第七十三話 ゲームの終わりは呆気なく、そして開かれた終わりの始まり
ウールヴヘジンは妹であるブリュンヒルデと共に、王城の長く広い廊下を風のように疾走していた。
「邪ァ魔すんじゃねェよォ!!」
そんな二人の前に、長剣と全身鎧を装備した敵兵が三十人現れた。
敵兵は奇妙なまでに統率された動きで二人を包囲せんと高速で動いたが、それよりも速くウールヴヘジンが左右にそれぞれ一本持っている<阻める物無き蛮勇の剣>を振った。
その動きがあまりにも速すぎる為にウールヴヘジンの両腕は一瞬他者の視界からは消失し、十数の銀閃が煌めく。次いで聞こえる炸裂音。
正確に何が起きたのかは知覚できたモノはこの場に居ない。ウールヴヘジンの後方を走るブリュンヒルデすら知覚できなかったほどの攻撃だった。
しかし結果として、三十人も居た敵兵は一人残らず肉体を両断された。
装備していた全身鎧はリュウスケによって概念的な防御を施された宝具に近い品だったが、“切断”する事に関しては並ぶモノの無い<阻める物無き蛮勇の剣>相手では、手応えさえ感じさせる事無く両断されている。
三十人の死骸は斬られた後、衝撃波によってバラバラに飛び散らされた。
二人の進行方向に死骸と臓腑と血の雨が降る。
しかし止まらない。死骸と臓腑と血の雨が身にかかるも速く、その場を駆け抜けた。
通り過ぎた後、遥か後方で何かが落ちる音と液体がぶちまけられたような音が聞こえただけだった。
「ゴールまではもうすぐですね。これなら、私たちが最初でしょうか、兄上」
「気ィ抜くなァ。他のも着きそうだァゼ」
ウールヴヘジンは廊下を疾走しながら、一瞬だけ廊下の窓から覗く外を見た。
そこには見知った兄弟が建造物を粉砕したり、あるいはその眷属達が目的地に向けて進軍している様子が見て取れる。
ウールヴヘジン達にも言える事だが、基本的に機玩具人形達が侵略する様子は非常に派手である。
だから大まかに何処に居るのかを知る事ができるし、それ故急がねばならなかった。最初にゴールするのならば、油断はできない。
「後もォ少しだァ。気合い入れてェ行くぞォ!!」
「はい、勿論です」
二人は更に走る速度を上げた。
途中で飛び出てくる敵は文字通り瞬殺しながら進み、そしてゴール地点に続く門を発見した。
迷わず突き進み、ウールヴヘジンが<阻める物無き蛮勇の剣>を一振り。
ただそれだけで巨大な門は切断された。リュウスケのスキルによって頑丈極まりない程の守りが施されていたのだが、それを他者に気がつかせる事もできない程簡単に、門は破壊されたのだった。
速度を落とす事無く門の奥に二人は侵入する。
「――なッ」
二人の視線の先に、真正面から自己の守りを突破された事に対する驚愕の表情と、何処か喜悦の混じった複雑な表情を浮かべるリュウスケが捕捉された。その隣には成人女性の状態に成っているテオドルテの姿もあった。
テオドルテはともかく、リュウスケは斬るべきか、と一瞬だけウールヴヘジンは迷うが、カナメが造った今回のゲームの勝利条件は『リュウスケの元に最初に辿り着くこと』だ。
リュウスケを殺す事ではない。ウールヴヘジンの本能は戦い、殺したいと告げているが、カナメが敷いたルールは従わねばならない。
それに一応ココに来るまでに数多くの敵兵を屠っているので、欲求はある程度解消され、我慢できない程の事でもなかった。だから疾走を中断し、リュウスケからある程度の距離を置いて停止する。ブリュンヒルデもそれにならった。
リュウスケは警戒しているが、二人はそんな事に頓着していない。何をしてこようとも迎撃できる、あるいは破壊される前に殺せる、という自信の現れである。
「どうやらタッチの差の様ですね、兄上」
部屋にある窓の外には、もう少しで到着するだろう機玩具人形達の姿があった。
勝てたのは接近戦の能力に重きを置いたため、二人の移動速度が他の機玩具人形達よりも優れていた結果だろう。
「まァ、良い暇つぶしにゃぁなりやがったかァ」
