春の章 アイノココロ 後編
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翌日、登校するなり愛から事情を聞いたリナは唖然。
立ち会うことは出来ずどのような結果になったか気になったのだが、余りにも予想の斜め上を行く結果。
まさか優介と愛が料理勝負をすることになるとは思えず、なにより負けるのは当然のこと勝つことも許されない。イーブン狙いの勝負とはどういうことか?
もちろん勝つことはもっと難しいが優介相手にイーブンも充分な難易度、とにかくかける言葉が見つからない。
「……やはり、私がまだまだ未熟なのでしょうか。だから優介さまはあのような……」
「未熟ね。確かにそうかもしれないけど、少なくともユウスケはアイの料理を高く評価してるわ」
「はい?」
昨日とは別の理由で意気消沈の愛だが、二人の会話を後ろの席で聞いていたカナンから思わぬ情報を耳にし振り返る。
「ほら、アイが以前ワタシの料理をマネたでしょう? だからワタシもソフィも本来のアナタの料理を知らないから、どんな料理人か尋ねたのよ」
「そ、それで優介さまはどのように……?」
「純粋が故に応用が利かない、でも純粋だからこそ迷いない料理……だったかしら? とにかく自分よりも多くの可能性を秘めた素晴らしい料理人で、将来が実に楽しみだって」
「私が優介さまより……そんな恐れ多い……」
自分の知らないところで優介はどのような評価をしているのか、気になり興奮気味に問い詰めれば思わぬ高評価に戸惑いながらも愛は感動してしまう。
優介ならば謙遜するが、嘘は言わない。
つまり本心で素晴らしい料理人と認めてくれている、これほど嬉しい賛辞はない。
「ね、ね? リナのことは何か言ってなかった?」
天にも昇る気持ちの愛の隣で、愛弟子としての評価を知りたいとリナも尋ねれば
「…………うん、ガンバって」
「どう言う意味っ?」
実に微妙な評価に突っこんだ。
「まあリナのことは良いとして――」
「良くないよっ?」
「結局のところ、アイの覚悟次第じゃないかしら」
「……どういうことです」
意味深なカナンの言葉に我に返った愛は再び問いかける。
「さあ? ただ、ユウスケの気持ちもわかるのよね」
「あなたが優介さまの気持ちが分かると? 冗談は顔だけにしてください」
「どんなカオよ……。まあいいわ、これ以上はアイツの望むところでもないし。ワタシにとっても面白くない」
「……?」
「とにかく、面白い趣向を用意してるから勝負を楽しみにしてなさい」
「あなた……何を考えているのです?」
「さあ?」
「むぅ……リナなに頑張ればいいんだろう? でもいいや、まずは愛ちゃんの勝負。リナ応援に行くね」
自分の評価を気にしていたリナだったが気を取り直し改めて親友の味方と意志を示すも
「リナ……残念ですが、それは無理です」
「え? どうして?」
「今回の件、優介さまと私の問題……つまり優介さまが却下されています」
「またなのっ? またリナ仲間外れなの~!」
「ソフィもね……お陰で昨日から機嫌が悪くて大変なのよ……」
味見役として指名されただけなのに姉のご機嫌取りに忙しいカナンは徒労でため息を吐いた。
◇
放課後、いつものように午後営業を終えた日々平穏にカナンが来店。
「じゃあルールを説明するわ!」
調理服を纏う優介と愛を前にカナンは得意げに胸を張る。
ちなみに恋は一人で閉店作業をしつつ聞き耳を立てている。
「その前にコレを見て」
カナンは肩に提げていた保冷バッグをテーブルに置いて蓋を開ければ。
「お魚さん……ですか?」
「マグロにハマチにタイか。ほう? 中々の上物だ」
「アナタ達に出すお題はズバリお刺身よ」
