第十二話 温泉の街と魅了する毒の美女 前編
「つあ~……いい湯だな〜。まったく、老体に染み渡るようじゃの~」
通常よりも熱い湯に全身を浸けると、思わず年寄りくさいセリフを呟いてしまった。
外見は未だ青年である俺が言うと、まったく似合わないセリフではないだろうか。
しかし、まあ、俺って生まれてから余裕で五百年が過ぎている訳だし、外見は十代だけど精神は膨大な時間を経験している訳で、あれ、全然問題無いんじゃないか? と自己完結する。
「カナメは一々年寄りくせーぜよ」
どうやら独り言が聞こえたようで、俺の隣で同じように湯に浸かっている男――バジルはそんな事を言ってきた。独特の口調に、物怖じしない性格はなかなか好印象を持てる青年だ。
俺達と同じ温泉に浸かりつつ、成り行きを遠巻きに見ているバジルの仲間である八人の男達にもこれだけの度胸を持てと言いたくなる。
「だって俺は精確に言って年寄りだし。人間の中じゃ間違いなくぶっちぎりで最年長者だからこれでいいの」
「いやいや、そんな冗談はもう止めよ~や。で、本当の所はどこぞの王子様とかやろ?」
俺に対して興味津々ですと顔を見れば分かるバジルは矢継ぎ早に質問してくるが、しかしさりげなく俺の心の考えを読む読心の魔術をこっそりと仕掛けようとしている。そんな強かな部分を、俺は心の中で高く評価した。
今現在俺達が浸かっている温泉は『白蛇の湯』と呼ばれており、湯が名前の通り濃い白で濁り、そのため湯の中を見ることが難しい。と言うか全く見えない。
それにより魔術を使うときに零れ出る魔力の変化光――魔術光を隠蔽するのには最適だ。それに温泉に浸かると、多少なりとも普段より気は緩むものである。だから今の状況は不意を突くのには適している。普通の奴なら、十中八九、バジルの術中に嵌るのではないだろうか。
しかしまあ、俺は普通の奴の部類には分類できないし、こう言っては何だが、こんな大雑把で洗練されていないバジルの魔術など手に取るように分かる。
魔術を感知できたのは、三流魔術師であるバジルの腕も関係しているのだが、俺が積み重ねた膨大な経験によるものが大半の理由だ。粗悪というか研ぎ澄まされていないバジルの魔術を掛けられようとすると、こう、身体全身がざわめく感じがするのだ。
バジルのは顕著にそれが分かったが、これが一流魔術師に成るともっと静かで、悟り難くなっていくのだから面倒だ。
だがまあ、仲間の為に少しでも役に立つ情報を危険を冒して探る姿勢はやはり評価するべきだろう。
読心の魔術と言った精神などに干渉する特殊系統魔術を、自分よりも格上の存在に対してこんな事はそうなかなかできるものじゃない。
それは何故か。
実に簡単な事だ。
バレたら大抵の場合、殺されてしまうからだ。
レアスキル<魔術師>を持つ者が扱う魔術は、どれも例外なく高い威力を発揮する。
“魔力共鳴”と呼ばれる特性により、魔術によってもたらされる魔術効果が一般人が扱う魔術の数倍にも数十倍にも膨れ上がるからだ。勿論、それに個人差があるのは言うまでも無い。
そして効果が膨れ上がる事によってのみ、マトモな効果が発揮できる魔術もある。
それが読心の魔術といった精神に干渉したりする、<特異系統魔術>。
人の精神の壁を魔術で突破しようとすると、人が持つ魔力によって術者の魔力が反発し合い、思うように効果を発揮できない。磁石のN極とN極、あるいはS極とS極を引き合わせても反発し合うように、人の加工されていない純粋な魔力は、絶対に相容れないのだ。
だが魔術師は魔術効果が常人の何倍にも何十倍にも膨れ上がるので、対象者の魔力の反発力を強引に捩じ伏せ、精神に干渉できるようになる。早い話が強引な力技による精神の屈服。
一度成功すれば確実に相手を意のままにできるが、しかし魔力で精神を塗りつぶすという特性上、その効果が表れるまで時間がかかるのが特徴的だ。だがそれでも、人を意のままに操れるというのはリターンが大きい。
しかしだからこそ魔術師しか扱う事ができない特異系統魔術は、禁呪として扱われている。人を簡単に傀儡にも廃人にもできてしまうからだ。
