9.ふりだしに戻る?(後編)
エリザベスを自室の隣の応接間へと案内すると、来客用のソファに座らせた。
部屋にはいる瞬間、記憶をなくす前のオレが等身大の肖像画でもかざっているのではないかと不安がよぎったがそんなことはなかった。いくら婚約者が地上のものとは思えぬほどかわいらしく美しくても、さすがにそこまで突きぬけてはいなかったようだ。父上よりマシだったんだな、オレは。
エリザベスへの対応方針を素のままでガンガンいこうぜに定めたオレは、彼女の隣に腰をおろした。
ソファの背にもたれるように腕をまわすとエリザベスの華奢な身体を抱き寄せる。ふわふわの髪やドレスからひかえめな、それでいて甘い芳しい香りがただよった。
「でっ、殿下!?」
顔を真っ赤にしたエリザベスが目を丸くしてオレを見た。
なるほど、こういうのは驚かれるのか。ハロルドをふりかえると眉をひそめて微妙な顔をしているが、目を光らせるラースをはがいじめにしてくれているので一応オレの態度を容認するということらしい。
隣の恋人にむきなおり、小首をかしげて薄く笑んでみせる。
「どうした?」
「いえっ、そ、その……こんなに近いと緊張してしまいますわ……」
エリザベスは視線を伏せてもじもじとしている。うわーこれはキスもしてなさそーだなー。どうやらオレが被っていたネコは相当巨大な……身動きのとれなくなるほどデカいのだったんじゃないだろうか。
恋人といいつつ近づくだけでこんなにドギマギしているなら、内実はあってなきようなものだったに違いない。
まぁ自分でやっといてオレもエリザベスの浮世離れしたかわいさにくらくらしてるけど……。
しかしここで引くわけにはいかない。以前のオレが超巨大なネコをかぶっていたならなおさら、記憶のないあいだに既成概念をぶち壊しておく必要がある。
だってそうじゃないとオレたちはこの先いつまでもキスすらできないってことだろ? これは必要なことなんだ。
そんな自己暗示兼言い訳を心の中で唱えつつ、オレは当たり前のような顔をしてやわらかなまなざしをエリザベスにむける。
「オレたちがどんなふうにすごしていたのか。教えてくれないか、エリザベス」
「ふ、二人だけのときは、リザと呼んでくださっていたのです……」
顔をのぞきこんでうながすと、エリザベスはおずおずと語りはじめた。
正直に言えばエリザベスがかわいすぎるのといい匂いがするのと腕に当たるドレスのやさしい衣擦れとを感じながらふるえる鈴の音の声がつむぐ言葉を理解するというのはオレの頭脳をもってしても情報過多だ。明日知恵熱がでそう。
「わたくしは、ヴィンス殿下とお呼びいたしておりました」
あ、いかん。
ヴィンス殿下、などという呼びかけは、記憶のうちにない。つまりはほかの誰にも許していない――エリザベスだけの、特別な愛称。オレがリザと呼ぶのも、きっと。
そのことに思いあたった瞬間、脳がスパークした。
黙りこむオレに、首をかしげるエリザベス。
「ヴィンセント殿下……?」
「すまない、エリザベスがあまりにもかわいすぎて」
「えっ」
「ん? あ、すまな――」
処理落ちした脳からぽろっと本音が漏れた。それを聞いたエリザベスが真っ赤になって固まるのを見てオレはふたたび謝罪をつむぎかけたが――。
ふと気づく。
いや、恋人なんだからいいのでは?