中を確認し愛が首を傾げ優介が感心するとカナンは人差し指をピンと立て料理勝負のメニューを告げた。
つまりカナンの用意したマグロ、ハマチ、タイの三種で刺身を作ってもらう。
しかも材料は公平を期す為にカナンが学校が終わるなり魚市場で購入したという。
「それとこれは付け合わせのワサビね」
続けて八百屋の紙袋から山葵の根茎を二つ取り出す。
「条件としては必ずこの食材を使うことかしら? 盛りつけに使うツマミや野菜は自由に――」
「盛り上がってるところゴメンだけど……ちょっといい?」
と、説明途中で我慢できなくなった恋が申し訳なさそうに挙手。
「料理勝負でメニューがお刺身ってどうなの? しかも同じ食材使っちゃったら同じモノにしかならないんじゃ……」
料理としては微妙で言ってしまえば切って盛りつけるだけ。
更に恋の疑問視するように同じ魚の切り身を使うならば味は同じと思うのだが――
「……やれやれ」
「これだから恋は……」
「レン……それでも料理を扱うお店で働く従業員なの?」
「すっごく視線が痛いんだけどっ?」
優介、愛、カナンの料理人から呆れと残念な反応を返され居たたまれなくなる。
「いいレン? 確かにお刺身は切るだけってイメージがあるけど単純なモノほど料理は難しいの。下ごしらえを含めた魚の処理は料理における基本、味付けをするよりも素材を生かす技術は特に」
「そ、そうですか……」
「加えて盛りつけもね。色がある食材って華やかさが大きく出る、料理人のセンスも試されるってワケ」
「勉強になります……」
芸術の都出身のカナンらしい観点に恋は素直に感心する。
「とまあ話はそれたけど、ワタシからの条件はこれくらい。制限時間は三〇分でいいかしら?」
「異存ない」
「問題ありません」
「じゃあ後は順番か。ここの厨房は一つだしどちらが先に――」
「それには及びません」
最後に先攻後攻を決めようとするカナンに今度は愛が挙手。
「私は家の台所を使いますので、優介さまは厨房をお使いください」
「ダイドコロ? ここって他にも調理をするところがあるの?」
「はい。お爺さまとお婆さまは仕事と家事は別物と考えていたので。設備も遜色ありませんし、私は台所の方が使い慣れています」
「そう? じゃあレンの作業が終わり次第――」
「とっくに完了」
得意げに恋が親指を立てるのでカナンは小さく頷き。
「じゃあ八時四〇分までに料理を仕上げて。ワタシとレンは居間で待ってましょう」
◇
店内から台所へ移動した愛は保冷バッグを置くなり包丁の準備を始める。
当初は無謀な勝負になると思えていたがメニューが刺身と知り正直安堵した。
下ごしらえを始めとした食材の処理は普段から優介の手伝いをしているし、愛にはカナンとの勝負で手に入れた飾り包丁の技術もある。
素材の目利きなら分が悪いも、カナンが用意した材料なら問題ない。
後は失敗さえしなければ良い勝負、つまりイーブンになれるかもしれない。
後はとにかく集中、一切の無駄もなく手早く、同時に盛りつけのイメージを浮かべて。
極限まで集中力を高め、愛は調理を始めた。
同時刻、宣言通り恋とカナンが居間で待機。
ただ待つのも間抜けなのでお茶を飲みつつ時間を潰すことに。
「ほい、お茶」
「アリガトウ」
「それにしてもお刺身ねぇ。難しい料理ってのは分かったけどやっぱ意外」
「かもね。でも他にアイがユウスケと良い勝負ができる方法が思いつかなかったの」
取りあえず恋が改めて疑問を口にすればカナンは苦笑し、お茶を一口飲み続けた。
「アイの腕は本物よ。先日、初めてアイの料理を食べたけど正直聞いてた以上。もしかするとソフィより上かも」
「ま、一応ユースケの代わりに厨房を任せられる唯一の料理人だし」
