第六十八話 数でも負けて、勝てる訳が無いよね
風に乗って、彼女の好きな匂いが漂ってきた。
それは鉄の匂いだ。それも真っ赤な液体を大量にぶちまけて初めて嗅げる、あの独特の匂い。
ああ、とやけに色っぽいため息が彼女の口から零れ出る。
大好きな匂いを嗅いで、興奮しているのだろう。それは、頬を染めている事からも良く分かる。
この匂いの源では、どのような状況なのだろうか。頸を切られ、鮮血が噴水の如く噴出しているのだろうか? それとも、腹を斬り裂かれて臓物と糞便を撒き散らしているのだろうか? 曝け出された臓腑を踏みつけられ、悶え苦しんだままの状態でいるのだろうか? 血肉が燃えて蒸発した時に嗅げる匂いも混じっているので、焼肉にでもなっているのかもしれない。
ああ、ああ。と彼女の口から興奮を隠し切れていない吐息が零れ出る。
様々なシチュエーションを想像し、とても言葉では語れない事を妄想していると、ガチガチと彼女の全く動かない人形のような美貌の下顎辺りから奇妙な音が響いた。その音は聞くものに表現し難き悪寒を走らせるモノである。
それに気が付き、彼女は恥ずかしそうに口元に手を添えた。
しかしそれでも彼女の黒曜石のような瞳には爛々と隠し様のない何かが灯り、その存在自体が普通ではないのだと、それだけでよく分かるものだった。
「わさわさわさ~~~」
ガチガチという金属をすり合わせた様な音は既に聞こえないものの、何かが待ち切れなくなった彼女は、その場でくるくると独楽のように回転しだした。
陽光をテカテカと反射させる黒いロングヘヤーが、その勢いによってふんわりと広がった。
それに身体にピッチリと吸いつく特殊繊維製ボディースーツは彼女の艶めかしいボディラインを隠す事はせず、回るごとに特定の箇所が激しく動き、大きく揺れる。
異性が見ていれば、いや同性であったとしても思わず特定部位を凝視してしまっていただろうが、残念ながらココに異性は居なかった。
ただ、同性はいる。
「うざったいねん。回るんやない」
彼女のすぐ傍で気だるげにしていた少女はくるくると回る彼女の後頭部にチョップを入れた。
ドゴンッ、とその軽い動作からは想像し難い鈍い音がした。
彼女にチョップを食らわせた少女が着ているのは、痛みで蹲る彼女のようなピッチリとしたボディラインを隠していないボディースーツではなく、白とピンクが基調となっている肩が出たワンピースとミニスカート、それに黒いショートブーツだ。
晒された白く細い脚は美脚と表現するしかないだろうし、ピコピコと動く頭部のウサ耳は少女の自前である。
少女の名はセリアンスロピィ。機玩具人形十一女にして、魔獣内包使役型としてカナメに製造された存在だった。
「痛いわさ~~。セリちゃんは乱暴なんだわさ~~」
殴られた場所を押さえ、涙目での抗議。しかしそれは簡単にあしらわれる。
「いや、スカラ姉のウザさには敵わんて」
「ひ~~ど~~い~~わ~~さ~~~」
彼女――スカラファッジョの言動に苛立ちを覚えたのだろう。セリアンスロピィの表情は微笑のままだが、青筋がハッキリと浮かび上がっていた。
口角も心なし、微動しているのが見受けられる。
「ええから、もうええから。その無駄にデカイ胸揺らさんでええから、さっさと終わらそうや。うち、今日はフェルちゃん達とお茶しに行く予定やってんで。
やのに、あの天邪鬼親父め……この落とし前は利子つけてもらうでッ」
うがー、とそれなりに離れた上空にて滞空している輝舟の一室で酒でも飲みながら、あるいはセツナという可愛い上に綺麗な女の子と談笑しながら寛いでいるのだろう生みの親に対し、セリアンスロピィは吠えた。
その姿に、スカラファッジョは微笑ましそうな笑みを浮かべる。
