翻訳開始
文書室にてレンブラントに紹介された人物は二人いた。
一人は文書室の室長で初老の穏やかそうな男性だ。
名はイド=カメリオ。
元は王宮魔術師だったそうだが、古い古文書好きが高じて文書室の文官に転職したという御仁だ。
そしてもう一人はリズム=バーディンという壮年の女性。
彼女は魔法薬剤師で、フランチェスカがこれからやる翻訳の内容に関わってくるのだそうだ。
二人はフランチェスカに挨拶をした。
「よろしくお願い致します。いやはや殿下のお妃候補のご令嬢だとは聞き及んでおりましたが、本当にお若い。その若さで精霊文字に精通されておられるとは素晴らしいと言う他ありませんな」
とはカメリオ室長が。
「リズム=バーディンと申します。ロング侯爵令嬢、どうぞよろしくお願い致します」
と、リズム女史が言った。
フランチェスカも二人に挨拶を返す。
「こちらこそよろしくお願いします。どうぞわたしの事はフランチェスカと」
レンブラントが室長とリズム女史に言った。
「二人ともフランチェスカ嬢のサポートを頼む。とくにバーディン、君には翻訳作業で疑問が出て来るであろう薬品の知識をフランチェスカ嬢に教えてやって欲しい」
「かしこまりました」
そして室長が魔術にて厳重に施錠された特別な書庫から禁書を取って来た。
「フランチェスカ様、お手を貸してくだされ」
「手を?」
「貴重な書物ですからな、劣化を防ぐ為に魔術で手袋をしているのと同じ状態にします。もちろん禁書自体にも様々な術がかけられております故それらから身を守る目的もありますな」
「なるほど。さすがは王家所有の禁書ですわね」
フランチェスカは大いに感心しながら両手を室長の方へと差し出した。
「では失礼をば……」
室長が術を施す為にフランチェスカの手に触れようとしたその時、レンブラントの待ったが掛かる。
「ちょっと待て。魔術を掛けるのだからわざわざ手に触れる必要はなかろう」
手に触れるくらい構わないのに…とフランチェスカは思い、レンブラントの方を見る。
彼の眉間には浅いシワが刻まれていた。
「ふぉっふぉっ……フランチェスカ様のお手を他の者が触れる事が許せませんか。これはまた殿下の意外な面を拝見出来ましたな。承知いたしました、触れずに頑張ってみましょう」
室長はとくに意に介した様子もなく、フランチェスカの手に自分の手を翳し、術式を詠唱した。
するとほんのり温かい何かがフランチェスカの手を包む。
「出来ましたぞ。直接触れれば術式の詠唱は要らないのですがな」
「……これからもこの方法で施術するように」
「ふぉっふぉっ、承知いたしました」
「これで手袋と同じ効果……」
フランチェスカは自分の手をまじまじと見つめた。
見た目は何も変わっていない感じだ。
「手荒れ防止の効果もありますぞ」
「まぁ素敵♪」
さすがは元王宮魔術師だとフランチェスカは感心した。
そうしてフランチェスカはさっそく禁書の翻訳に取り掛かる。
禁書の見た目はなんの変哲もなさそうな古い本、といった感じであった。
しかし古の贅を凝らして装丁された表紙の美しさは本当に見事である。
フランチェスカはそっと禁書を開いた。
そこにはフランチェスカが惹かれてやまぬ精霊文字が並んでいた。
文字というよりは紋様のようだとフランチェスカはいつも思う。
このような美しい言語を精霊達が用いているというのに強く惹かれるのだ。
フランチェスカは夢中になって禁書を読み進めていった。
途中、恐らく薬か病の名だろうと思う箇所があり、魔法薬剤師だというリズムに質問をした。
「リズムさん、この部分の名称が聞き慣れない物なの。“アルセルノー”と書いてあるのだけれどこれは傷病名かしら?それとも薬の名称かしら?」
リズム女史は顎に指を当て、考えるように答えた。
「アルセルノー?聞き慣れない名前ね……でもアルセル、という風邪に似た症状の病ならあるけど」
「なるほど……リズムさんはずっと魔法薬剤師を?」
「ええ。養母(?)が魔法薬剤師でしたから、その影響があるのは間違いないですね」
「ふふ。どうして養母の後ろに(?)が付きますの?」
「まぁそれはそれはもう養母は複雑なイキモノでしてね」