「でもやっぱりユウスケと比べると遙に劣るわ。味もだけどユウスケにはスキがない、和洋中からスイーツまで一通り精通してる。純粋な味比べだと勝負にならない」
「…………」
「だから素材を生かしたメニューを選んだわ。ワタシの技術をマネできるほどの素質と、包丁さばきがあるなら下ごしらえや盛りつけがモノを言うお刺身ならいい勝負ができると思って」
悪戯っぽく微笑むカナンの表情に恋は首を傾げてしまう。
「もしかしてカナンさんは愛がユースケに料理を教わることを望んでる?」
「ええ」
予想外にもアッサリと肯定され恋は気が抜けるも、カナンは気にせず続けた。
「ユウスケの望みとは違うけど、ワタシとしては願ったり叶ったりよ。アイの才能とユウスケの教えがあればとってもオモシロそう」
「……どういうこと?」
「後はアイの覚悟次第だけど、それはワタシがどうこう言えることじゃないし」
「いや、一人で自己完結しないで教えてよ。ユースケは望んでないけどカナンさんには面白そう? 意味分かんないんだけど」
断片的な情報しか与えられず混乱気味な恋にカナンは小さく笑い
「多分レンには分からないでしょうね。だから教えてあげない」
「……あっそう」
「それよりも……重大な問題があるのよ」
「え?」
ふと表情を引き締めるカナンに何事かと恋は緊張する。
「昨日からソフィの機嫌が悪いの! さっきだって準備の為に市場へ行きたいから車出してってお願いしたら『ワタシは仲間外れですから関係ありません』って出してくれなかったのよ?」
「へー」
しかしもの凄く個人的な悩みにどうでもよくなった。
それからひたすらどうすればソフィの機嫌が直るかを一方的に相談されること二〇分。
「…………ずいぶんと賑やかですね」
廊下側のふすまが開き冷ややかな声と共に愛が入ってくる。
「優介さまはまだですか?」
「ええ。でもまだ五分あるわ」
まず優介の所在を確認する愛に苦笑しつつカナンが返答。
「ですね……。では、僭越ながら私の料理を先に」
「うわぁ……」
「サスガね」
愛は頷き、手にしていた刺身皿を置けば、恋は目を見開きカナンは感心。
緑を基調とした焼き皿に乗るのはマグロ、ハマチ、タイがそれぞれ四切れづつ。身も綺麗に切り添えられている。
しかしそれ以上に目を惹くのは添え物、白く盛られたツマミに寄り添うキュウリで象られた竹とすり下ろされた山葵の小山。
お約束の菜の花の飾りはカボチャの身を使っている、シンプルながらも彩りが計算された清涼感ある一品だ。
「これまた気合いの入った……食べるのが勿体ないわ」
「別にあなたは食べなくて結構」
「あんたねぇ……」
「さ、早くお食べなさいカナン・カートレット」
珍しく素直に賞賛する恋を一瞥し、試食役のカナンを促す。
「上がりだ」
同時に店内側のふすまが開き制限時間一分前に入ってきた優介は愛が居ることを確認し、続いてテーブルにある刺身に注目。
「ほう? 刺身という自然の食材を考慮し竹林をイメージしたか。更に清涼感を出すことで新鮮さを増す盛りつけ、見事だ」
「お褒めいただき光栄です」
「……この二人、いま料理勝負してんのよね?」
いきなり美食家よろしく絶賛する優介に蕩けるような笑みで感謝する愛は、恋が疑問視するように敵対しているとは思えなかった。
「ていうか、ユウスケずいぶんと饒舌じゃない?」
「こいつは料理のことになるとこんな感じ。料理の超人見てる時も凄いよ」
とにかく実に和やかムードに生ぬるい視線を送るカナンと恋だったが
「では優介さま、鮮度が落ちぬうちにお一つ」
「いただこう」
「「――てぇっ! いただくな!」」
愛に勧められるまま箸を手に取ろうとする優介にたまらず二人で突っこんだ。
「あんたらなに考えてんのっ? 普通、料理勝負してる同士がその料理勧めてあまつさえ食べようとする普通っ?」
