プロローグ━熊狩士と熊撃士
西暦203X年、日本。 過去数十年にわたる行き過ぎた保護政策により、国内では鹿や猪、熊などの野生動物が急増。獣害による被害が深刻化し、なり手が少なくなったことによるハンター不足が、それにより追い打ちをかけた。
その中でも熊、本州におけるツキノワグマ、北海道に生息する羆によるものは年々、件数・被害額ともに深刻さの度合を極め、人身、農作物の別を問わず、もはや凶悪化の一途というべきものになっていった。
本来のクマの生息域に、開発の名の下で人間が居住するようになったせいで、クマたちは人間を恐れず、逆に自分たちの縄張内の獲物とみなすようになってしまったことが原因と考えられた。
西暦204X年、5月某日。 北海道旭川市において、住宅内で就寝中だった一家5人が羆に襲われ全滅するという凄惨な獣害事件が発生。 同年7月、札幌市内を観光していたカップルが、市内に出没したヒグマに襲われて死亡。 翌月には小樽市でヒグマを警戒するため巡回中のパトカーがヒグマを発見、射殺を試みるも反撃を受け、男性警察官が即死、女性警察官が重体となり、数日後に死亡。
同年9月某日。 国会で「対鳥獣類正当防衛法」が成立。 翌月10日、施行。世論に押される形での異例の早さでの施行であった。 これにより、「銃砲刀剣類所持等取締法」、いわゆる銃刀法の規制が改定、緩和され、犯罪歴や精神病歴がなければ、比較的簡単な審査と申請手続きにより「対鳥獣対策」と認められることで、銃砲刀剣類の所持・携帯および、緊急の場合の使用までが許可されることとなった。
翌年1月。 日本政府はごく一部の性能を限定した銃火器に限り、市販化のための輸入を決定。 国内の大手企業「輪島秦重工」においてライセンス生産化するべく、調整を開始。 さらに同年10月、全国各地の銃砲店の店頭にて、販売が開始されるに至った。
さらに時を同じくし、日本政府は熊を駆除することに関し、現場での判断の全権を持つ国家資格「熊狩士」「熊撃士」を創設。
熊狩士が使用するための特殊な狩猟用太刀「熊斬り太刀」と、熊撃士のみに使用が許される高性能爆薬を内蔵した「FRAG−12弾」を発射可能な軍用散弾銃「ワジマ式204X」の開発に着手したのだった。
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森の中には、まだ雪が残っていた。北海道の大自然を地でいく、深い森だ。奥を見つめれば、どこまでも果てしなく、深さのほどが分からなくなる。まるでこの世の果てには、永遠にたどり着けないのかと、錯覚しそうになるほど、深く、沈み込むような原生林だった。風はほぼ、ない。空は曇っている。
春とはいっても、さすがにまだ冷え込みがきつかった。
その糞はまだ、柔らかかった。
しかもまだ、温みを残してもいた。
間違いない。さきほど雪の上に見つけた足跡からしても、ソイツは近くにいる。
(もう少しで追いつく、な)
前野高陽は、掌中の感覚で確信を深めていた。我知らず頷きながら、革手袋の上に嵌めたビニール手袋を外し、その場に捨てる。少し前なら公害だと言われるところだが、最近は自然に土に還るものも開発されており、高陽が使っているのもそれだ。
「どうです、ヤツは近いですか」
脇で高陽の顔を見つめていた、村井健介が、不安そうな色を隠さずに尋ねてくる。まだ二十二歳の若者だ。経験も浅いので、無理もない。190センチにせまる長身に、熊撃ち用に開発された大型の散弾銃「ワジマ式204X」を担いでいる。大企業「輪島秦重工」が、米銃器メーカー「ミリタリー・ポリス・システム(MPS)社」製の軍用散弾銃「AA(Auto−Assault)−12」を手本にしてライセンス生産した、軍用にも転用可能な散弾銃だった。
「ああ、間違いない」
先ほど自分が確信したことをそのまま、高陽は答えた。口元にはやや、不敵な笑みがうかんでいる。
「ヤツがあの、前野さんが追ってる、紅隻眼ですかね」
「分からん」
答えた高陽に、健介が言った。
「ヤツだと、いいですね」
「いつも、そう思ってるよ」
高陽は本音で答えていた。
村井健介の職業は、熊撃士だった。
前野高陽の職業は、熊狩士である。
高陽の背には、長大な太刀が背負われていた。刀、日本刀と呼ぶにはあまりにも、ゴツい長尺物。巨大なヒグマをも倒せるように研究・開発された、「熊斬り大刀」だった。刀身の長さは、三尺三寸、約1メートルある。柄の長さも通常の倍はあるだろう。
