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一章

薄い煙の漂う魔都ロンドンの街に、少女の姿をした吸血鬼が現れた。月明かりの下、次々と人間を襲い殺害していった。その吸血鬼マルムは明らかに優れた血を求めていた。ある晩ひとりの若いハンターが、黒い剣を手に戦いを挑んだ。

 一仕事終えたマルム・ツェペシュは紫の髪をなびかせながら手の甲で口元の血を拭った。煙の漂う魔都ロンドンの闇夜を翔け、満月の中に人影を映していた。

 黒のブラウスにコルセット、赤いフレアスカートに紫のタイツを身にまとった十代後半に見える少女が背中に生えたコウモリの羽で悠々と煉瓦造りの高い建物の間を滑空していた。

「今夜は上々ね。たぶん質は悪くない」

 マルムは反り返るように急上昇すると、軽く羽ばたいて大きな時計台のある屋根にショートブーツの踵を乗せた。摩天楼を見下ろすと通りは活気に満ち溢れ親子連れの人々がたくさん見えた。街を照らすガス灯は煌々としていた。

「それにしても随分と大きくなったものね、この街も」

 マルムは時計台に手を掛けると屋根の傾斜に腰をおろした。冷たい空気を吸い込むと焦げた臭いが鼻をついた。反射的に片手を顔の前で振った。


 見渡す街のいたる所から煙突が伸び薄く漂う煙を無尽蔵に吐き出していた。道路を行き交う車やバス、ロンドン駅から出発する列車も大量の煙を吐き出していた。街の人間はそれをまったく気にしていないように見えた。

 マルムは気をとりなおし髪から飛び出たコウモリの耳をピピッと震わせ、腰にぶら下げたポーチから試験管を取り出した。それを左手で目の前に摘まみ上げると、マルムは小さく笑みをこぼした。そして右手の人差し指を伸ばし試験管の口に当てた。

 尖った爪の先が丸く膨らむと、鋭く月の光を弾いた。それは真っ赤に滲み出し、ポタポタと垂れていった。

 マルムはその色艶に口元を緩めた。

 真ん中のメモリまで赤い液体が溜まるとそのまま試験管を鼻に当て息を吸い込んだ。マルムは恍惚に2、3度軽く頷くと猫のような赤い眼を見開き唇をつけた。ヘモグロビンが鼻を抜けると一気に液体を口にふくんだ。僅かな鉄分の香りが広がり舌触りを滑らかにした。

「んっ。美味い」

 やはり教授と呼ばれる人間の血の味は上質だ。若さや体質も重要だが圧倒的に能力や頭脳、その人間の性能が血の味を決めるのだ。この違いは吸血鬼にしかわからないだろう。

 これなら、たぶん大丈夫だ。

 マルムは立ち上がると腕を振りながら屋根の端を蹴り、勢いよく羽を広げた。風を掴むと身体を伸ばして高い塔が立ち並ぶ金融街を滑空した。建物の間をすり抜けるように飛ぶと意外と街の人々は気がつかない。と思っているとチカチカとなにかが光るのが見えた。窓をなぞるように丸い光が照らしだし、煉瓦の外壁を這いながらマルムを追いかけてきた。捜索用の灯りと共に中年男の怒鳴り声が聞こえてきた。

「居たぞ、吸血鬼はあそこだ」

 眼下には赤い軍服を身に纏った英国十字軍の兵士達が八人の隊をなしていた。大きなサーチライトを2つ、交差するように照らしていた。全員腰に剣を差しており十字架を片手に掲げている者もいる。実際いちばん厄介なボーガンを構えた兵が三人もいた。

「あーあ、来ちゃったか。今日はずいぶんと速いじゃない」

 眩しい光は吸血鬼の敵だ。マルムは大きな教会に飛び移り屋根の塔に身を潜めた。十字軍の隊長が白い手袋で指を差し腹から太い声を出した。

「姿を見せろ、吸血鬼。そこに居るんだろう。これ以上このロンドンの夜を好きにはさせんぞ」

 マルムは目を細めながら舌打ちをした。まともに闘えば敵わないのは兵士達もわかっていた。あくまで光で怯ませて矢で撃ち抜くつもりだろうが、その策はお見通しだった。

 マルムは塔の影から半身を出すと五指を開き左の掌を突き出した。直後に兵士たちは大気が震えながら迫ってくるのを肌で感じとった。

「な、なんだ。これは」

 兵士たちは目に見えない感覚に背筋が反り返った。そして2つのライトにひび割が入ると粉々に砕け散った。教会の屋根を照らしていた丸い光は消え去った。兵士たちは動揺を隠せなかった。

「ちっ。落ち着くんだ。奴はまだ屋根の上にいる」

 マルムは即座にポーチから刃のついていない柄だけの短剣を三本取り出すと、左手の指の爪から血を這わせた。すると柄から短い深紅の刃が伸びた。

 僅かに腕を振りかぶると瞬きのような速さで血のダガーを投擲した。ピンと張ったピアノ線のような光が走るとボーガンを持った三人の兵士は全員手の甲を貫かれていた。その激痛で呆気なく武器を落とした。