「ソーヨソーヨ! 分かったらユウスケ、さっさとアナタの料理も出しなさい!」
「そうだったな。余りに素晴らしい出来映えに忘れていた」
「ありがとうございます」
「こいつら……」
「ホンッと疲れる……」
実に天然な二人に恋とカナンは頭を抱えてしまう。
「では俺の料理を」
「「…………っ」」
しかし、テーブルに置かれた刺身皿に恋と愛は言葉を失っていた。
斜めに引かれた黒と白の皿の中央に敷かれたツマミ、更にその上に乗るのはマグロ、ハマチ、タイの身をそれぞれ重ね合わせて象られた三つの花。
それは雪の寒さに負けず咲いた大輪の花、シンプルながらも清涼感ある愛とは違い大胆な一品、まさに芸術作品だ。
「な、何だか良く分かんないけど取りあえず写メ撮っとこ」
思わずスマホを取り出し写真を撮る恋の隣りで愛は呆然としていた。
「盛りつけは互角、と言ったところかしら」
「……え?」
しかしカナンの一言で我に返る。
正直、一目見ただけで愛は負けを覚悟していた。
それほど優介の料理は美しく、自分の料理が霞んでいるようにしか見えない。
「シンプルなアイの料理も大胆なユウスケの料理も結局は個人の感性次第。ワタシとしてはどちらも日本の四季を彩った素敵な一品ね」
だが理由を聞いて無理やり納得。
見た目は好み、そしてカナンがどちらも好めばその通りだ。
ならばやはり最後は味。
驕りなく自身にできる最高の技術と細心の注意を払い調理した刺身が優介より劣っていなければ勝てないまでも負けることはない。
「じゃあ先に用意したアイのお刺身から」
祈るような気持ちで見守る中、カナンは小皿に醤油を浸しワサビを添えてマグロを一口。
ゆっくりと味わい、恋の用意していたお茶で口内を整える。
「それとユウスケのお刺身を……」
同じようにゆっくりと租借し、飲み込むと箸を置いた。
両手を合わせ祈る愛に興味津々と視線を向ける恋。
そして静かに目を閉じる優介が耳を傾ける中――
「……ザンネン。この勝負、ユウスケの勝ちよ」
小さくため息を吐きながらもハッキリと口にした。
「そんな……っ」
その判決に愛は崩れ落ちてしまう。
「やっぱね……ちなみに、理由を聞いても良い?」
どことなく微妙な気持ちで恋が問いかければカナンは端的に告げた。
「食べてみれば分かるわ」
「食べればって……あたしに味の違いなんて分かるの?」
「いいから」
不承不承と恋は箸を取り愛の刺身、優介の刺身と順に食べ比べる。
「……? なんかユースケの方が冷たいような……」
自信なく恋が呟けばカナンは良くできましたと微笑み。
「他にもない? 温度だけじゃなく味そのモノに」
「味って言われても……あ、ユースケの方が鼻にツンとくる感じが強いかな。でもどうして? 二人とも同じ材料使ってんのに、そんなにも処理って違いが出るもんなの?」
二人の味の違いにとにかく首を傾げる恋に対しカナンはため息一つ。
「処理の違いで味は変わる。でもこれほど差が出ることはないはず……つまり、ユウスケはただ調理してないってことかしら? 例えば魚をさばく時に手を氷水で冷やしたとか」
「手……?」
恋が注目すれば心なしか優介の両手が赤くなっていた。
「そもそもアイの盛りつけはほとんど魚の身を触らなくていい、でもユウスケの盛りつけ方だと細工するのに結構触れることになる。なのにユウスケの身の方が冷たく感じるなら、事前に手を冷やして体温で鮮度が落ちなくする工夫をしたから」
「あんた……そこまで」
「それと卸し金もかしら? ワサビをすり下ろす時、摩擦が生じることで風味や辛みを飛ばしてしまう。だから事前に冷凍庫で冷やした卸し金を使って少しでも摩擦熱を抑えたからユウスケのワサビの方が強く刺激を感じた」
「……よく分かるね」