既に役目を終えた<阻める物無き蛮勇の剣>を異空間に収納し、ウールヴヘジンはやや満足げな笑みを浮かべる。
本音としては最後の締めはリュウスケとの戦闘が良かったのだが、どうせリュウスケはカナメが殺すだろうし、一着なのだから後日リュウスケの贋作でも造らせて戦えば良い、とウールヴヘジンが思っていると、ふと、部屋の中に五人目の気配がある事に気がついた。
気配がする方を見る。そこには何も無いが、確実に何か居ると本能が告げている。
音もしないし、匂いもしないが、ウールヴヘジンの直感が告げている。
一体何なのか、と一瞬だけ考え、全身が宝具であるウールヴヘジンの両目はその正体を看破した。意識しさえすれば、同程度までの宝具による隠蔽は看破できるのだ。
そして気配の正体を理解して、ウールヴヘジンは悔しそうに顔を顰めた。
「ん? どうなされた、兄上」
「いやぁなァ。どうも俺たちゃァ一着じゃねェーらしいぜェ」
「それはどういう意味で……ああ、なるほど。相変わらず、悪趣味な事を」
ウールヴヘジンの言が理解できずに小首を傾げ、不思議そうな表情を見せた美貌の戦乙女はしかし、ウールヴヘジンが見据える一画を凝視し、そして同じく理解した。
若干忌々しそうな声音で、眉間には少々皺が寄っている。
しかし女神模倣型として造られたブリュンヒルデの美貌はその程度で変質する事も無く、むしろ何処か憂いを秘めたモノのように変わって、より魅力的なモノになっていた。
自然発生的に振り撒かれる“魅了”。一種の災害と形容しても良い程の強力なそれは、しかし今回は誰も魅了状態になる者はいなかった。
あらゆる精神汚染に対する対策を持っているか、そもそも効果が無いモノしかいないからだ。
「二着、おめでとうございます。上手く隠れていた筈なんですが、こうもあっさりと暴かれるとは。いやはや、流石、と言うしかない」
「気取った風な事言ってんじゃねェーよォ、テイワズの坊主。オメェ、何時ココに着いたんだァ?」
ウールヴヘジンとブリュンヒルデが見つめていた一角から、突如としてローブと片眼鏡を装備した一人の青年が現れた。
姿を現す前にその存在を看破したウールヴヘジンとブリュンヒルデ、そして妖艶な微笑を浮かべているテオドルテの三名は特に驚く事も無く、ただ一人気がついていなかったリュウスケだけが驚愕を露わにしていた。
リュウスケの驚愕は自分に気がつかれる事無く自分の領域に侵入していた事もあるが、ローブ姿の青年――テイワズセカンドに見覚えがあった事が理由の大部分を締めている。
「ただ単純に、ヘジンがココの結界を切り崩した瞬間に、ちょっとだけ先んじて入って隠れていただけですよ。隠れたのは、単なる悪戯心ですよ」
「つまりは気分を良くさせた後に落とす作戦ですか。悪趣味ですね、兄上。ええ、あの後宮のように悪趣味です。妻は一人とするべきです、と申し上げます」
「そう怒らないで欲しいなァ、ヒルデ。僕はゲームに勝つためには全力を尽くすってだけさ。それに僕の愛を、一人に注ぐのは可哀そうだよ。僕の愛は、一人の愛妻が背負うのは重過ぎるからね。だから僕は彼女達を平等に愛しているんだよ」
「もっともらしい事を言っている風ですが、普通に最低な言葉ですよ、それは。シルバーの兄上に報告しますよ?」
あはは言うねー、とやや引きつった笑みをテイワズセカンドは浮かべ。ついでにシルバーには言わないでね、と懇願するのも忘れなかった。テイワズセカンドにってシルバーチップは天敵なのである。
今回のゲームに負けたウールヴヘジンとブリュンヒルデはその腹いせにテイワズセカンドをどうやって弄ろうか、と真剣に考える。
テオドルテは相変わらず微笑を浮かべて何も言わず、リュウスケは立て続けに起こった常識外の事態に驚愕と好奇心の入り混じった表情を浮かべている。
混沌として、何とも言えない雰囲気が熟成されていく場に、新たな登場者達が現れた。
「とうちゃーーーーく」
それは少年のような甲高い声だった。