「くっ!」

 兵士達は刺された手首を掴みながらその場にうずくまった。

「じゃね」

 マルムは小さく舌を出すとウインクをしながら再び飛び立った。人間の邪魔さえなければ風は涼しく気持ちよく飛べそうな夜だ。威厳と美しさに満ちた金融街を縫うように滑空し街を行き交う人々を見下ろしながら、後は城に帰るだけだった。

 ドラキュラ城。人々は遠い伝説の名前を未だに使っていた。数百年もまえから崖の上に建つ、かつての伯爵の住みか。使い魔が守る悪魔城。


「止まれ」

 不意に刺すような若い男の声がした。少し低く自信と余裕が入り混じった声だった。マルムが声のした方を見るとロイズ銀行の屋根の上にひとり、黒いコートの男が立っていた。右手に黒い剣を持ちフードを被っている。下から街明かりで照らされ僅かに白い顔の輪郭が浮かんだ。

「なんだ、こいつは」

 マルムは嫌な予感がして目を細めた。フードから覗く青い眼光は普通のハンターではない事を物語っていた。

 剣士は腰を落とし力を溜めるとマルムに向かって弾けるように翔び掛かった。

「ちっ!」

 マルムは銀細工で装飾された黒い柄を取り出すと親指を下に向けて爪から血を流した。すると、柄の先から獣の牙のような真っ赤なサーベルが出現し剣士の風のような、そして重い太刀を受け止めた。身体を押し付けあい二本の刃を競り合わせながら、二人はそのまま窓の光の間を抜けオールドウォッチ通りの公園に落ちた。

 マルムは土の上を後転しながら手を付きそのまま片手で飛び跳ねると軽やかに着地を決めた。顔を上げると目の前の男を睨みつけた。

「やってくれるわね、あんた。今夜は帰さないわよ」

 剣士も既に立ち上がっていて膝の土を払いながら言った。

「吸血鬼、最近ずいぶん腹が減っているようだな」

 マルムは表情を変えずに答えた。

「かもね」

 剣士は小さくため息をつきあたりを見回した。そのままあごで公園の中央にある噴水をさした。

「ここはおまえの墓場だ。街のど真ん中、緑も多い。悪くないだろ」

 マルムは首を傾げて左手の人差し指を空に立てた。

「あんたはお月様を知らないの。まさか満月の夜に吸血鬼を殺る気なの?」

 月光の恩恵を最大限に受けたマルムの力は普段の数倍に膨れ上がっていた。吸血鬼の習性を知らないロンドン市民など皆無だった。

「さあな。あいにく夜はいつも、寝てるんでな」

 剣士は頭を振ってフードを取った。金色の髪に青い眼をした、まだ17、8歳の若者だ。

「そう。なら今夜は私が寝かせてあげる。永久に」

 マルムは腰を落としながら右手のサーベルを逆手に構えた。

「俺は魔物ハンター、クルーチス。いくぞ」

 クルーチスは剣を水平に構えると地面を蹴り突進した。

「聞いてないわよ、あんたの名前なんて」

 マルムは左手を突き出し大気を震動させ超音波を放った。クルーチスの目にはリング状に広がってくる衝撃波がはっきり見えていた。最小限の動きで左右に翔び間合いを詰めると、片手を振り上げひらめくような袈裟斬りを放った。

 マルムはその剣を後ろに飛んでかわすと、サーベルを体の前に構えながら左手で3本のダガーを取りだし真っ赤な刃を伸ばした。

「なんか、ほかの奴等とは違うようね」

「かもな」

 クルーチスは再び翔ぶように間合いを詰めた。マルムは三本のダガーを一気に投げると、同時にサーベルを脇に締め突撃した。

 クルーチスはダガーを剣で弾くと、即座に眉間を狙ってきた突きを剣の腹で受け止めた。鈍い金属音と共に重い衝撃がのし掛かり踵が地に沈んだ。お互いの刃が小刻みに震えている。

「おまえも今までの魔物とは違う。だが、ここまでだ」

「ふうん、そう」

 そういうとマルムの体は闇のように黒く染まりはじめた。全身が影のように真っ黒になると頭から小さなコウモリと化し無数に飛び散った。クルーチスは怪訝に首を振り眉をひそめた。