「最後に、ユウスケの調理技術なら魚をさばいて盛りつけをする、という行程に三〇分もいらない。なのにアイよりも遅く持ってきた、これは自分の調理工程を逆算して三〇分後に提供するため敢えてギリギリを見据えて調理を開始した。刺身の鮮度を少しでも保つために。どうかしら?」
「見事だ」
カナンの推理が正解だと優介が頷く。
「鮮度が熱に弱いのは基本。なら少しでも鮮度を保つ工夫をするのは当然のこと」
「にしたって……時間ぎりぎりは良いとしてもこの時期に氷水に手入れる普通? ちょっと手、見せなさい」
「たいしたことねぇよ」
「あるわよ! ああもう肌ひび割れしてるじゃない! 塗り薬――」
「……大げさな」
「いいからちょっと来なさい!」
と、優介は強引に恋に連れられ店内へ。
「……ユウスケと同じ厨房に立つアナタなら分かると思うけど、料理に感動するのは味や見た目だけじゃない」
残されたカナンは項垂れたまま動かない愛へ言葉を紡ぐ。
「実際のところ、鮮度を落とさないよう手を冷やす工夫も卸し金を冷やす工夫も、味への影響はホントウに些細なこと。気づくかどうかも怪しいほどね」
カナンの言葉を聞きながら愛はもう理解していた。
「でも気づけば大きな変化になる。こんな些細な気遣いをしてまで自分に美味しい料理を食べてもらいたいんだ。例え気づいてもらえなくても美味しい料理を作るために、色々と考えて工夫してくれているんだってね」
勝負をする前からもう結果は出ていたのだ。
自分と優介、二人の大きな心構えの違い。
「些細なことでも積み重なれば味への変化はもちろん、大きな感動を生むわ。ワタシが思うユウスケという料理人は、料理と真摯に向き合い、食す者への心配りを当然のようにできるのよ」
優介は勝敗よりもまず食す者を第一に考えていた。
少しでも美味しい料理を食べてもらいたいと、自分のできる以上のことを模索している。
対し愛は失敗しないように、自分のできる全てを注ぎ込むことばかり。
言ってしまえばその程度の心構えしかなかった。
「アナタはユウスケに負けないようという気持ちでいたでしょう。でもね、その時点でアナタは負けてるの。ユウスケ程の料理人と良い勝負をするなんてワタシでも難しい。それこそなにがなんでも勝つ覚悟でいないと」
常に上を目指す者に対し今できることしか考えない自分が、どうして良い勝負ができようか。
「例えユウスケを店主から蹴落としてでも勝つ……ううん、美味しい料理を作ろうとアナタは考えなかった」
カナンの言うとおりだ。
「その覚悟の違いが、今の結果よ」
自身が世界一の料理人だと、もっとも尊敬する料理人だと口にしている優介に、良い勝負をしようなどと驕った心構えでいた自分は最初から相手にすらなっていないかった。
「…………納得です」
小さく呟く愛にカナンは一息吐く。
この結果は愛だけでなくカナンにも残念な結果でしかない。
恋に言ったように愛が優介から料理を教わることを楽しみにしていた。
愛の料理の才能、そして優介の料理に対する心構え。
この二つが合わさればきっと愛は想像も付かない料理人となるだろう。
だが愛に覚悟がなければ同じこと。
優介を超えようとする覚悟がなければどんな教えも無意味だ。
きっと優介も同じ気持ちでいただろう。
同じ料理人として恐怖でもあり、同時に新たなライバルとなりうる料理人――上條愛の誕生は楽しみでもあったハズ。
まあそのライバルを自分で育てるという複雑な気持ちもあるだろうが、カナンとしては他人事で。
そしてこの事実は言う必要のないこと。
今は何を言っても慰めにしかならない。
ただ思うのは残念な気持ち。
(良いライバルになれると思ったのにね)
このまま愛の才能が潰れることが同じ料理人としてカナンは惜しかった。
