吹き荒ぶ嵐もどこ吹く風
「近頃王宮の中で嵐がビュービュー吹き荒んでいるわね。文書室は平和だけれども」
文書室での翻訳作業中にふとリズム女史が言った。
「え?嵐ですか?今日もとってもいいお天気ですが……」
窓の外を見てフランチェスカが答える。
「自然現象の方の話ではないのよ……なんでもリーグ公爵令嬢付きの侍女とソレム辺境伯令嬢付きの侍女が取っ組み合いの喧嘩をしたそうじゃないの」
「と、取っ組み合いですか……?それは知りませんでしたわ」
「今、王宮ではその話題で持ちきりよ?なのに知らなかったの?」
リズム女史に驚かれ、フランチェスカはきょとんと首を傾げた。
「ええ。でも何故そのような喧嘩をする事態になったのかしら……?」
「なんでも次の夜会で、王太子殿下とのファーストダンスがリーグ公爵令嬢かソレム辺境伯令嬢のどちらになるかで争いが起きているそうよ。侍女同士でウチのお嬢様に決まっている!と啀み合っているのだとか……あの人達が争ったって仕方ないのに。相手を決められるのは王太子殿下なのにね」
「そうですわよね」
フランチェスカは頷いた。
そうだった。今までは妃候補はフランチェスカしか居なかった為にレンブラントのファーストダンスの相手は必然的に自分であったが、今回からはそうではなくなるのだった。
――お立場や各門閥とのバランスもあるだろうからレン様もお相手を選ぶのは一苦労されそうね。
リズム女史はそんな事を考えているフランチェスカを見ながら不思議そうに言った。
「……フランチェスカ様は十二歳の頃から王宮に住まわれているのですよね?それなのにどうしてこんなにも王宮に染まっていないのかしら……」
「染まるとは?」
「……殿下が如何にそういったものから貴女を守って来られたのかが分かるわね」
「……?」
フランチェスカが首を傾げる。
リズム女史は少しだけ微笑んでフランチェスカに言った。
「貴女はそれでいいと思うわ。そんな貴女だから、私みたいな平民とも分け隔てなく接してくれるのだもの」
リズム女史は魔法薬剤師としてとても優秀な人物だ。
知識も豊富でいつもフランチェスカの質問に充分な答えを示してくれる。
そんな人を平民だからとか貴族だからとかに拘って変な壁は作りたくない、フランチェスカはそう考えていた。
「あ、そうだったわ」
リズムが魔法薬剤師というところで思い出した。
フランチェスカは書類ケースから書類の束を取り出した。
「リズムさん、これを読んでみて欲しいのだけれど……」
フランチェスカは翻訳した一部分をリズム女史に渡した。
王家の禁書ではあるが、薬剤や医療行為に関わる部分のみリズム女史に見せても良いと事前にレンブラントに言い渡されていた。
リズム女史は紙の束を受け取り、真剣な表情でそれを読んでいる。
そして……
「っ!……これって……」
リズム女史が驚いた表情でフランチェスカを見た。
その表情で自分の解釈が正しいのだとフランチェスカは確信する。
「やはりそういう事ですわよね?」
「これはっ……凄い事だわ、これが実用化されればっ……!殿下の目的はこれだったのね」
リズム女史が感嘆の声を上げる。
そして次の瞬間には真剣な顔をして側に居たロナに小声で告げた。
「この書類は直ぐに王太子殿下にお渡ししてあちらで保管して貰った方がいいわ。万が一にでも外部に漏れればフランチェスカ様が害される恐れがある、そうなのでしょう?ロナさん」
その言葉にロナは小さく頷いた。
「そうです。危険な事、ややこしい事は全て殿下に押し付けましょう」
そう言ってロナは書類ケースを持ち、文書室を出て行った。
直ぐにレンブラントの執務室へ向かうのだろう。
その夜の事だった。
後は寝るだけ……という時刻に、またフランチェスカの自室の窓がノックされた。