五人は反射的に声がした方向を見る。そこは窓の無い壁だった。そしてその壁は巨大な何かによって破壊され、かつて壁だったモノは瓦礫と成り、外と繋がった。
外には、黒金の甲冑を装備した鬼面の巨人の姿があった。どうやら額の一本角で壁を壊して中を覗き込んでいるらしい。
「あれー? ちょっと遅かったみたいだねー。虫を潰すのに、ちょっと熱中しちゃったのがいけなかったのかなぁー?」
巨人――機玩具人形三男・ヴァーパルツィタンはケラケラと笑いながら事実を述べる。
彼が進んできたルートは、その必要が全くないのに何度も何度も踏みしめられた結果、平たくなっていた。ヒトも建造物も纏めて踏みしめられたその痕跡は、圧倒的な虐殺の証拠でもある。
「全く、だからもう少し早く行くべきだと進言しましたのに。兄様はちょっと遊びが過ぎます」
そしてヴァーパルツィタンによって穿たれた外に続く穴から、一人の妖精王が現れた。
黙っていれば婦女を引き寄せて止まない美貌と、背中から生えた翅はまさに妖精そのモノで、まるで絵本から飛び出して来たようなその姿。しかし妖精王――アルフヘイムの表情は優れない。
恐らく遊ばなければ一番最初にゴールに到着していたであろうヴァーパルツィタンの扱いの難しさに、疲れているようだ。
その様子が想像できたのか、ブリュンヒルデは苦笑を見せた。ウールヴヘジンやテイワズセカンドも同様だ。
「まァ、ビリじゃねェーんだから良いじゃねえェかよォ」
「そうなんですけどね。やはり、悔しいじゃないですか」
ウールヴヘジンの慰めも、アルフヘイムの落ち込んだ気持ちを引き上げるには至らない。
しかしアルフヘイムは落ち込んだままでいる時間は無かった。
夥しい量の黒き魔蟲が、何処からともなく現れたからだ。広い部屋の一画が、数秒もせずに黒く塗りつぶされて床さえ見えなくなる。
数えるのも馬鹿らしくなるような量の魔蟲に、その正体と原因に心当たりのある機玩具人形達と言えど一瞬言葉を失う。カサカサと蠢き、折り重なるその姿はみるだけで精神が汚染されそうな程で、部屋に集まっていた全員が視線を逸らす。
長々と見ていられるモノではなかった。
次から次へと現れる知的好奇心を擽る機玩具人形達を前に構えていたリュウスケすら、数十分前に見てしまった光景を思い出してしまい、身近でみる事を拒否していた。
しかし仕方の無い事だろう。もし見続けてしまえば、恐らくは途轍もなく不幸な事が起こるのだろうし。
「流石にコレは、お父様に対して抗議を申し立てたいと言わざるを得ない」
視線を逸らし、それでも優れた聴覚を有するが故に魔蟲達が蠢いている音の全てが聞こえてしまうブリュンヒルデはこんな事ができる宝具を製造したお父様を恨んだ。
かつては一人の勇者のユニークスキルだったブリュンヒルデは、カナメに素材として喰われ、その後に機玩具人形として造りかえられた時から見た目通り乙女としての感性を有している。
武人としての側面の方がやはり強いが、それでも乙女としての自分は捨てていない。
故に、黒き魔蟲に対してはどうしても苦手意識を、いや、殺意を抱いている。なぜこんな生物が実在するのかと、宝剣を右手に質問したいほどだ。
「わさわさわさ~~到着なのわさ~~」
そして嫌悪感に震えるブリュンヒルデ達に、そんな呑気な声が届いた。
その声の主を知る機玩具人形達とテオドルテは何処かホッとした表情を浮かべ、夥しい量の黒き魔蟲をかき分けてやってくる一人の美女を見た。
美女――スカラファッジョは身体にピッチリと吸いつく特殊繊維製ボディースーツを着ていて、艶めかしいボディラインを惜しげもなく晒している。ブリュンヒルデに勝るとも劣らない美貌を有するスカラファッジョの姿は、ブリュンヒルデと比べて遥かに煽情的であり、やはり災害的な“魅了”を振りまいている。
しかし、やはりその姿に見惚れるモノはココには居なかった。ただしブリュンヒルデと異なり、目を引くモノが姿の他にもある。
それはその腕に大切に抱き締められた、一つの美少女の生首である。