その後、治療を終えて戻ってきた優介と恋を加えて四人で夕食を楽しみ、優介と愛の料理勝負は何事もなかったように終わりを迎えた。
◇
優介が恋を送り届けている間に愛は入浴を済ませて部屋へ戻っていた。
考えるのは今日の料理勝負のこと。
正直悔いばかり残る。
もっとこうしておけば良かった。
もっと強い覚悟を持って挑めば良かった。
だが同時に清々しい気持ちになる。さすがは優介、自分の力など及ばない世界一の料理人。
これからも尊敬する人で、目指す料理人で、最高の――
「…………くっ」
そう思えるのに。
そう思っていたのに。
愛の目頭から涙がこぼれてくる。
勝てるわけのない相手、イーブンで奇跡、負けて当然の優介に予想通りの結果なのに、胸がモヤモヤとなり不甲斐なさがこみ上げてきた。
この気持ちこそが自分の成長の証なのに、どうして示すことができなかったのだろう?
どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。
自分は誰が相手でも、例え優介が相手でも――
『愛』
「……え」
様々な考えが巡る中、思わぬ声に愛は我に返った。
「優介さま……ですか?」
『他に誰がいる。少し良いか』
ドア越しに聞こえる優介の声に愛は慌てた。
これまで共に暮らして一年半、一度でも優介が自分の部屋を訪ねたことはない。
「もちろんです。あの……汚いところではありますが……」
だが愛の心に優介を拒むという文字はなく、混乱しつつも受け入れた。
「邪魔するぞ」
「い、いらっしゃいませ」
「そうかしこまるな」
三つ指立てて出迎える愛に苦笑する優介の手には紅茶の缶が二つとノートが数冊。
取りあえずテーブルを挟み愛と向かい合うように胡座をかくと缶を一つ差し出した。
「あの……これは?」
「急に飲みたくなってな、帰りに買ってきた。しかし一人で飲むのも味気ないだろう。少し付き合え」
「はい! あの、御代――」
「付き合わせているのは俺だ」
「…………ありがとうございます」
奢ってもらうのは申し訳ないが同時に嬉しくて愛は素直に受け取り一口飲む。
少し冷めてはいたが優介の心遣いは優しくて温かい。
優介も同じように一口飲む。
「と言っても、口実でしかないがな」
「口実……ですか?」
突然の切り出しに首を傾げてしまう。
「先ほどは恋やカナンのせいでグダグダになっただろう。物事を先延ばしにするのは趣味じゃない」
だが続けられた言葉に愛はハッとなる。
カナンの勝敗で料理勝負は終わった。
しかしこれはあくまで優介と自分の問題。
まだ優介と結果について何も話していない。
それにしても――
「わざわざ口実を作らなくとも優介さまでしたら私はいつでもお相手いたしますのに」
「そうもいかんだろう」
「優介さまらしいです」
面倒気に答える優介に愛はクスクスと微笑む。
いくら大事な話があろうとも夜遅くに女性の部屋を訪れるのは古風な考えを持つ優介の意志に反する。
故にお茶に付き合えだ。
愛としてはいつでもウェルカムなのだがそれはさておき。
「まあいい。さて、先の料理勝負、結果に異論はないな」
「はい。私の完敗です」
優介の問いに愛は表情を引き締め頭を下げた。
正直、悔いは残っている。
もっとこうしておけば良かった、もっと強い覚悟を持って挑めば良かった。
同時に――
「お前の覚悟、しかと見届けた。見事な成長だ」
「え?」
テーブルの下で拳を握りしめていた愛は思わず顔を上げる。
示せなかった覚悟、見せられなかった成長をなぜ優介は褒めてくれるのか分からない。
「勝敗を決した際の表情、そして赤く滲んだ瞳が物語っている」
「あ、その……」
指摘されて愛は目をこする。
どうやら先ほど涙したことに気づいているようだ。