「まぁ、お養母様がどのような方なのか興味をそそられますわね」
「ただのソフトガチムチなオネェ婆さんですよ」
「ソフトガチムチ……オネェ……婆さん……」
――聞き慣れない言葉だわ。後できちんと調べなくては。
どんな些細な事も知りたいと思う、わりと知識欲は貪欲なフランチェスカであった。
◇◇◇◇◇
フランチェスカを文書室に預け、レンブラントは側近のトーマスと共に執務室へと戻っていた。
デスクの上には今日中に決裁をしなければならない書類が山積みである。
しかし最愛のフランチェスカが戻って来たのだ、こんな書類仕事くらいなんて事はない。
むしろ心穏やかに取り組めてサクサク終わりそうだ。
書類に目を落とし続けるレンブラントにトーマスが報告した。
「殿下、今朝方リーグ公爵令嬢が庭園の散歩中に何者かに襲われるという事件が起こりました」
「ほう。それで?」
レンブラントは書類から目を離す事なくトーマスに言う。
「賊人は庭師に扮して庭園に潜入し、毒物を塗布した剪定鋏でリーグ公爵令嬢に襲いかかりました。が、近くにいた警護の騎士により取り押さえられ、令嬢はご無事でいらっしゃいます」
「賊はソレムかヴィゾネットか、どちらの手の者だ?」
「まだ口を割っておりませんが、恐らくソレムに雇われた者かと……」
「思惑通りだな。自分達だけで盛り上がってせいぜい自滅してくれ」
「邪魔な存在であっても妃候補として王宮に上げて正解でしたね。おかげで矛先がフランチェスカ様からそれぞれのライバル令嬢に変わりましたから」
レンブラントは不敵な笑みを浮かべてトーマスに言った。
「誰もがフランなど眼中に無い感じだな。結構な事だ」
「まことに!」
レンブラントはふとフランチェスカが言った言葉を思い出し、小さく笑った。
「ふ……」
「?如何されました?」
徐に笑ったレンブラントにトーマスが尋ねた。
「いや、フランが自分は蠱毒の虫には向いていないと言ったんだ。なるほど、蠱毒…な。確かに今王宮で行われているのは蠱毒の生成だ……フランの奴、言い得て妙な事を」
「……?」
それだけでは意味を理解出来ていない様子のトーマスにレンブラントは言った。
「それより来月に開催される王家主催の夜会の段取りは順調か?」
「あ、はい。準備に手抜かりはありませんが、殿下のファーストダンスの相手は誰かという事で一悶着ありそうなのが心配です」
「……候補者とは皆等しく踊る事になるだろうが、一番最初に踊る相手の印象は特別なものになるだろうからな……今のところ、妃選定議員の評価はどうなっている?」
「昨日報告を受けましたところによりますと、騎士達の鎧の改良を提案したソレム辺境伯令嬢の評価が順列一位となっております」
「ふむ……このままいけばファーストダンスの相手はソレム辺境伯令嬢か……」
「そして間違いなくフランチェスカ様が一番最後となりそうですね」
「ラストダンスと思えば悪い気はしないが、周りはそうは見てくれないだろうな」
「フランチェスカ様の御身の安全の為に敢えてこのままでゆきますか?」
トーマスの言葉にレンブラントはようやく書類から顔を上げて答えた。
「バカを言え。デビュタントした時から俺のファーストダンスの相手はフランと決まっている」
「え……でも今回はさすがに無理でしょう……?」
「無理をなんとかするのも側近の仕事だと思わんか?」
「えー……また無理な事を仰るおつもりですかぁ……」
トーマスがげんなりした顔をレンブラントに向ける。
情けない顔の幼馴染にレンブラントは告げた。
「ふ、無理が無理でなくなるように持っていけばいい」
「あぁ……なんかまた眠れなさそうな予感が……」
そう言ったトーマスにレンブラントが尋ねた。
「そういえばフランが見つかったのだから休みを取ってもいいんだぞ?」
「……殿下が働かれているのに自分だけ休むなんて、そんな事出来ませんよ……」
恨みがましく答えつつも、トーマスは新たな書類をレンブラントのデスクに山積みした。
その仕事の山を見て、レンブラントは遠い目をする。
そして、「早く日曜日になってフランの膝枕でゴロゴロしたいよ」と言った。
誤字脱字パラダイス、申し訳ないです!
いつも報告ありがとうございます!