「あちゃー。やっぱ負けてもうたかぁー」
そう言ったのは、悔しそうに顔を歪める美少女の生首だった。
生首は身体に取り込んでいた眷属の大部分を召喚してしまったが故に自らを構成していた体積を失い、頭部だけになってしまったセリアンスロピィである。
セリアンスロピィは一通り負けた事に対する悔しさを吐露した後、召喚していた眷属を帰還させた。部屋の外で待機していた全ての眷属の姿は一瞬で消失する。
それは帰還させると、眷属の全ては生首だけとなったセリアンスロピィの体内に一瞬で取り込まれるからだった。そして失われた肉体を取り戻したセリアンスロピィの首の切断部から、ボコボコとコールタールのような液体が溢れて、元の身体を構築していく。
元に戻るのに、十数秒程度しか必要としなかった。
それに驚愕するのは、やはり何も知らないリュウスケただ一人。
「あーほんま、あんたら速過ぎやって」
「わさわさわさ~~負けちゃったのわさ~~」
未だに悔しそうな表情を浮かべるセリアンスロピィに対し、ニコニコと陽気な笑みを浮かべるスカラファッジョ。彼女からすれば、今回のゲームの勝ち負けはどうでもいいらしい。
「さて、これでビリのチームが決定したという訳ですね」
「そぉだなァ。ビリはパンドラの奴等だなァ」
テイワズセカンドとウールヴヘジンの呟きは、次の瞬間現実となった。壁を破壊したヴァーパルツィタン同様、六体の強化外骨格が壁を破壊して中に入ってきたからだ。
ただし機体名“ランサー”だけはこの場に居ない。ランサーは搭乗者であるケイオスが、アヴァロンに亡命する切っ掛けとなった天剣継承者の一人を槍で突き殺した際、リュウスケが仕組んでいた爆弾によって気絶させられたからだ。
「遅くなりました」
「カナメの血……飲みたかったけど、我慢する」
騎士のような装甲を持つ機体名“セイバー”が恭しく頭を下げ、その後ろでぼそりと機体名“バーサーカー”が呟いた。
バーサーカーには不死鬼族であり、カナメの血を好物とするジル・サンタリオが騎乗しているのだが、ジルはカナメの血が飲みたくて今回のゲームに参加した。
それが叶わなかったからだ、聞こえるのはとても悲しそうな声音である。
悲しそうに指を咥える小動物のような姿を幻視したのか、機体名“キャスター”や機体名“アサシン”に騎乗しているカノンとメルの二名が近づき、それぞれ言葉をかけた。
何処かほんわかとする、日常の風景の一つだった。
「さて、ゲームは終了、ですかね。どうなんですか、カナメ?」
テイワズセカンドはそう言い、遠くの空で浮遊しているヴィマーナの中にカナメを見た。途中にある障害物など、テイワズセカンドの透視と遠視の魔術の前では無意味である。
今回参加したメンバーを振り分けて構築されたチームは全て到着した。ならばゲームは終了で、終了するのならば開催者が宣言しなければならない。
だから、テイワズセカンドが見ていたヴィマーナの中からカナメとセツナ、そしてポイズンリリーの姿が消失。
次の瞬間には、テイワズセカンド達がいた部屋に三人が存在していた。
カナメの作品によって、転移したからだ。
「はーいお疲れ様。今回の勝者はテイワズチームです、おめでとー」
「いやーどうもどうも」
「さて、後始末は俺がやるから、皆は先にヴィマーナに帰って宴会でもしててくれ。もう飯はできてるから、先に始めてていいからなー。じゃ、“転送”開始ー」
カナメは一本の棒を振った。何の変哲もなさそうな棒である。
しかしそれだけでアヴァロン勢は全てヴィマーナ内に転移していた。棒も宝具の一種のようだ。
邪魔者が全て消えたのを確認し、テオドルテはカナメに向けて言葉を発した。
「おまえ様、待っていたぞ。まさに捕われの我を助ける王子様じゃな、胸が高鳴るわ」
「何が捕われの、だ。テオなら一瞬で抜け出せただろうに」
「良いではないか。我も一度でいいから王子様に助けられる、と言った経験をしたいのじゃ」
