する瞬間だった。
ウワぁっ、だか、ウォーっというような絶叫ともつかない驚声を残して転げ落ちて行く。
健介が駆け寄り、崖下を覗いてみた時には、もはや影も形もなくなっていた。
高さはざっと、20メートルばかりある。
角度はおそらく、50度ほど。
「助からないだろうな、これじゃ・・・」
仮に健介に撃たれた傷が大したことはなくとも、縋る場所とてない絶壁だ。
健介以外の誰が見ても、そう思うはずだった。
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「それで、その男の死体は確認したわけじゃ、ないんだろ?」
話しを聞き終えた高陽が、半ば呆れたように言った。
「だって、あの高さと急斜面を転げ落ちて、無事で済むわけ、ないですから」
健介はというと、気楽なものである。
「まだ死んでなかったら、どうするんだ?
その様子だと間違いなく、また狙ってくるぞ」
高陽の方は逆に、憂鬱な顔だ。後のことを考えると、面倒くさそうな表情であった。
「まあ、その時はその時で、考えましょうよ。どうせ、腕の方は大したことないはずですから」
「おいおい、ライフルを持ったまま落ちてったんだろ?責任持てよ、その時は」
「大丈夫ですって、任せてください」
「・・・全く」
このあたりの楽天さが、健介の最大の長所であり、同時に危うい点でもある。
あるのだが、高陽はもう、苦笑するしかなかった。
ボヤくかわりに、言った。
「解体したヒグマの肉を、運ぶ手はずを考えないとならんだろ。とりあえず、先刻の地元猟友会の方々に連絡して、ご協力願うとするか」
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スナイパーが目を覚ましたのは、ツツジのような小枝の密集した木の茂みの上だった。
健介に撃たれて、崖を転がり落ちた。その際に頭を打って気絶していたのである。
たまたま崖の途中にあったこの茂みが、クッションになってくれたおかげで命拾いしたようだ。
身体中が軋むように痛んだ。特に、健介のワジマ式の散弾が食い込んでいる右肩あたりに激痛がある。もっとも、右肩の他は擦り傷であり打撲なので、撃たれた傷に比べれば大したことはないとは言えるのだが。
「ちきしょう、どうやら二、三発は入ったようだな・・・・」
散弾銃の銃弾は、文字通り散らばるように飛ぶ。咄嗟に身を捻ったのが幸いした。ワジマ式の散弾をまともに食らったりしたら、上半身は原型をとどめないことになる。健介相手にこれで済んだのは、ラッキー以外の何物でもないと云えた。
茂みから転がるように、スナイパーは呻きながら身体を起こした。
自分の身体の状態は、痛みで把握できている。問題は、崖から落ちた際に装備を失くしたりしていないかどうかだった。
幸い、ライフルは手放さず保持したままだった。今も手元にある。さすかにどんな状況だろうと、銃を放してしまうようではプロと云えまい。
予備の弾倉や、方位磁石、さらに軍用ナイフ、腰のホルスターに入った拳銃も全て、失くした物はない。
こんな山中では道具一つを失くすだけでも、生死に直結する死活問題というものである。
そもそも自分自身、表立って言えない理由で山に入っている身なのだ。何かあったからといって、第三者に助けは求められなかった。
男は一応、裏社会を生きる身である。
決して、さして腕利きという訳ではない。
自分の腕のほどは、自分自身がよく知っていた。三流までは行かないまでも、一流というほどでもない。恐らくが二流、せいぜいが一流半というところだろう。
ライフルを使用しての長距離狙撃には、そこそこの自信があった。
ゆえに職業はというと、これも一応、スナイパーではある。あるが、熊狩士や熊撃士が副業でやるような、本職の賞金稼ぎではない。
むしろ、その逆だった。
業の本副を問わず、例えば高陽や健介のような、裏社会でも名が知れたような賞金稼ぎには、裏社会の人間から逆に懸賞金がかけられることがある。また、かけられている人物もいる。
言うまでもなく高陽と健介もそうであり、ほとんどの熊狩士・熊撃士もその対象だった。
特に高陽と健介などは懸賞金も最高クラスなので、その筋の人間からも常に狙われる存在だったのである。
さて、このスナイパーだが、なぜにこの地にいたのか。
なぜ山の中に先回りし、かつ高陽と健介を狙い撃つべき位置を取った上で待ち構えることができたのか。
理由は簡単、彼はこの近辺の集落の出身だったからであり、この辺りの山で熊が通るはずの道は熟知していたからであった。
何しろがヒグマが出没することなど、日常茶飯事の土地柄で育った身である。
猟友会のメンバーだった祖父に連れられ、山を遊び場のように駆け回っていた。
だからこそ、大体どの辺りが狙撃に適した場所かも知っていたのだった。
もう一つ、今日この地にいた理由、それは、たまたまに過ぎない。
そう、たまたまもたまたま、本当の偶然に過ぎなかった。
彼はこの日、生まれ育った実家に向かっていた。他人には言えぬ職業がら、最近、つい顔を出しそびれていた。
それが二、三日前のこと、母親の体調が優れないとの連絡があり、重い足を無理やり向けたところ、この熊騒ぎに出くわした。
そこで見かけたのである。
まともに自分が狙おうとしたら、まず返り討ちに遭うだろう超大物の顔を。それも二人もだ。前野高陽と村井健介であった。
