2011年9月25日① 気仙沼市(宮城県)
空が白みかけた明け方、寒さで目が醒めた。まだ9月の下旬だが、東北地方の朝はだいぶ冷え込んでいる。
時間的にもまだ早いので少し二度寝をし、いくらか暖かくなってから昨夜の場所に行ってみた。
ごく普通の街並みの、角を曲がったその先の廃墟へと入ってみる。
奥の方に、入り江のようなものがあった。気仙沼湾だった。入り江の手前に、街灯が横倒しになって倒れているのが見えた。
道端に車を駐め、周囲を少し歩いてみた。
おそらく震災前は、「古き良き港町」といった感じの街並みだったに違いない。
入り江の傍に、食品加工か何かを行っていたと思われる建物(の残骸)を見つけた。業務用の大きな冷蔵庫の扉に「開放厳禁」と書かれた貼り紙があった。しかし、津波でねじ曲がった扉は蝶つがいが外れ、はっきりと中が見えていた。当然ながら電源は入っておらず、中身はほぼからっぽだったのだが。
近くの通りを少し歩いてみる。立ち並ぶ民家もおおかた破壊されていて、土台だけが残っている所も少なくなかった。
車に戻った私は、そのまま海沿いに車を走らせてみた。
海岸沿いは見渡す限り破壊し尽くされていて、そこにかつて何があったのかを窺い知ることすら困難だった。陸前高田市と同様で、鉄筋コンクリートのような頑強な建物だけが辛うじて外壁だけ残されているような状態。
残った建物をよく見ると、そこを襲った津波の高さがどの程度だったのかが分かる。学校だったと思われる大きな建物は、最上階の4階の窓ガラスだけが無事に残っていた。おそらく3階に達する高さの津波が到達したのだろう。
もっと傍まで近づいてみたかったが、地面のぬかるみが酷かったり海水が干上がっていない場所があったりで、普通の靴で歩くことはかなり困難な状態だった。長靴でも持ってくれば良かった。
津波がどの方向から押し寄せたのかも非常に分かりやすい。交差点の信号機や看板などが、津波に押し流された方向に沿って大きくひしゃげている。
台風などで川が氾濫した後の河川敷や中洲を見たことがある人は、場景が想像しやすいかと思う。草や木が全て同じ方向に押し倒され、ゴミや流木などが全て平行に押し流されているあの状態に良く似ていた。
TVなどのメディアで、震災後に被災地を視察した政治家など数人の人物が「臭い」「死の街」などの不適切発言で世論にさんざん叩かれていたことを覚えているのだが。
実際にここまで来て、自分の足で被災地に立ってみれば分かる。
本当に…臭いのだ。
干上がった潮の匂いに、壊れた機械や自動車などから出る機械油がすえた匂い。随所から上がってくる腐臭。加えて、半壊した住宅街などでは各々の家の中の独特の匂い(よそにお呼ばれした際に誰でも経験があると思う。いわゆる「他人の家のにおい」だ)が漂っている。それら全てが入り混じって、こぞって鼻孔を刺激してくるのだ。思わず「臭い」という言葉が口をついて出てしまうのも無理はない。
彼らだって別に公式に無神経な発言をした訳ではなく、半ば無意識に呟いた言葉を面白おかしくマスコミに切り取って拾われてしまったのだろう…と思った。
私が訪問したのは震災から半年経過後の秋だったが、これが震災直後や夏場ならばさらに大変だったものと想像できる。
そして、津波で破壊し尽くされた瓦礫の山の中、住民はあらかた避難して人影もなく、電気などのライフラインは全て停止して夜間は暗闇となる状態の街。
これを「死の街」と言わずして何と呼ぶのだろうか。中途半端に綺麗な言葉を使ったりする方が、よほど偽善的ではないのか。
現地に足を運ぶこともなく、茶の間でしたり顔でブーイングをすることだけなら誰にだってできる。
(続く)