「その涙こそ俺の知りたかった覚悟、お前の成長だ。己の未熟さを悔い、更なる上を目指せば良かったとの向上心。そして――」
紅茶を飲み干し、真っ直ぐ見詰める優介は優しい微笑みで愛の心を見透かした。
「俺に負けたという悔しさ。確かに以前のお前にはなかった心だ」
そう、この気持ちこそが自分の成長の証。
相手は優介、勝てるはずもない。
むしろ負けて当然、改めて尊敬するのみ。
しかし今の愛は違う。尊敬するのは変わらない。
でも自分は誰が相手でも、例え優介が相手でも。
大好きな料理で負けたくなかった。
「だが約束は約束、これからも俺は料理を教えるつもりはない」
「……はい」
だからと言って甘くはない。最初から付けられていた条件、残念ではあるが当然の宣告。
「しかしその覚悟があるならば、ようやく渡すことができる」
落ち込む愛の前に優介は手にしていたノートの四冊の内、三冊を差し出した。
何の変哲もないただの大学ノート、強いてあげるなら妙にくたびれているくらい。
入ってきた時から何かは気になっていたが、いったい自分の覚悟と何の関係があるのか。
「開けてみろ」
「はい」
言われたとおり愛は一番上に乗っていた古びたノートを開く。
「これは……っ」
そして驚愕した。
開いたページにはオムライスのレシピが優介の字で事細かく書かれている。
しかも一般的なレシピ本とは違い、食材を切る角度やその投入順、更には調味料を入れるタイミングが秒刻みで書いていた。
愛は全てを理解する。料理は科学に近く食材の繊維に合わせて切る角度、火加減、調味料を投入する順番やタイミング一つで味が変わるとは優介が師、喜三郎に教わったこと。
そしてその全てを書き留めたノートがあると以前、聞かされていたが現物を見るのは初めてで。
更に他のノートを開けば食材の目利きの方法、調味料に関する細かな記述。
野菜や肉などの線維を見抜くコツなどが大学ノートを埋め尽くすように書かれていた。
「そのノートには俺が生前の師から教えられた料理の理、全てが書かれている」
「……やはり。で、ですがこのような大切な物をなぜ私に」
言うなればこれは料理人、喜三郎の遺品。そして優介だけが手にして良い物。
そんな大切な知という財産をなぜ未熟な自分に渡すのか。
だが優介はなにも答えず残っていたノートを差し出す。
先の三冊とは違い、真新しいノートを促されるまま開けば、やはり全て料理に関する内容。
「これは……」
「フランスに滞在している間に学んだこと、俺の気づいた事柄や感じた見解を纏めておいた。これは料理人としてのお前への土産として受け取れ」
「…………」
平然と教えてくれるが優介の学んだこと、料理における見解が期されているのであればこれもまた貴重な知識という財産。
それを自分に託してくれるのは嬉しい、しかし同時に分からない。
優介は料理を教えないと言った。
なのにどうして今、このタイミングで渡そうとするのか。
「愛、お前は純粋な心の持ち主だ。しかし純粋が故に教えの全てを受け入れてしまう」
ただ戸惑うばかりの愛に優介は淡々と口にする。
「それでは教えに従うだけの道具でしかない。故に俺は今まで渡すことを躊躇っていた」
これまでの自分ならば言葉通りに従い、知識を知識のまま取り入れていただろう。
「だがお前は純粋な心を、純粋なまま成長させた。ならば今のお前はその知識、全てを己の血肉として昇華できるだろう。道具ではなく、上條愛という一人の料理人としてな」
しかし成長を見て取れたことでもう問題ないと、求めていた向上心として得ることができると。
ならば今がまさに最良のタイミングと言えた。ただどうして優介が教えないと言ったことを教えようとするのかが分からない。
「愛、お前はなにを目指す」
優介は突然問いかける。