いつか仕留めたい、と思いながら、自分の腕では無理とあきらめていた。
だが、しかし、どうだろう。
この辺りは自分は土地勘があり、山の斜面の陥没や落ちた石の位置、苔の生えている場所まで全て知っている。
他の場所、他の土地ならいざ知らず、この地でなら、限りなく可能性があるではないか。
まさに幸運、ラッキーであり、神が与えてくれた最高機会ならばこの際それに賭けてみたい。
そう思った。
もしも自分を知る同業者が聞いたなら、やめておけと止めるか、あるいは嘲笑うかのどちらかだろう。
それでも構わない。
無謀だと罵るならば好きにしろ、身の程知らずだと笑わば笑うがいい。
少なくとも目の前に、自分自身でも手が届くかも知れない、一生に一度あるかないかの大仕事があるのである。
だったらそれに全力を出すのも、男としての本懐ではないか。
男なら、一度くらいは無謀なほどの仕事もしてみたい。男と生まれたからには。
そう思って、何が悪い。
(たが、どうやら、やはり無謀だったか)
現に先刻、村井健介に自分の位置を読まれて捕捉され、ご丁寧に崖から叩き落されたばかりである。
恐らく、もう二度とこんなチャンスはあるまい。
ザマはないな。自嘲しながら、スナイパーは激痛だらけの身体を無理やり運ぶように歩いた。
愛銃M25の銃把を杖にしつつ、どうにか自分が乗って来た車を停めた場所に戻って来れた。
あと、少しだ。
そう思った、その時。
スナイパーはやにわに、物凄い異臭を鼻先に嗅いだ。
どこかで、いつか嗅いだ臭い、そして、懐かしいが出来れば二度と嗅ぎたくないと思った臭い。
彼がその記憶を探った瞬間だった。自身の後方から伸びた影が、自分の影を覆い隠すのを認めたのである。
振り返った彼は、思わず上を見上げた。見上げるしかなかった。
彼の目に映ったそれは、あまりに巨大な存在だった。同時に臭いの原因とその呼び名を、それは彼に、強制的に一瞬で思い出させてもいた。
(じ、獣臭!)
そう、ヒグマだった。
そのヒグマの目は、燃えるように赤かった。
スナイパーは不思議と、取り乱すでもなく冷静にヒグマの目を見た。
何となく違和感を覚えて、よく見ると右目が異様に赤い。
いや、目が赤いのではない。そもそもが、そのヒグマには右目がなかった。
右目のあたりの傷そのものが赤いのである。
まるで爆ぜたような傷だ。
(ま、まさか、コイツは?!)
スナイパーがそのヒグマの通り名を浮かべたのと同時に、そのヒグマ━赤隻眼━が無造作に右前足を斜めに振り下ろした。黒い暴風雨というべき、不気味な風鳴りだった。
スナイパーが、咄嗟に杖にしていたM25で防御しようと、銃身を両手で頭上にかざす。
世にも恐ろしい音を立てて、M25が木製ストックと銃身もろとも真っ二つに折れた。
スナイパーの首が音もなく吹っ飛んだのは、それよりコンマ何秒か遅れてのこと。
近くの木の幹にゴツんと当たって転がる。
辛うじて原型を留めた顔半分のその表情は、驚愕の表情をありありと浮かべていた。
破壊されて空中に散ったスコープのレンズの破片が、夕日の陽光に煌めく。
結局、この男の人生最後の一日はラッキーなどではなく、アンラッキーに次ぐアンラッキーに見舞われ、重なりまくった日だったことになる。
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赤隻眼はスナイパーを瞬殺してすぐ、勝利の雄叫びのように咆哮したが、その吠え声は高陽らの耳に届くことはなかった。
高陽と健介は折しもちょうどその時、解体した熊肉や部位を地元猟友会のメンバーらの車に、分配やら積込みを終えたところだった。
高陽は、猟友会リーダーの老人が乗ってきた軽トラの助手席に乗り込もうとしていた。
「すいませんね、よろしくお願いします」
「構わんよ。何しろ、地元で困らされたヒグマを駆除してくれた英雄じゃからの」
老人は自ら、二人を自分らが麓まで送ると申し出てくれたのだった。
高陽も健介も、そこまで世話になるわけには、と先ずは一応固辞したのだが、
「是非に」という顔で、どの老ハンターも乗っていけと言わんばかりである。
こういう時、年長者に厚意を示された場合は基本的に、高陽らは素直に甘えて受けることにしている。
却ってその方が、年長者に対しては敬意を示すことになるからだ。
左を見れば、健介がメンバーの老人の運転するジムニーに乗り込んだようだった。
「じゃあ、行きますかな」
リーダーが軽トラのエンジンを始動させた。
ほぼ同時に、周囲でも車のエンジンがかかる音が連鎖する。
それぞれが一斉に走り出した。当然、辺りは騒がしいというほどではないが、車のエンジン音が響き始める。
赤隻眼が遠くで咆哮したのはまさにこの時全く同時にであり、見事なまでにエンジンやら走行音に被さっていた。
もしもこの時、高陽が近くの宿敵の存在に気づかなかったことを知ったとしたら、後々まで悔しがったことだろう。
だが幸か不幸か、タイミング悪く一斉に始動したエンジン音と、山間部の砂利まじりの荒れた路面ゆえの耳障りな走行音がそうさせなかった。
結局、高陽はこの時、自分が執拗に追い続ける恋人の仇敵がさほど離れていない場所にまで接近していたことに、そして、その存在に気づかぬまま残酷なまでにすれ違っていることに、終生気づかなかったのである。