「セリちゃんは素直じゃないのわさ~~。本当はもっとカナチンと一緒に居たいって言えばいいのわさ~~」
「――ッ!! そ、そんなわけないやんッ」
「ダウトだわさ~~。妹の嘘は姉なら直ぐに分かるんだわさ~~」
「――ッ。……もうこの話はええ、はよ済まして帰るで!」
「セリちゃんはそんな所が可愛いんだわさ~~」
ニコニコと笑みを浮かべるスカラファッジョに、赤面しつつ肉壁に囲まれた都市を見るセリアンスロピィ。
その姿は、まさに姉に勝てない妹という構図だった。
「<一本角の狂獣>、<探り出す神の卵>、<暴虐の獣>、<白骨の英雄>、<鉱山巨人>、<灼熱竜獣>!! その他の皆も出てきいィ、久々に腹一杯食い散らかしィや!!」
遠くまで響く様な大声で、セリアンスロピィの呼び声は発せられた。
ゴボ、とその腕が変形したのはその直後の事だ。
どう見ても華奢で普通な女の子の身体でしかなかったセリアンスロピィの両腕両脚が一瞬で真黒に変色し、ドロリとコールタールになってしまったかのように溶けた。黒い液体となったセリアンの一部は地面の上にて溜まり、その水面にはぶくぶくと水泡が生じている。
この液体に生物が触れれば、そのまま死んでしまう。そんな考えを抱くのに余りある臭気と雰囲気が周囲を支配した。
それと同時に全ての準備は完了した。
そして先ほどセリアンスロピィがその名を叫んだ数々の魔獣が、その命に従ってこの世界に顕現する。
一際巨大な水泡が弾けるとともに、地面に溜まった液体から何かが飛びだし、爆音そのモノと言うしかない咆哮を上げた。
「■■■■■■■! ■■■■■■■■■■■■!!」
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!」
「■■■■■■■■■■■■■■■■!! ■■■■■■■■!!」
「■■■■■! ■■■■■■■■■■■■!!」
「■■■■■■■! ■■■■■■■■■■■■■■■■!!」
「■■■■■■■■■■■■■■■■■!! ■■■■■■■■■■■■!!」
額から鋭く伸びる一本角、燃えるような赤い瞳、逆関節の脚に鎧のような青い体毛に、鉄板も噛み千切りそうな鋭い歯を持ち、人間と兎を足して徹底的に凶暴化させたような三メートル級の人型の魔獣――<一本角の狂獣>。
パッと見では五メートルの岩に間違いそうなゴツゴツとした殻を持ち、微かに空いた二つの孔から金色の瞳が覗く、生物なのか違うのか一瞬間違ってしまうだろう魔獣――<探り出す神の卵>。
十八メートル級の巨躯を持ち、眼も歯も爪も翼も何もかも黒一色で染め上げられた西洋竜――<暴虐の獣>。
死者の成れの果てに邪悪に汚染された魔力が宿り、生前の怨念を晴らすべく動くアンデッド種スケルトン。その中でも特別な武装で全身を固め、竜種すら容易く斬り殺す、二メートルという大きさがある嘗て英雄だった白骨死体――<白骨の英雄>。
三十メートルを越えるその巨躯は貴重にして希少な鉱石のみで構築された宝の山であり、自律的に動く事を許可された知恵ある魔導生命体――<鉱山巨人>。
頭部に生えた六本の角、下顎から鋭く伸びたニ本の牙、テカテカと赤色に発光する身体は紅鱗によって包み込まれ、異常に発達した太い前足は城の円柱を彷彿とさせる。前足と比べると小さい後ろ脚は頼りなげに見えるが筋肉の形はハッキリと視認でき、激しく動いている三本の尾は溶岩で出来た様に発火している、竜と猛獣を掛け合わせて造ったような存在――<灼熱竜獣>。
その他にも小さいモノや大きいモノ、獣のようだったりヒトのようだったり爬虫類のようだったり蟲のようだったり竜のようだったりそれらの混合体だったりと、見た目や大きさに一切の統一性のないに魔獣達よって二人の周囲は溢れた。
セリアンスロピィが出現させた体内に宿す魔獣の全て、その数百二十八体。
