10.ふりだしに戻る?【エリザベス視点】
めまぐるしく起きた出来事がようやくおちつくと、残されていたのは目の前で床に額をこすりつける二人の殿方だった。……ヴィンセント殿下と、ハロルド様だ。
お二人の周りを、ラース様が牙を剥きだしにしてぐるぐるとまわっている。
「記憶のないオレが調子にのりすぎて本当にごめんなさい……!!」
「咄嗟のこととはいえ大変失礼をいたしました」
「ラース様、いけません。お二人とも、謝るにはおよびませんわ。早くお顔をあげてくださいませ」
あわててしゃがみこむと、ヴィンセント殿下の肩に触れ、立つようにうながした。
「そ、それは、もちろん、驚きましたが……こんなふうにしていただく必要はありません」
「エリザベスまじ天使……」
「畏れおおいお言葉です」
よく意味がわからないけれど、おそらく謝罪と感謝の言葉であろうと思いうなずきかえすと、ヴィンセント殿下ははっと口を押さえた。
「すまない、まだ混乱で……」
「大丈夫ですわ」
ヴィンセント殿下のお隣で、ハロルド様も視線を伏せたまま立ちあがる。
「どうやら投げつけられたときにラースの魔力がオレに付着したようだ。その状態で守護対象であるエリザベスとオレがぶつかったから、魔力が封印術に影響した、と……」
解説してくださりながらも、ヴィンセント殿下は真っ赤になってしまう。
どうしたのかしら。
「封印は解けたのでしょうか?」
「いや、それが、まだ頭の中がはっきりしないんだ。エリザベスのことは思いだせたがほかに影響がでている可能性もある」
ハロルド様に尋ねられ、ヴィンセント殿下が表情を戻して答える。
わたくしは「無理に封印を解こうとすれば記憶が混乱してしまう可能性もある」という王妃様のお言葉を思いだした。
「ということは、わたくしの記憶のかわりにべつの記憶が封印された……?」
「妙に頭がすっきりしているんだ」
わたくしのことを忘れて目覚めたときも、同じような状態だったのだとヴィンセント殿下は説明した。
「しかしいったいなんの記憶が……」
言いながら部屋の中に視線をめぐらせ――ヴィンセント殿下の表情がこわばる。
まさか、と小さく呟いた殿下は本棚に歩み寄ると一冊の本をとりだす。全三十七巻からなる膨大な博物誌だ。そのうちの一冊をめくっていく。
ページが進むにつれ、眉間に刻まれた皺が深くなる。
本を戻すと、ヴィンセント殿下はわたくしをふりむいた。
「エリザベス、なにか歴史に関する問題をだしてくれないか?」
「はい、ノグザイムの戦いでシュド軍を打ち破った武将の名は?」
「……思いだせない。聞いたことはあるのだが……」
「古語『テケル』の意味と、それが見いだされる文献は?」
「……次は、数学を」
「ヴァリシュエの法則を述べてくださいませ」
「地理を」
「我が国内で魔石の埋蔵量が多いとされている鉱脈を三つあげてください」
ヴィンセント殿下がため息をついて首をふる。
ご様子から導きだされる推測に、わたくしは顔を青ざめさせた。
「まさか……」
「そのまさかだ。考えたくないが……この分だと、結婚式に招待している来賓の情報も忘れているな」
「……!!」
絶句するわたくしとは対照的に、ヴィンセント殿下はどこまでもおちついた態度で状況を把握しようと努めていらっしゃる。
これまでに培ってきた知識は膨大なものであったはずだ。きっとわたくしが受けてきた以上の教育をヴィンセント殿下は積みあげてきたに違いないのだから。それが封じられてなお冷静さを失わない芯の強さに感服する。
……けれども、そんなことになってしまうなら、わたくしの記憶がないほうがよかったのではないかしら……。
そんなわたくしの気持ちを見透かしたのか、ヴィンセント殿下は困ったような笑顔を浮かべた。
「オレは……いや、ぼくは、よかったと思っているよ。知識はまた学びなおせばいいが、エリザベスとの思い出はそうはいかない。どうして記憶が封じられたか、おぼえているだろう?」
「それは……」
わたくしがヴィンセント殿下の中で《一番大切なもの》であったからだ。
つまり、一番とり戻して手元に置いておきたかった記憶はわたくしとの思い出にほかならないと、そうおっしゃるのだ。
理解して頬を染めるわたくしに、ヴィンセント殿下はうなずいてくださった。
わたくしのよく知る、おだやかで聡明な王太子然とした方。
と思えば、急にその表情が翳る。
「まぁだから……さっきの態度はぼくのエリザベスへの愛があふれたゆえと思ってほしい……もう二度とあんなことはしないから」
うなだれ、小さな声で呟くように語るヴィンセント殿下にこれまでの覇気はなく。
そのお姿も十分に、これまでわたくしに見せてくださっていたお姿とは違うものなのだけれど、ご本人は気づいていらっしゃらないらしい。
そしてわたくしはといえば、いまの自信なさげなヴィンセント殿下も、先ほどのヴィンセント殿下も……やはり同じように愛おしく。
「!」
「あぁすまない、また変なことを言ってしまった。忘れてくれ。プラムを……魔獣をさがそう」
ふとよぎった自分の考えに驚いていると、理由を勘違いしたらしいヴィンセント殿下はそう言ってそそくさと扉へ歩んでいってしまう。
でも本当はそうではなくて。
じわり、と頬が熱をもつ。
何事もつつみ隠さずお話しようと思っていたけれど、これだけは言えそうにない。
常とは違い、多少の意地の悪さを含みながら愛を囁くヴィンセント殿下が……か、かっこよかった、なんて……。
わたくしにとっては同じヴィンセント殿下だった。けれども殿下ご本人が否定されているのであれば、これは移り気ということになってしまうのかしら……。
真っ赤になった頬を押さえていると、ハロルド様と目があった。
相かわらず感情の読めないお顔のまま、けれどもハロルド様は右手をあげると、ぐっと親指を突きたてて見せた。マーガレット様がよくしていらっしゃるサイン。意味はたしか……「ヨシ!」だったわ。
大丈夫ということかしら。
小さく会釈をすると、ハロルド様も頭をさげる。
そのやりとりは、背をむけていたヴィンセント殿下には気づかれなかった。