「なんだ、まさか逃げるつもりか」

「まさか」

 コウモリたちはクルーチスを取り囲みカン高い声で鳴くと、一斉に超音波を乱射しはじめた。

「くっ」

 クルーチスは身をひるがえし横っ飛びでかわした。そして前転しながら着地をすると即座に飛びかかりコウモリの1匹を斬り捨てた。しかし、その手応えは鈍かった。

 クルーチスが右手の剣を見ると黒い刃が血糊で赤く固められていた。

「なに。さっきのダガーか」

「さあ、どこを見てるの」

 さらに容赦なく降り注ぐ攻撃はあまりにも範囲が広すぎた。どこへ跳んでもコウモリと超音波は追いかけてきた。

「くっ、仕方ない」

 そう小さく呟くとクルーチスは跳び退き距離を取った。そして左手を顔の前にやり、その掌を天に向けた。すると徐々に手の回りの景色が蜃気楼のように揺らめき燃え上がると青い炎が灯った。

「なに、なんなのあれは」

 長年の経験がそうさせた。小さなコウモリ達が集まるとマルムは再び人の姿に戻り身構えた。

「加減はしない。燃えろ」

 クルーチスが左手を突き出すと青い業火が放射されマルムに襲い掛かった。マルムは瞬時に羽を広げ漆黒の丸い壁を作ると荒れ狂う炎はせき止められた。

「そんな盾でいつまで持つかな」

 夜の公園が青い光に照らされ木々や噴水に長い影を作った。鉄壁のはずの黒い壁は即座に熱を帯び赤くなっていった。スカートの端が焦げる臭いを微かに感じながらマルムは考えていた。

「まさか人間にこんな芸当ができたとはね。この炎、そう長くは耐えられない。信じられない上玉ね」

 マルムは目を閉じ、右手に意識を集中させた。

「こいつの血は、必ず頂く」

 右の掌からブクブクと沸騰するような、真っ赤な泡が出現しこぼれ落ちた。

「なんだ、本当にこの程度なのか?」

 クルーチスは小さくため息を吐いた。今までもゾンビやグールや巨大な蛇など幾多の魔物を狩ってきた。しかし自分を苦戦させた者はほぼ皆無で、特にこの青い炎を耐えた魔物などいなかった。今夜もこれで終わりだと思った直後に、目を丸くした。

「いや、なにっ!」

 マルムの手から放たれた真っ赤な泡が青い炎を飲み込みながら襲い掛かってきた。

「バカなっ」

 炎の放射を中断しとっさに跳び上がり空中へ逃れたがそこには全身のバネを効かせながら脚を振りかぶるマルムがいた。

「しまった」

 クルーチスは体をたたみ防御の姿勢をとるがマルムは構わず思いきり脚を振り抜きその身体を蹴り飛ばした。

 鈍く弾けるような衝突音と共に街路樹を突き破り公園の外まで吹っ飛び銀行の壁に叩きつけられたクルーチスは力なく地面に落ちた。すぐさま両手を地につくが膝に力が入らず立ち上がれなかった。黒いブーツがゆっくりと羽のように目の前に着地した。

「さあ、あなたの血を頂くわ。大丈夫、無駄にはしないから。多分ね」

 マルムはクルーチスの首筋に視線をやると僅かに唾液を飲み込んだ。口を開くと白い牙が覗いた。

「く、くそ」

 クルーチスは再び左手を広げ炎を出そうとしたが、すぐさま手首を踏みつけられ地面に突っ伏した。

「観念しなさい」

 マルムはクルーチスの胸ぐらをつかみ引き寄せ、凶悪な牙を伸ばした。

「くっ。こんなところで、死ぬわけにはいかない」

 クルーチスは気を失いそうになりながらマルムの手首を掴んだ。青い目はもうほとんど閉じかけていた。

「待ちなさい!」

 突如、側面から若い女の声がした。マルムが振り向くと金色の長い髪をした14、5歳の少女が立っていた。白いブラウスにフリルのスカートで腰には鞭を備えている。

「な、なに?この子は」

 マルムは急なことに目を丸くした。

「サ、サンクティ、来るな」

 クルーチスは片膝をつきながら声を絞り出した。

「お兄様から離れなさい!」

 サンクティが両手を前に突き出すと、その体の輪郭から青白い粒子が出現し、湯気のように浮かび上がっていく。すると銀行の壁から煉瓦が剥がれふわふわとサンクティの周りに滞空した。次の瞬間、マルムを目掛けて矢のように飛んできた。

 マルムは咄嗟に飛び退いてかわすと煉瓦は地面に突き刺さり芝生が次々とめくれあがった。クルーチスは剣を逆手に体を支えるが力尽き、その場に倒れこんだ。

「お兄様!」

 サンクティが強く念じるとさらに周辺の建物からもブロック塊が空中に集まってきた。浮かんでいる石や煉瓦が青く発光するとその表面が削れていき先端が槍のように鋭利に尖った。金色の髪が逆立ち揺らめきだした。

「こっちだ!速くこい!」

 草地の奥から複数のランプがガチャガチャと光ると、英国十字軍の増援達が10人ほどの隊で公園になだれ込んで来た。

「ちっ、今夜は店仕舞いね」

 マルムは羽を広げると高く飛び上がり、煙が漂う闇夜に溶けていった。


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