「リザ?」
「は、はい……」
「二人きりではないが、オレのことも呼んでくれないか」
ハロルドの腕の中で、「キャシャーッ!!」と聖竜にあるまじき奇声を発してラースがあらぶっている。ちなみにハロルドはオレたちの背後に立っているため、ハロルドからもラースからもエリザベスのかわいい反応は見えない。どこまでもデキる男である。
エリザベスの頬がますます赤く色づいた。羞恥のあまり眉をさげ、目にはうっすらと涙をためている。かっっっっっわ。
オレの願いだから、叶えてくれようとエリザベスは懸命だ。決心がつかないのか何度か小さく口をぱくぱくとさせていたけれども、やがて消え入りそうな声がつむがれる。
「……ヴィンス殿下……」
「……!!」
ドスッと心臓に矢を立てられたような錯覚。かわいすぎて息ができない、胸が苦しい。
名を呼んでくれたエリザベスのあまりにも可憐で健気な様子に、いじめてごめんなさいと土下座したくなる気持ちと、もっと照れさせたい、オレを意識させたいという気持ちが混ざりあう。なんだこれは、オレは変態だったのか。
完全なる容量超過。
頭の中でエリザベスの声が反響する。目の前のエリザベスが恥ずかしさからたちなおって今度は心配げな視線をむけているのがわかったがオレはまだ動けない。
目を見ひらいたままのオレを、エリザベスがのぞきこむ。オレを案じるあまり抱きしめられている現状は忘れることにしたようだった。エリザベスのほうから顔を近づけてくる。
あ、かわいい、やばい。
「あの……ヴィンス殿下?」
陥・落。
オレはソファから跳ね起きると、エリザベスの前にひざまずいて両手を握った。
「リ、リザ」
「はい」
「結婚しよう」
「は、はい」
「明日」
「明日?」
「君がいればなにもいらない。王太子は返上するからちょっとした爵位でももらって二人きりで暮らすんだ」
金の睫毛に縁どられた目がふたたび真ん丸に見ひらかれる。
おかしなことを言っているのはわかっていたが、言葉が勝手に口を突いてでてくるのだ。エリザベスを一日中ながめて暮らしていたい。それ以外のことはすべてが邪魔だった。恋に狂った男ってこんな感じなのか……と頭の片隅で冷静にドン引きしつつ、オレはエリザベスを熱烈に口説いた。
もちろん清廉な性格のエリザベスが諾と言うわけがない。それもわかっている。
ならば、その口を塞いでしまえと。邪まな企みが脳裏をかすめる。
立ちあがり、エリザベスの顎に指先を添える。
意図に気づいたエリザベスは首元から耳の先まで肌を真っ赤に染めた。うるんだ目はオレを魅了し、まるで引力をもつかのよう。
「いけません、そんな――」
「それはさすがに駄目でしょう」
愁いをおびた表情のエリザベスがわずかに首をふる。
重なるように、ハロルドの声がした。
次の瞬間、額にドスッッという鈍い衝撃。
視界を覆う白い鱗。
「ヴィンセント殿下!」
ラースだ、と気づいたときにはバランスをくずしていた。咄嗟にエリザベスの手を離すも、倒れこむオレを支えようとしたエリザベスはその手を握りなおした。
すべてがゆっくりと動いているようだった。
驚いた顔のエリザベスが、オレとオレの胸の上のラースに覆いかぶさり、落ちてくる。
反射的にラースを投げ飛ばす。棘が刺さったら痛い。
さえぎるもののなくなったエリザベスが、ふたたびオレの腕の中へ。
勢いはとまらず、重なりあう二人――。
一瞬、やわらかな感触が唇をかすめた。
――え?
触れた場所からあたたかなものが流れこんでくる。
これは、魔力か――?
目の前が激しく明滅するような幻覚に襲われる。またたく光の中に、エリザベスとの数々の思い出がよみがえった。はじめて出会った八歳の誕生日――手紙のやりとり――二人で出席した晩餐会――懐中時計の肖像画――王立アカデミアでの日々――告白した日――。
はじめてヴィンス殿下、と呼んでくれた日のことも、お慕いしておりましゅと言ってくれた日のことも。
「記憶が……戻った……!!」
オレは叫んだ。
エリザベスは口元に手をあてて信じられないといった顔をしている。
「ヴィンセント殿下、本当に……?」
「あぁ、たしかに思いだしたよ、エリザベス」
オレはエリザベスに怪我のないことを確かめると、手をとって立ちあがらせた。自分も起きあがり、髪やドレスの乱れを整えてやる。
そして、流れるように土下座した。






