第六話 勇者と呼ばれる一人の聖女
聖都の王城の北西部に、錬鉄場と呼ばれる一角がある。
二重の円状に構築された城郭の外円部内側に広がるそこには、くたびれた鎧を装着して静かに佇む案山子や模擬剣の打ち込み用に地面から顔を出している木杭などが点在し、少し離れた場所にある大きな木箱には、刃引きされた剣や槍、斧などが大量に積み込まれている。
その他にも矢を射る的や、筋力鍛錬に用いられる重しなどが転がっていた。
錬鉄場とはつまり、王城に勤める兵達の訓練場に他ならなかった。日々鍛錬し自らを一本の剣のように作り上げる為の心構えとして、王城を護る守護騎士の誰かが名付けた事で、そのまま正式な名前として呼ばれるようになった場所である。
時は既に日付も変わった深夜過ぎ。多くの人間達は床に付き、天には微々たる月光を申し訳程度に注いでいる三日月のみ。星の姿は、薄く広がる雲によって大部分が隠されていた。光源は乏しく、殆どが闇に包まれている。
そんな所で、一人黙々と真剣を振い続ける女性の姿があった。
闇のように濃い黒色のストレートヘアを背に長く垂らし、その先を一直線に切りそろえている。肌の色は闇夜の為に見難いが、この世界ではそうそう見られないきめ細やかさだという事は窺える。切れ長の目で、高い鼻筋、薄く小さな唇という美貌は、どこか鋭角的で刀剣に通じる芸術的な美を孕んでいた。
彼女の名前は、桐嶺刹那。
不運にも、今回堕ちて来た勇者であった。
◆ ■ ◆
三日月の微かな月光に照らされる薄暗い闇夜の中で、私はただひたすらに剣を振るい続けていた。
体から溢れ出てくる汗は、出た先から私の肉体から自然と放出される魔力によって外へ外へと弾かれていく。その為夜食を食べてから五時間以上ずっと動き続けている今でも、私の服は汗を吸って湿ってはおらず、干し立てのように乾いていた。
今現在の服装は黒いタンクトップにホットパンツという格好だったが、今宵のように肌寒い夜には似合わずとも、動き続けて火照った体には露出の多い服が丁度良かったのだ。
「ふっ!」
黄金色に輝く刀身が、夜の闇を切り裂く。残像が黄金の軌跡を残し、その軌跡を新たな軌跡が塗りつぶして、私の眼前には黄金の壁が形成されていく。
――綺麗、と私は剣を振りながら独り言を呟いた。
この剣は私がこの国、神光国家<オルブライト>の現国王閣下、オファニエル・ハイドランジア・ルアンティール・オルブライト様から戴いた国宝で、名を<確約されし栄光の剣>というらしい。
エクスカリバーの刀身は常時黄金色に輝いていて、初めてこれを手に取った時には思わず見惚れてしまった。それほどエクスカリバーは美しく、私はこの剣を手に取る度に高揚している自分を認識させられる。
だが、私が最も高揚するのはエクスカリバーを振っている時なのだと、初めてエクスカリバーを振ったその時に感じたのだ。その時はその感情が何であったのか良く分かってはいなかったのだけど、エクスカリバーの詳細を聞いた後では、その感覚が間違いではなかったと分かった。
これを振っているだけで、私はなにもかも忘れられる。嫌な事も悩んでいる事も、全て忘れていられるようになった。
正直に言って、私は毎日が怖くて怖くて堪らない。元居た世界では何不自由なく暮らしてきたし、可愛い後輩達や仲の良い友達と遊んでいた日々が懐かしい。自分でも無様だとは思っているが、気を抜くとベッドの中で泣いてしまう。
だから、今の私にとって、エクスカリバーだけが心の拠り所だといっても過言ではない。もしエクスカリバーが取り上げられそうになれば、私は、迷いなくその原因を斬って落とすだろう。例えこの国の国王であるオファニエル様が「還せ」といっても、私は国王を斬って逃げると断言できる。
それほど、私はもうこのエクスカリバーを手放せなくなっていた。使った事は無いが、麻薬の依存症に近いかもしれない。
このエクスカリバーは今から五百年も前に、私と同じようにこの世界に召喚された人が手掛けた【宝具】と呼ばれる作品の一つであるらしい。
私も名前を聞いた時、もしかしたらと思ってはいたが、まさか予想通りに私と同じく異世界から召喚された勇者が造ったモノだったと分かった時には流石に驚きを隠せなかった。