「え?もしかしてまたレン様?」
フランチェスカはそっとカーテンを捲り外を確認する。
するとやはりそこにはレンブラントがいた。
フランチェスカが窓を開ける。
「レン様ったらまたこのように窓から……落ちたら危険ですからおやめくださいませ」
フランチェスカが小さな声で抗議すると、レンブラントは唇に指を当てて「静かに」と伝えてきた。
そしてレンブラントはするりと開いた窓の隙間から室内へ入って来る。
「こうでもしないと日曜以外でフランに会えないだろ。母上も寂しがっておられるぞ。公平を期すという形の為にフランだけに会うわけにいかず、だからといって他の妃候補が性悪過ぎて会う気にもなれないと……」
「まぁ……わたしもお会いしとうございますと、側妃様にお伝えしてくださいね」
「ああ」
レンブラントはそう返事をしてフランチェスカを抱き寄せた。
「レン様……?」
「よくやってくれたフラン。やはりフランに翻訳を託して正解だった」
ロナから無事に翻訳を受け取り、内容を確認してくれたのだろう。
「あの翻訳がレン様のお役に立てそうですか?」
「勿論だ。そしてこれはフランにとって、大変な功績となる」
「功績?ふふ勲章でもいただけるのかしら?」
くすくすと笑うフランチェスカを、レンブラントは優しい微笑みで見つめている。
「勲章よりも叙爵よりも良いものだ」
「まぁ何かしら?」
「次の夜会でプレゼント出来るだろう」
「では楽しみにしておきますわね」
「ああ」
何が贈られるのかは分からないがレンブラントから貰えるならそれはヘアピン一本だって嬉しいものだ。
きっとレンブラントならその一本のヘアピンを真剣に悩み選んでくれるのだろう。
そんな事を考えて一人くすっと笑うフランチェスカの顔に影が落とされる。
なんだろうと思った時にはそっと顎を掬い取られて唇が重ねられた。
静かな夜の帳の中、窓越しの月明かりに照らされて、二つの影が一つになる。
最初は離れては重なる口づけを何度も。
そして段々と口づけは深くなり、フランチェスカは知る。
口づけにも色んなバリエーションがあるのだと。
大好きな人からされる口づけがこんなにも甘く蕩けてしまう事を。
「早く式を挙げたい……」
「レン様……」
耳元で囁かれた言葉にフランチェスカ全身の力が抜けた。
がくんと頽れそうになるもレンブラントは難なく支えてくれる。
「トーマスのおかげでファーストダンスの方もなんとかなりそうだしな」
「……え?何か仰いましたか……?」
「いやなんでもない」
レンブラントはこう言ったが、実はリーグ公爵家の侍女とソレム辺境伯家の侍女の喧嘩はレンブラントが発案し、トーマスが仕掛けたものだった。
噂好きの侍女たちの性質を利用して、双方に相手が裏で手を回してダンスの順位を操作しようとしているという噂(一概に噂とは限らないが)を流して剣呑な雰囲気を作り出した。
そしてそれにより取っ組み合いの喧嘩が勃発。
(まさか女同士で殴り合いになるとは思っていなかったそうだが)
王宮内でのいざこざはご法度。
侍女の行動の責任は雇用主、つまりリーグ公爵家とソレム辺境伯家が問われる事になる。
侍女も雇用主も厳重注意と、罰としては軽いものではあるが、夜会を前にしての不祥事は宜しくない。
これで双方とも裏で下手には動けず、当日誰が選ばれるかを黙って待つしかなくなった。
まぁそれでも選ばれるのは自分だと、訳の分からない謎の自信でご令嬢方は居丈高に笑っているそうだが……。
とにかく場は整った。
フランチェスカ自らが整えた場だ。
後はそれをレンブラントが引き継ぎ、最後の仕上げに掛かるだけ。
レンブラントは腕の中に閉じ込めている愛しい存在を強く抱きしめる。
決戦の日まであと数日。
何がなんでも守り抜いてみせると固く誓うレンブラントであった。