しかも、この「熊斬り大刀」、長さもさることながら、身幅が広く重ねも厚い。もはや刀というより、長大な鉈と言うべき代物だった。
これだけの太刀ならば、普通ならかなりの重さになるはずだったが、この刀身の製造には、輪島秦重工と防衛省の技術陣が共同で開発した特殊な金属が使われていた。重さも通常の倍程度の2キロ前後に抑えられている。
もっとも、抑えられているとはいえ普通の日本刀の重さは大体、1キロ前後なのから比べると、かなりのものとは云えた。
つまり、この重量の熊斬り大刀を使いこなすには、剣技もそうだが、筋力だけではなく相応の体力を要求されるのであった。
高陽の場合、これを使いこなすことを可能にしているのは、剣道五段にして元北海道警の剣道特練員の腕はもとより、皆伝を受けた「無法新神流居合術」の精髄によるところが大きい。この熊斬り大刀を愛刀としてから以来、高陽はこれを「雷神」と名づけて使用している。
「ここらからは、もう、気を引き締めた方がいい。ヤツらはいつ、どこから来るか、分からんからな」
「あ、前野さん、前に言ってましたよね?森の中でのヒグマを相手にするのは、米軍の特殊部隊の隊員と殺り合うようなものだって」
高陽の忠告に、着込んだ熊撃士・熊狩士共用の防護服の襟を正しながら、健介が答える。
一見すると、各国の特殊部隊で採用されている普通の防護服に見えるのだが、これにも開発にあたった防衛省の技術陣により徹底した改良が加えられていた。防弾性や防刃性もそうだが、もっとも重要視されたのは耐衝撃性であった。
熊の前足の一撃をまともに喰らうと、人間の顔面など簡単に吹き飛ぶ。首ごともっていかれてもおかしくない破壊力がある。一説によると、ヒグマの前足にはライオンや虎の首すらへし折るパワーがあるという。
また、その強靱な顎と鋭い牙は、一噛みで人間の身体を引き裂き、骨ごと噛み砕く。どれほど鍛え抜いた体躯の人間でも、ひとたまりもない。彼ら、熊にとっての我々人間とは、外敵であり邪魔者であり、あるいは侵略者にして、時によっては、餌となる獲物にすぎない物なのである。
そのような、まさに人外の存在といえる熊の圧倒的な力に対抗すべく開発されたこの防護服に使われている生地の繊維は、これもまた防衛省の技術陣が独自に研究・開発した物であった。
採用にいたる最終試験においては、人体を模した模型に防護服が着せられた。その状態で、ヒグマの爪や牙を想定した攻撃を一千回繰り返しても、服にも模型にも然程の損傷も見られないほどになるまでテストが繰り返されたという。それほどまでの徹底した耐久テストを経て採用された物だったのである。
またこの繊維には、何層も重ねることで外部からの衝撃を、実に2トンまでは吸収し無効化する機能も加えられていた。
実際に高陽も何度か、その優れた衝撃吸収製のおかげで命拾いしてもいる。
もっとも、それでも全ての熊の攻撃を防ぎきることは出来ず、肋骨を二度ほど骨折させられてはいたが。
先の健介の問いに、高陽が答えた。
「そうとも。こっちからはヤツらは見えなくとも、ヤツらにはこっちの動きは全部見えてる。ちょっとした行動や仕草で、何を考えてるか、銃や刀に手をかけるタイミングまで読まれてるんだ。だから、こっちの方は一度山や森に入ったら、常に神経を張りめぐらせてなけりゃ、ならんのさ」
「それが前野さんが言うところの、気を入れる、ということなんですよね。そういえば前から聞こうと思ってたんですけど、それって、前野さんの持論なんですか」
「いや」
高陽は、首を振りつつ答えた。
「師匠だよ。熊狩りと、居合のな」
その受け売りさ。そう言いながら、雪の上の足跡をまた、追い始めていた。慌てる、でもないが、健介も続いて歩みを進め始める。
いつしか二人は、背中合わせになり、互いの左右と前方の三方向を警戒しながら歩いていた。こうすれば、後方はお互いにカバーしあえるからである。
「師匠からは、常に全方向を気攻めするつもりで気を放ち続けろ、と言われたもんさ」
「気攻めですか。そのあたりがまだ、ボクにはよく分からないんですよね。基本的に剣士の前野さんと違って、ボクは射手なんで、いま一つピンと来ないというか」
これは当たり前の話しだといえる。高陽と違い、物心つくころから射撃のみを仕込まれてきた健介には、武道経験はほぼない。武術の経験がない者に、気攻めなどという一種独特の、場合によっては胡散臭いことを理解しろと言っても無理があるはずだった。