一体一体が全て圧倒的な能力を有するカナメ製の魔獣である。もしこの場にカナメが居合わせたら、過剰殺害にも程があると突っ込んでいたことだろう。
というか、モニターでその様子を見ていたカナメが思わず口の中のワインを噴き出し、「セリアンが全部出すとは何があったッ」と驚いているのは内緒である。
「皆、自由に楽しんでやってやッ。でも、味方まで殺すンは無しやで?」
魔獣を顕現させた為にその四肢を一時失い動く事ができなくなっているセリアンスロピィは、まるで人形のようにスカラファッジョのその胸に抱きしめられつつ、自分とカナメの“子”とでも言うべき魔獣達に優しく声をかけた。
それに追随するように、爆音というべき咆哮が返答として返される。
セリアンスロピィを抱いているスカラファッジョは、その様子を微笑ましそうに見つめていた。
「久々に見ても、相変わらず圧巻なんだわさ~~。これは負けてられないんだわさ~~」
ザワリ、と空気が変質した。
周囲の魔獣達すらその本能を刺激され、無意識の内に迎撃体勢をとってしまう程の変わりようだ。
そして、カサカサという小さな音が聞こえ始めた。
音源はスカラファッジョの足下。太陽という光源に照らされてできるにしては、やけに濃い黒影からだ。
カサカサと音が聞こえ始めて五秒、十秒と時が過ぎる事にその音は大きくなっていく。
そして音が聞こえ始めて二十秒後、その音は最大にまで高まり――
「わさわさわさ~~。出てくるのですよわさ~~」
――災厄はこの世に解き放たれてしまった。
災厄は黒い放流だった。
ただし黒い水だった訳ではない。それ等は全て生物の群れで形成された放流だった。
影から溢れ出た生物の名前を語るのはどうしても憚られる。
テカテカと黒光りする黒鋼のような甲殻、扁平な楕円形の体、ピョンと伸びる長い触角、カサカサカサと高速移動を可能とする発達した脚、生理的悪寒を見る者に感じさせる生物の群れ。
小さいモノでは小指の先程度のものから、大きいモノでは一メートルを越えるだろうモノまでいる。数は数え切れるモノでは無い。パッと大まかにいっても数十万以上はいるだろうか。
周囲の地面が完全に黒く塗りつぶされた光景は、最早悪夢と言うしかない。
普通の感性を持つヒトならば、吐き気を催しているのは間違いない光景だ。
「味方は齧っちゃダメなのわさ~~それだけは気をつけるのわさ~~」
スカラファッジョの専用宝具<頭文字G>。
害虫生成型としてカナメに製造されたスカラファッジョは、基本的に自分で敵を殺すのではなく、蟲を無限数生み出す能力を持つ宝具の数々を有する、セリアンスロピィと同じく眷属使役系の機玩具人形である。
人頭に蝗の体という蟲を生成する宝具<滅びの幻蟲>、生物を喰らい尽くす蟻の軍勢を生み出す宝具<貪り喰う蟻の大軍勢>、巨大な殺人蜂を生み出す宝具<大軍成す黄色き死神>などなどがその例だ。
その中でも、カナメが悪乗りの果てに製作した宝具。
それこそが<頭文字G>。
スカラファッジョが持つ宝具の中で、カナメの許可が無いと行使できないとある宝具を除いて、最大級のシロモノである。
カナメですら使われれば色々な意味で殺され兼ねないその宝具を、スカラファッジョは今回使用した。
その結果が、名前を語るのは憚られる災厄の正体。一匹見かければ三十匹は何処かに居るという、おぞましくも強靭な適応能力と生命力を有する蟲の軍勢。
数え切れない程の魔獣と魔蟲。
その軍勢が、北門に向けて進撃を開始した。
それを喰いとめられる筈など、あるはずがなかった。
個体で劣り、唯一勝っていた数ですら負けたリュウスケの人形兵があらがえる筈が無いのだ。
余りにも一方的な侵略は、静かに、そして確実に進行していくのであった。