私のように戦闘に特化した能力に目覚めなかった彼はどうやら物を造る事に特化していたようで、この美しき宝具、<確約されし栄光の剣>を生み出し、そのほかにも多くの考えられないような能力と、それに比例する価値を持った作品を残している、とこの世界に来て友人となったこの国の第一王女・フェルメリア姫から教えてもらった。
彼の姿形や名前も知りたくなった私はフェルメリアに問いかけたのだが、その返答は残念ながら「ごめんなさいセツナ。エクスカリバーの製作者は多くの作品を残したのだけれど、名前やどんな姿形をしていたかまでは分かっていないの」という言葉だった。
残念に思ったと言えば本当だ。
多くの宝具を残し、そしてその素性が謎に包まれている彼――。
だけれど、それでも、今の私には十分過ぎる情報だった。
姿形も名前も知らない彼が造ったエクスカリバーに触れているだけで、私は一人じゃないように感じられる。この世界に、一人ぼっちじゃないと、触れるだけで思えるようになったからだ。
今でも正気を保っていられるのは、この剣が在ってくれるからに他ならない。
エクスカリバーを再び上段から振り落とす。この世界に召喚されてから、色々と強化が成されている私によって振り落とされたエクスカリバーは、単純に振っただけでも波を周囲に巻き散らかす。波は私から滲みだす魔力によって起こるモノらしく、フェルメリア曰く、この波は多すぎる魔力の為に起こる自然現象に近いとの事。
ただ振り落とすだけでこれなのだ。私の身に宿る膨大な魔力――そう言われているだけで、私としては全く実感が持てないが――を解放して意図的に波を起こせば、一体どうなるのだろう。どうなって、しまうのだろうか。
今でさえ錬鉄場全体に波が行き届いて、ガタガタと木箱を揺らしているし、私が立つ周囲の地面は軽く陥没し、波が風を巻き起こして吹き荒れていた。
今までの常識とはあまりにかけ離れた光景が広がっている。そしてこれを作っているのが自分自身だというのだから、実にタチの悪い冗談であってほしかった。
化物になってしまったのかな……嫌でもそんな考えが脳裏を過る。恐怖の坩堝に陥りそうで、エクスカリバーを振りまわす事で思考を強制的に意識外に飛ばしていく。
何も考えたくない。何も不安を抱きたくない。
考えれば、見えない重圧に押しつぶされそうになる。少しでも心を空っぽにしていないと、恐怖に呑みこまれてしまいそうになる。
だから私は一心不乱に、黄金に輝くエクスカリバーを振り続ける。振り続けていないと、どうにかなりそうだった。
考えたくない。嫌だ、考えるな。早く……帰りたいよ。
心の中で、弱音を吐いた。
そんな時だ。
私が声を掛けられたのは。
「セツナ、もうそれ位にしたらどうやの? 明日は姫さんが貴族のパーティーに出っから、セツナも一緒に行くんだろう? 睡眠不足で挑むと、貴族の坊っちゃんたちのアプローチでへばっちまうぞ」
振り返り、少し離れた場所で見慣れた青年の姿を見つけた。
つんつんと逆立った青い髪に、ぎょろりとした金壺眼、鼻は長い鷲鼻で、左頬には縦に一本の傷跡が走っている。汚い服装をすれば山賊にも見えそうだが、彼の名前は他国にまで轟いているほど名高い聖典騎士だった。
守護騎士の上位職に当たる聖典騎士には幼い頃より鍛えられてきた貴族が多く、彼はその聖典騎士の中では珍しい平民上がりで、しかも戦争の武勲だけでフェルメリア姫の近衛にまで上り詰めた、天才騎士らしい。
しかしやはり、山賊と見間違えそうな見た目からはまったく想像ができない。
彼の名前はルシアン・エステルハージ。
この世界に召喚された数日間は私の師だった存在で、今では私付きの従者になっている。
一応は護衛、といっていいのだろうか? 現在ルシアンは私よりも弱いのだけど、自分よりも弱い護衛って、必要なのだろうか? まったく意味がないように思えて仕方が無い。
だから多分、恐らくだけれど、私が逃げ出さない為の監視も兼ねているのだろう。
ちなみに、ルシアンが言う姫さんとは、勿論フェルメリアの事だ。
「問題はないはずだ。パーティーは夜の七時から、と聞いている。少し遅めに起きれば、睡眠時間は確保できる」
「所がどっこい、そうはいかねーんだよ」