その為バジルのような魔術師は、読心の魔術といった人の精神に干渉する特殊系統魔術を本人の許可なく掛けた場合、バレた時には殆ど殺されている。といっても確実に掛かる相手にしか魔術を施すものが居ないのが現状で、バレる事はあまりない。
しかし俺に対してバジルがこの魔術を成功できる確率は、あまりに低い。よくて一パーセントと言った所だろうか。こんな確率で仕掛けようなんて思う魔術師はそうはいない。リターンはあるが、リスクの方が圧倒的に大きいのだから。
まあ、そんな馬鹿が目の前に居る訳で。
その為バジルがへらへらと浮かべる能天気そうな笑顔の下で、心臓が爆発しそうになるまで鼓動が速くなっているというのが簡単に予想できる。
とまあ、そんな色々を知っておきながら、自分の身を危険に晒し仲間の為に情報を集めようとする彼を、誰が責められると言うのだ。ポイズンリリーなら間違いなく毒刀で殺しているだろうが、俺にはできない。美しいではないか。仲間の為に自分を危険に晒す自己犠牲は。
まあ、魔術は俺に対して何も出来ないから気にしていないだけであるが。
何故か? 簡単だ。
今こうしてバジルの魔術に対してしているように、“喰え”ばいいのだから。
「知りたがるのは別に構わないけど、それはいつか身を滅ばすぞ?」
と自分なりにバジルの事を気遣い、今後のために警告してみると、バジルの顔が引きつって固まった。
熱い温泉に浸かっているというのに、バジルの唇はうっすらと青い。血の気が失せた、といった所か。
「あ……ははは、ハハハ」
随分と乾いた笑い声だ。
魔術を掛けようとしたのがバレて、殺されるとでも思ったのかもしれない。
魔術がバレバレなのは事実だが、殺そうとは微塵も思っていないのだが。
「これは友人としての忠告だ。聞くか聞かないかは自分で決めな」
「あ、ああ。……そうさせてもらうぜ」
あは、あははははは。と笑いつつ、バジルは俺から若干遠ざかった。肌がざわめく感じが消えたので、どうやら魔術を解いたようだ。喰っていた感触が消えたので、それは間違いない。
「しかし……いい湯だな」
ほう……、と温泉の気持ちよさに思わずため息が漏れる。
「ああ、そうじゃな……」
バジルが答える。最早俺を探ろうとするのは諦めたようで、ぼんやりと太陽が輝く青空を見上げている。
それを横目で見ながら、ポイズンリリーの居ないしばしの休息を堪能すべく、俺は身体の力を抜いた。
ああ、しかし、湯から上がるとまたポイズンリリーの毒を喰わねばならないのだろうか。
近い未来を幻視して、俺は少々長く湯に浸かろうと決意した。
温泉の縁に身体を預け、腕で顔が湯に落ちないように固定して、伸ばした足が湯の浮力で浮かんだのを感じ、ぼおっと青空を見上げると――。
空から紅い滴が降って来るのが見えた。
次の瞬間には、滴が俺の顔をべチャッと濡らした。
◆ ■ ◆
「何やら失礼な事を言われた気がします」
「え? 突然立ち上がってどうしたんですか?」
バシャ! と飛沫を上げながら勢い良く立ちあがったポイズンリリーさんに驚き、私はそんな事を言った。
「いえ、どうやらカナメ様が噂をしたような感じがしましたので」
おずおずとそんな事を呟いて、湯につかり直すポイズンリリーさん。
彼女の一糸纏わぬ生まれたままの姿を見てしまって、一度は落ち着いていた動悸が再び再発する。彼女の肉体を見れば、私のような同性でさえもドキドキしてしまうのは回避できないものではないだろうか。
スラリとしなやかに伸びる肢体に、雪のように白く穢れの無い柔肌。神話に出てくる美女神のような幻想的な顔付に、人の本質を見抜くような神秘的な赤い瞳。細く括れた腰に、大きく形の整った美胸。女の私から見ても欠点が見当たらない、完璧なプロポーションをした彼女。
それから高貴さが漂うほんのささやかな仕草全てが目に見えない美毒のようで、彼女の姿を見れば見るほど心身の奥底に浸透してくるような錯覚を抱く。
その上今は、入浴中だ。
湯に濡れて肌に張り付く髪が蠱惑的で、ほんのりと紅くなった頬が凄く綺麗だ。それから髪から滴り落ちる水滴が肩を落ちて、さらにほんのりと赤くなった肌を艶めかしくもゆっくりと伝って湯に戻っていく光景なんて、女の目から見ても凄く色っぽい。いや、色っぽいどころじゃない。ただ単純にエロいぞこれは! 物凄くエロい! なんですかこのナチュラルなエロさは!