「簡単にいえば、殺気を放ち続けろ、ということさ」
周囲を警戒しつつ歩きながら、高陽がいう。
むろん、熊の足跡を目で追いつつだ。
「殺気ですか。それって逆にマズくないんですか。ボクらが狙ってることをわざわざ教えてることにならないんですか?熊に」
若い健介が、経験不足の不安を消そうとしてか、ワジマ式のグリップを握りなおしていう。
「言っただろ。ヤツらはこっちの動きは、全部お見通しなんだ、とな」
だから、それこそ逆だよ。高陽は説明した。
「どうせ見られてるなら、こっちの方もそれを承知で動くしかないんだ。だったら、ヤツらが簡単に飛び出して来れないように、こっちは隙を決して見せない。そうするしか、ない」
その意味では、高陽にとっては、剣道の立ち合いと変わらなかった。つまり全ては、熊と、彼らハンターの駆け引きなのである。いわば常時真剣勝負の最中にあると、一度熊の縄張内に入ったら、その時点でもう戦いは始まっていると云えるのだった。
「隙を見せたら、その瞬間が・・・」
健介がゴクリと喉を鳴らしながら、何事かを言いかけた。
最期というわけですか。そう言いたかったのだろう。しかし、彼はその一言を反射的に呑み込んでいた。
高陽が、足を止めたからである。その見開かれた両眼が、一つの確かな異変を捉えていた。その意味に即座に気づいたからこそ、健介も言葉が出なかったのだった。
彼らの見つめる方向、視線の先にあったヒグマの足跡が、突然、途絶えていた。
これが何を意味するか。高陽も健介も、よく知っている。その意味するところの、恐ろしさも。
これは、ヒグマがよく使うトラップだったからである。
追跡者の気配を悟ったヒグマは、その時点で自分の足跡を寸分も違わずに踏んで逆戻りする。その上で、近くの藪に身を潜めて待つのである。己を追う、追跡者が姿を表わす、その時を。
つまり、足跡が消えたということは、すぐ間近にヒグマが潜んでいることを意味していた。もっとも恐ろしく、危険な状況になっているといっていい。そのことを悟り、高陽も健介も、一瞬で口中が渇ききっていた。全身が粟立つ思いだった。
(マズいな。)
高陽は、一瞬、風向きを判じてみた。己の迂闊さに歯噛みし、舌打ちする。
追い始めた時は、まだ確かに風下のはずだった。いつの間にか風向きが変わり、風上から追う格好になっていたのだった。
言うまでもなく、ヒグマの嗅覚は鋭く、風上にいる獲物の臭いに気づかないことは決してない。故に、ヒグマを追う時は風下からというのが鉄則だった。
(どうやら追うのに夢中になり過ぎたか)
風向きが変わっていることに気づかなかったのである。
「前野さん、こ、これはっ?!」
健介が思わず叫んだ声を、高陽は制していった。こちらも我知らず、叫んでいた。
「気を緩めるなっ、来るぞっ!!」
二人の背中に、粘ついた冷や汗が浮いた。血の気が引くのを自覚した、その時である。
近くのクマ笹の茂みが、勢いよく揺れた。
反射的に、二人が左右に飛び退くのとほぼ同時だった。
━━グワォォォーッ━━━
耳を突ん裂くような獣の咆哮が上がった。
茂みの中から飛び出たものは、禍々しいまでの凶暴性そのものだった。
あくまでも黒く、巨大な、獰猛な塊。その場に自分以外の生命が存在することを絶対に許さない、狭量な自己主張。
そうとしか言いようのない、圧倒的な生命であった。
そう、体長二メートル、体重は二百キロを超えるだろう、巨大ヒグマだったのである。
ドオんっ、ドンっドンっ、バララッ!!
大地を割るように、轟音が森に木霊した。
健介がワジマ式を反射的に連射したらしい。
爆薬弾頭が巨大な暴力の表面で炸裂した。
火の手にも似た、火柱のような火炎がヒグマの体表で上がる。
━━グガーッ、ガウォ━━━━ッ?━━
凄まじい雄叫びを、ヒグマが上げていた。
ヒグマの右の前足が、千切れかかっている。半分ぶら下がった状態になっている。
巨大な自己主張が、狂った。手負いとなったことで、怒り、猛っていた。
(ここだ)
高陽は、ほとんど必死で、ヒグマの足元にダイビングした。背中の「雷神」の柄に手をかけた状態のままである。
「ぃえいっ!!!」
裂帛の気合とともに、長太刀の分厚い刀身を抜き放つなり、ヒグマの胴体に叩き込む。不思議なほど、手応えがなかった。