「これからも今と変わらず、ただ料理を作り続ける日々を望むのか。それとも、俺はもとより我が師、上條喜三郎を超える料理人になるのか」
「私が……お爺さまを?」
「お前はその道を選べるほどの可能性を秘めている」
正直、優介の言葉でも愛は信じられなかった。
自分が優介を、祖父――上條喜三郎を超える料理人になれるという事実が。
「今は答えなくていい。だが少しでも己の可能性を、心を信じるのであれば受け取れ」
何も言えない愛に優介は苦笑する。
「ただし書かれているのは技術のみ。なんせあの頃の俺はどうしようもない愚か者だ、手順や技術さえ分かれば美味い物を作れると考えていたんでな」
自虐的な言葉を口にし、自身の胸を指さした。
「だが残りの教え、心得はここに刻まれている」
「心得……それは料理は心、という言葉の意味でしょうか」
それは愛が最も知りたい料理の知識。
祖父が、優介が、何を心に秘めて料理と向き合っているか。
世界一の料理人、その全てだ。
「知りたければここに書き留めている事、全てを己のモノにしろ。心にしろ……そして」
しかし優介は答えず優しい微笑みで
「その時こそ先ほどの答えを決め、俺から直々に聞き出せ」
愛を挑発した。
微笑みで、言葉で愛はようやく優介の真意を理解した。
求めているのだ。
自分が同じ舞台に立つことを。
料理人として、自分を高める存在として。
互いに切磋琢磨し合い成長する相手として。
同じ頂を目指すライバルになることを望んでいる。
以前の自分ならば無理なことだと、恐れ多いことだと諦めていただろう。
だが今の自分なら。
優介にも負けない料理を愛する心があるなら。
「必ず辿り着いてみせます」
「上等だ」
迷いなく受け取る愛に優介は満足げに微笑んだ。
「待っていてください……いえ、もっともっと先へ行ってください。目指す背中が遠ければ遠いほど、私も走りがいがあるというもの」
「当然だ。さて、長居したな。今日はもう休め」
「はい。優介さまもお早くお休みください。それと、ご馳走様でした」
立ち上がる優介に愛は紅茶のお礼だけを伝えた。
ノートの礼は必要ない。
これは優介の望んだことで、言うなれば我がままだ。
なにより言葉ではなく、今後の精進で礼ができる。
そう思えるようになった自分が少し誇らしかった。
休めと言われたが愛は早速ノートに目を通そうと心に決める。
「ああ……二つほど言い忘れていた」
「はい?」
部屋を出る寸前、優介は振り返り。
「一つはお前より先に師を超えるのは俺だ」
自信に満ちた表情で宣戦布告。
「もう一つはそのノートで同じ技術、レシピを知り、心得を知っても」
そして苦笑し自身の譲れないこだわりを口にした。
「上條喜三郎の弟子は俺だけだ」
以上、と優介は部屋を後にし、愛は自然と微笑んでしまう。
どうやら優介には世界一の料理人の称号よりも、上條喜三郎の弟子という称号の方が大切のようだ。
何とも欲がなく、同時に何とも険しい道を望む。
この世にいる全ての料理人を相手にするより、もう会う事もできない相手を見据えているとは。
だからこそと心に誓う。
もう会えない相手。
もう言葉すら交わせない相手。
しかし愛は生きている。
今もこうして優介の傍にいることができる。
死んだ相手よりも、生きている自分を見て欲しい。
なるほど、まず目標とするのは上條喜三郎、そして鷲沢優介だ。
自分も険しい道を望んでいることに気づき、愛は可笑しくて笑った。
笑って晴れやかな表情で。
「もちろんです。私はお爺さまの弟子ではなく、優介さまの妻ですから」
優介に負けない、譲れないこだわりを口にした。
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