「つってもなァ……。まあ、いい。要件は分かっているんだろう?」
「うむ、当然じゃ」
「んじゃ、早速……」
普段の癖で、カナメは合掌した。
パン、と小気味よく音が鳴らし、スキルを使い、この世界にとある門を形成する。
以前セツナを国に連れ帰った時、左大臣アイデクセス達が起こした反乱を収めるついでに行った、国を挙げて行ったゲームの舞台に繋がる門を、再び形成する。
カナメにとってセツナもテオドルテも、失う訳にはいかない大事な存在だ。
しかし絶対的な敵対者と言っても過言ではない“勇者”と“魔王”である二人は相手を殺す事無く勝負を終えられる筈もなく、戦えば必ずどちらかは死ぬだろう。
故にアバターを使用して全力で戦える場を用意すると共に、勝敗が決しても本体が死ぬ事の無い戦場を用意する必要があった。
そしてそれは、この門を使用した亜空間内が最も適している。だから、カナメは門を再びココに創造しようとしていた。
合掌してから数秒後、掌の隙間から光が溢れ、この世に門が顕現した。
カナメが創造した亜空間内に通じる、門である。
「では、先に我が入るとしよう。セツナとやら、中に入るのならば、相応の覚悟をする事じゃな」
門が完成し、まず動いたのはテオドルテだった。
余裕たっぷりの表情で緊張してかやや硬くなっているセツナを見据え、己が勝つと確信している様な事を言う。それは驕りではなく、己が積み重ねてきた月日と鍛錬に裏打ちされたものだった。
そして門を潜るついでにカナメの頬にキスをする。流石のカナメもこれには驚き、その表情が面白かったのかテオドルテは微笑を見せる。
テオドルテはそのまま門の中に入って、消えた。
しばらくの間、キスされた頬を抑えながら、カナメはテオドルテが消えた門を見て。
「……カナメ」
「あー……っと」
セツナの視線がカナメの背後に突き刺さり、カナメは振り向くに振りむけない。
別に頬にキスされたからと言ってカナメに非がある訳ではない。しかしそんな事実はどうでもよく、ただ背中に突き刺さる視線が痛かった。
普段なら何かを言ってくるポイズンリリーも、何も言わないのが余計に辛い。
カナメはだらだらと冷や汗を流す。
「カナメ」
セツナの声が近づいている。
どうやら背後を振り返れないカナメを余所に距離を詰めていたらしく、すぐ傍に居るようだ。
さてどう乗り越えようか、などとカナメが考えていると、セツナが背後からカナメに抱きついた。
それに一瞬だけカナメの思考が何処かに飛ぶ。そしてある事に気が付いて、意識が引き戻される。
普段ならばギュッと背後から抱き締められた事で背中に押し付けられる胸の柔らかさに意識を取られるのだろうが、今回は違う。セツナから伝わってくる小さな震えが、カナメの意識を支配する。
「カナメ、私は恐怖を感じている」
小さく語られる独白。顔は見えないが、もしかしたら泣き顔になっているのかもしれない。
「今までは戦う事に恐怖した事は無い。恐怖していたのは、変わっていく自分自身だったから。でも、魔王を――魔王テオドルテを直接見て、私は怖くなった。
理由は分からない。感じる魔力も、リリーやラルヴァート達と対して変わらない。戦闘能力だけで言えば、私だって負けてはいないと思う。
でも、怖い、と思った。なんで、そう思ったのか分からないけど、私はテオドルテが、怖い。怖い、よ」
セツナの震えは止まらない。抱き締める力はより強くなり、カナメに縋るようにすり寄っていく。
そしてカナメは、セツナが感じている恐怖の原因を正確に理解していた。だから、普段通りの声音で語りかける、セツナを落ちつかせるように。
「セツナ。恐怖を感じる事は仕方が無いさ。魔王は魔族全ての存在を背負った存在だ。だからセツナはコレから魔族全員と戦う様なモノだ。
それとリリー達と比べるのは間違っている。リリー達はセツナを本気で殺そうとはしていない。でもテオは違う。テオは全力でセツナを殺そうとするだろう。