今は私だけしか彼女の姿を見ていないのだが、彼女の湯上り姿を見れば、例え枯れ果てた男性だろうとも若かりし頃に戻るというか、あまつさえ女でも見惚れてしまうのではないだろうか。とち狂った暴漢が彼女に襲いかかってしまう可能性はかなり高いだろう。
というか、彼女の姿はまるで下界に降りて来た女神様の如し。高貴な存在ほど、穢したくなるというものではないだろうか。
そんな彼女の姿を見ていると、自然と鼓動が速くなり、呼吸が乱れ、自分がそこら辺に転がっている石ころのような錯覚を抱いてしまうのも、無理は無い事ではないかと。
無意識の内に溜め込んだ唾に気が付いて、大きくそれを嚥下する。
その時ゴクリ、と大きな音が鳴った。目線はずっと固定されている。
「どうしましたか? サラヴィラさん」
「――ッ! なんでもないです! なんでも!」
頬を染め、ポイズンリリーさんの姿に見惚れていたなど悟られたくも無かった。慌ててそんな言い訳をして、それでも彼女から目が離す事ができなくて。
「そうですか。それならいいのです」
儚げながらも心に焼き付く微笑。それがとても美しく、今まで抱いた事の無い感情が私の中で吹き荒れた。
彼女は美しく、高貴で、そして、そして――。
「本当に大丈夫ですか? ――ふむ、温泉で体温の上昇が著しいですね。一度出て身体を冷やしてはどうでしょうか?」
そっと額に添えられるポイズンリリーさんの手。
温かく柔らかい彼女の手が、私の額に触れている。それだけで鼓動の速さが今までの三倍になったように感じられた。一気に目の前の映像がぶれる。どうやら興奮しすぎたようだ。
そして身体の中から何かが凄い勢いで湧き上がって来る。
何かは鼻に集結し、集結してからも後から後から増援が鼻に集まって来る。
何かの正体はすぐに分かった。
私の血だ。頭に昇った大量の血が出口を求めて、私の鼻に集まっているのだ。
温泉によって血管が広がった事と、彼女の裸に興奮しすぎて今にも鼻血がでそうになっているんだ。このまま垂らす訳にもいかず、鼻を指でつまむ事で何とかこらえようと試み、だけど耐えきれないと悟った。
だってポイズンリリーさんの肉体が眼前にあるんですよ? 落ちつける要素が全くない。
一瞬恋人のウィリアムの優しい笑顔が浮かんだけれど、まったく効果がない。本当に使えないなと呆れが漏れる。駄目駄目だ、ウィリアムは。とココでため息を一つついた。
このまま鼻血を出すと同性の肉体に興奮する変態になってしまうという思いはあるのだが、やはりどうする事も出来ないようだった。というか、既に許容量一杯一杯もう無理です。
限界まで指で止められた鮮血が、ついにはあらゆる戒めを振り切って、私の鼻から天に向かって勢い良く放出された。
その姿はさながら、噴水の如く。
「ぶふっはッ!!」
急速に抜けていく血のアーチを見ながら、私の身体はボチャンと湯に沈んでいった。
意識が途切れる最後に見たのは、美しい彼女の微笑み――。
「やはり常人には耐えきれませんでしたか……」
どこか残念そうな美声が聞こえたような気がしたのだけれど、意識が遠のいていく私にはよく聞こえませんでした。
◆ ■ ◆
空から降ってきた紅い滴――血が、俺の顔に降ってきてベチャリと跳ねた。
慌てる事無く手ですくった湯でそれを洗い流し、隣の女湯でポイズンリリーと共に居るであろう彼女――サラヴィラに心の中で謝った。
それから合掌を一つ。
死に行く彼女の冥福を。
勿論まだ死んではいないと知っている。形式美とでも思って欲しい。
「そういや、リリーの身体を見た奴は殆ど虜にされるってサラヴィラに言ってなかったっけ……一言忠告しておいてやるんだった……」
最早手遅れ――血の雨が全てを物語っている――であるが、簡単に説明しよう。
ポイズンリリーは知っての通り、『毒』をモチーフに制作された機玩具人形であり、機玩具人形全二十体の内の『最初の存在』だ。
俺がこの世界に堕ちて来たばかりの頃に前衛として造り出したポイズンリリーの全身各部位には、質量保存の法則を軽く無視した量の毒性兵器が設置されている。それら一つ一つはこの世界に存在しないはずの強力な兵器ではあるが、しかしその中でもポイズンリリーの肉体こそが、一番強力な毒を持っているのである。
毒というのは、ポイズンリリーの艶めかしい肉体の事だ。
断言するが、ポイズンリリーの肉体に喰いつかない存在は殆どいない。
ポイズンリリーの肉体を見た者は『魅了』されるのだから。
魅了ってのは一種の呪としてこの世界にも存在している。
しかしポイズンリリーの魅了は強力すぎて、異性だけでなく同性――この場合は無論女――までも虜にしてしまうのだ。
ポイズンリリーは偶に城の大浴場で、武官や文官や妹達と入浴を楽しむ事がある。
しかし一定の耐性がないと同性愛者に目覚めてしまう可能性がガクンと高くなる――元から同性愛者な侍女達も居るが――ので、規律と道徳を護るためにしばらくは誰にも見せないようにしていたんだが……。
まずった。すっかり忘れていた。本当に忘れていた。
このまま放置していると、サラヴィラが目覚めてしまう可能性がある。しかも今貸し切っているここの女湯はポイズンリリーとサラヴィラの二人だけ。危険度は通常時の倍近いだろう。
無論彼女の道徳的な意味で。
しかし、まあ、ポイズンリリーがどうにかするだろうと俺は考えを止めた。
面倒だし。
ああ、しかし、面倒事は心底嫌いなのだが、サラヴィラ達を見捨てられなかった自分が一番面倒だという思いに駆られる。こんな部分だけは昔からあまり変わらない自分の頑固さが恨めしい。
サラヴィラ達を帆馬車に乗せた後は適当な場所で下ろそうかとも思っていたんだが、こうして温泉で賑わいを見せる街<アグバウア>まで同行しているのには、理由がある。
そう、あれは今から三時間程前の話だ……。