「む? 何故だ?」
ルシアンの発言に、セツナは小首を傾げた。
「姫さんがセツナに似合うドレスを百着近く用意しちまってな、その試着で時間なんてあっという間だ」
「な、なに!? そ、そんな事は聞いていないぞ!」
「姫さんはこれと決めれば突っ走る節があるからな~。しかもセツナは姫さんのお気に入り、こりゃ予定の七時を過ぎるかもな。いんや、過ぎるに二銀貨賭けるね」
やれやれ困ったもんだぜ~、となんでも無いように喋りまくるルシアンを余所に、セツナはむむむ~、と頭を抱えた。
夜空に浮かぶ三日月の傾き具合を見れば、もう二時は過ぎているだろう。流石にこれ以上訓練に夢中になるのは無理だと判断し、セツナは部屋に戻る事にした。
「そうならそうと、早く言ってくれても良かったんじゃないのか? ルシアンは優しさとか配慮が足りないと思う。だから初対面で受けた印象がなかなか覆らないんだ」
「うは、それがせっかく教えてやった奴にいう事かよ。つか、セツナのエクスカリバー振ってる時って、鬼気迫るというか、狂戦士みたいに近づけば斬られそうでこえーんだぞ? 声掛けるのにも覚悟がいるって」
お前さんちと自分のデタラメじかくしろやー、とルシアンは苦笑いを交えながら自分の部屋がある宿舎に帰っていく。
その後ろ姿を、立ち止ったセツナは見つめた。ただ、じっと、見た。
表情は至って穏やかだが、黒曜石のような瞳には、言葉では表現されていない、怨念にも似た光りが込められている。
セツナとルシアンは、師弟の関係だったし、友人でもある。だが、セツナが心の奥底に抱いているのは、この世界全てに対する憎悪と嫌悪だった。親しくなったといっても、そこだけは変わっていない。
だがそれも、少し前までは普通の、ありきたりな女子高生ライフを楽しんでいたセツナが、突然突拍子も無く理不尽にこんな世界に呼ばれたという事を考慮すれば、仕方のない事ではないだろうか。
繰り返すがセツナの心の奥底には、この世界全てを拒絶する感情が眠っている。人間を憎悪する感情が眠っている。
だから全てに反発し、自らに宿った全てを壊す力を、滅茶苦茶に使って使って使いまくって、感情のままに壊したいと、セツナは気が抜けると思ってしまう事があった。
だけれど、ここでは在る程度従順である方が、帰れる確率が高いともセツナは分かっていた。
だから、色んな感情を心の奥底にしまいこんで、セツナは何とか生活していた。エクスカリバーが無ければ、もっと酷い状態になっていたのは間違いない。
それほどセツナの精神は弱まっていて、けれど表面に出ないために他者に悟られにくい。今もセツナの精神は不安定なモノで――
――だから、今のルシアンの発言は軽率だった。
セツナは、好んでこのような人外の如し能力を持ち得たのではなかった。化物のような力など、セツナは欲しく無かった。ただ、今までのように日々を過ごしていたかった。
それなのに、ルシアンが言ったデタラメとはこの世界に堕ちてきて目覚めたセツナの能力を差しているのに他ならない。誰でも嫌な事を言われれば怒るように、セツナは反応したのだ。
心の奥底から怒気が溢れそうになる。
だが、決して行動を起こす事は無かった。一瞬の内でルシアンの首を切り落とす事もできただろうが、その場から動かない。
動かずに、セツナはただ同じ言葉を何回も心の中で繰り返す。
従順であれ、嘘の仮面を被れ、反抗するな、とセツナは自らに言い聞かせる。早く還るためには、ここで問題を起こすのは自分にとってマイナスにはなってもプラスにはならない、と合理的な計算があったからだ。
セツナは静かに歯を食いしばり、硬く拳を握る。伸びた爪が突き刺さって掌から血が流れ出るが、自己治癒能力も飛躍的に上昇している今の状態では気にするほどでもない傷だ。五秒も放置しておけば、痕も残らず治癒することだろう。
その事実にまた、セツナは誰に悟られる事も無く湧き上がる感情を内に封じ込めた。
「絶対に、帰ってみせる……絶対に」
三日月の輝く深夜で、セツナは一人誓いを立てる。
儚く囁いたその声を聞いた者はセツナだけだった。前を歩くルシアンはすでに、宿舎まで到達している。
エクスカリバーを鞘に仕舞い、セツナもルシアンの後を小走りで追った。