セツナも女の子だからね、誰かから本気で殺意を持たれた事はないだろう? その殺意に当てられて、恐怖を感じるのは普通だよ」
セツナはこの世界に堕ちて、“勇者”となる事で絶大な【力】を手に入れた。
だから他者から殆ど害される事も無く身を守る事ができ、カナメ達によってその【力】はより洗練されたモノに成ってはいる。
しかし、セツナはあくまでも普通の女の子だったのだ。
幾ら勇者としての力を磨こうと、今まで本気の殺し合いを演じた事は数える程も無い。
セツナは、精神的に脆い部分があるのだ。カナメと出会う前までは崩壊寸前に陥っていた事からも察せられる事である。
しかしこれまでそれが決定的な場面で爆発しなかったのは、カナメと出逢ったタイミングが良かった事と、単純にセツナが恐怖を感じる敵に遭遇しなかったからに他ならない。そしてセツナを害する事ができる存在が、セツナに対して本気で殺意を抱いた事もなかったからだ。
だが、だからこそ今回は違う。
テオドルテはセツナを害する事ができる存在で、セツナに対して本気で殺意を抱いている存在でもある。
自分を害する事のできる他者から向けられる本気の殺意は、免疫の無いセツナには効果があった。あり過ぎたと言っても良い。
そして、だからこそカナメは言う。
「でも、大丈夫だ。セツナなら、その恐怖を乗り越えられる。俺が保障する」
「でも、もし乗り越えなかったら……?」
「その時は、」
カナメは、自分の胸の前で交差しているセツナの手を自分の手で包み込み。
「俺がついているさ。セツナが倒れそうになったら、俺が支えるよ。だから、大丈夫」
その後、しばらくの間二人は無言になった。
リュウスケやポイズンリリーは、介入し難い空気によって言葉を入れる事すらできていない。
そしてセツナはカナメを抱き締める力を緩めて、言った。
「そうか……そうかも、しれないな。カナメが言うと、本当に大丈夫な気がして来た」
「そうかい、そりゃよかった」
「でも……」
セツナはカナメの頭部を掴み、無理やり自分の方を向かせた。
その際やや強引だったためにカナメの首が悲鳴を上げたが、頬を赤く染めたセツナはそれに気がつかない。正確に言うのなら、他の事に気を取られていて気が付けなかった。
「本当に大丈夫になる御守り、もらいたい」
そう言って、セツナはカナメの唇に自分の唇を重ねた。
普段のセツナからは想像もできない程大胆な行動で、それ故にカナメも一瞬何が起きたのか理解できなかった。しかし即座に思考は復活し、現在の状況を理解し、慌てて離れそうになるセツナの腰に手を回す。
真っ赤になった顔で仰け反るセツナの姿が愛らしくて、カナメは今度は自分からセツナの唇を奪う。と言うよりも貪る。それに慌てたのは、セツナである。
まさか、そんな、と言った表情で、自分から仕掛けたのに主導権は既にカナメに握られてしまっていた。
やはりカナメとセツナでは、年期が違い過ぎるらしい。
その後数十秒ほど人目も気にせずに行われた行為は、ハタと我に帰ったセツナを真っ赤に染めるのには十分過ぎるモノだった。
「で、では、行ってくる」
ポイズンリリーの生温かく見守る様な視線に気がついたのだろう、セツナは慌てて門を潜り、テオドルテ同様この場から消えた。
セツナとテオドルテが消えた事により、現在この部屋に居るのはカナメとポイズンリリー、そしてリュウスケの三名のみである。
「いやー、お待たせした。ついついセツナが可愛くてねー」
わははは、と先ほどの行為にセツナのように動揺はしていないカナメは、それでもちょっとだけ気まずげに後頭部を掻きながらリュウスケを見た。
リュウスケは、今までに無いほど冷めた目でカナメを観察している。
「そのふざけた態度、想像通りだよ」
「別にふざけてはいないんだけどねー」
「いいえカナメ様。カナメ様は存在自体がふざけていますよ。むしろ死んで詫びるくらいふざけていますよ」
「黙ってなさいねリリー。味方を背後から撃たなくていいから」
「その言動が既にふざけています。一発殴れば多少は元に戻るのでしょうか?」
「止めてね、いやマジで。何回も言うけどそのハリセンは洒落にならん!!」
ビームハリセンを取り出すポイズンリリーに悲鳴を上げながら、カナメはポイズンリリーから距離をとった。しかしそれを逃がすポイズンリリーではない。
即座に近づき、ビームハリセンを使って足払い。結果として脚部は消し飛び、地面に転がったカナメの背中を足で踏みつける。
ぐへ、とカナメの口から潰された蛙のような声が漏れた。
この場でただ一人、リュウスケだけがその流れについて行けていない。
「足を……吹き飛ばした? お前ら、味方じゃないのか!?」
「あ、心配してくれるんだ? でも俺はこの程度の損傷はすぐに治るから大した事無いんだよねー。痛みはあるけど、この位の痛さが丁度いいと言うか?」
「何を馬鹿……な?」
三名の中で唯一、一般人としての感覚をまだ保有していたリュウスケは足を消し飛ばすという凶行に反応せずには居れず、そして目に見える速度で復元してくカナメの足を見て思考が停止しかける。
ただ連続して常識外の出来事があった為か、思考停止にも耐性ができていたリュウスケは即座に復帰し、カナメに強い興味を抱いた。これまでは憎悪の方が強かったが、今はカナメに対しての興味が勝る。
ぜひ解体したいものだ、と小声が漏れた。
「凄い肉体だな。ぜひ研究素材にしてやりたい」
「できるモノならどうぞ。ただし、俺は強いよ?」
「それはそうだろう、なッ」
カナメは隙だらけだ。そしてリュウスケは、その隙を驕りと捉え、即座につく、
【スキル現象<時間停止>が発生しました】
リュウスケの不意打ちは、炎弾や隕石群などの直接攻撃ではなく、指定した範囲内の時を停止させる間接攻撃だった。
間接攻撃とは言え、敵は動けず、自分は動けるという状況を生み出す<時間停止>は反則と言えるだろう。
<時間停止>という漠然として概念的なモノの想像を思い描くのはリュウスケでは集中できるだけの時間が必要だが、カナメとセツナの行為やポイズンリリーとの漫才によって、リュウスケはその時間を得ていたのだ。
だから発動する事ができた。そして発動さえすれば、リュウスケは自分は誰にも負けないと自負している。
<時間停止>は発動してから三十秒しか持たないのだが、それでもその圧倒的な優位を利用し、敵を全力で無力化せんとし――
「時間停止とは、やるねぇ。でも、そもそも生物の肉体による攻撃じゃないと俺の口は何であれ捕食できるから、無意味なんだよね、残念ながら。
まあ、俺以外なら結構いい攻撃だったと思うぞ?」
――造物主という規格外の化物に対して、その自信は呆気なく崩れ去った。
時は確かに停止している。
リュウスケが規定した範囲内だけだとは言え、時は確かに停止しているのだ。
それはカナメを踏みつけているポイズンリリーは微動だにしない事からも窺えるし、外を飛んでいる鳥が止まっている事からも確定的だ。
だが、それなのに、カナメは動いていた。事も無げに、リュウスケの行為など無意味だと鼻で嗤っていた。
その事実にリュウスケの精神は大きく揺さぶられ、時間停止が解ける。
再び時は動き出した。
「あり、えな……!!」
「んじゃ、サクッと終わらせますかね」
ポイズンリリーに踏みつけられたままの状態で、カナメは合掌し、即座に一つの宝具を造る。
造られた宝具は、小さなハンマーだった。何の変哲の無い、ただのハンマーである。
しかし、そのハンマーが内包する概念能力は、あらゆる意味で他の作品を圧倒している。
ハンマーはセツナが持つ<確約されし栄光の剣>や、テオドルテが持つ創造槍<ティアマト>、機玩具人形の全てを軽く凌いでしまう、まさにカナメが生み出した正真正銘の無敵宝具だったのだ。
「世界を塗り変えろ――<己の軌跡の積み重ね>」
起動言語が紡がれ、ハンマーが振り下ろされる。
そしてそのハンマーが床を叩いた時、世界は浸食され、塗りかえられた。
それにリュウスケはただ驚愕し、そして、己が死地に至ったのである。