8.ふりだしに戻る?(前編)
オレ、エリザベス、ハロルド、ラースの三人と一匹は父上の寝室をでた。
退室間際に母上が何事かをエリザベスに囁き、エリザベスはうなずいていた。すごいな、首を上下させているだけでかわいい……こんな人間が現実にいるのかと感動してしまう。天使? 天使なのか……。
「とりあえずオレの部屋へ行く。少し話を聞かせてくれ」
「はい」
言えばエリザベスはうなずく。やっぱりかわいい。紫の瞳がじっとオレを見つめた。まっすぐな視線はキラキラと輝いているような気さえする。
おしよせる動悸と息切れの対処方法がわからない。
「……なんだ?」
ついぶっきらぼうな口調で言ってしまったものの、エリザベスは反対に破顔した。
「いえ、なんだか新鮮で」
「新鮮?」
「はい。ヴィンセント殿下は、普段は『ぼく』とおっしゃっていたので」
「!」
そっとふりむいてハロルドを見ると、神妙な顔でうなずかれた。
ネコかぶってたんだな、かわいい婚約者の前で。ぼく……ぼくかぁ。育ちのよい響きに口がかゆくなりそう。
「オレにもそう言えと?」
なんとなくもやもやとした気持ちになって眉を寄せつつ尋ねたオレに、エリザベスは首をふった。
「わたくしはどちらでもかまいません。多少お言葉づかいが変わったとしても、ヴィンセント殿下はヴィンセント殿下です。はじめこそ驚きましたが、こうしていっしょに歩けば、以前と同じお心を感じました」
そう言ってエリザベスは自分の手を指さした。
まったく無意識のうちにだが、オレはエリザベスをエスコートして歩いていた。ちょうど彼女の手がとりやすい位置に腕をさしだし、歩調をあわせて普段よりもゆっくりと進む。
「それに、わたくしの目を見てお話を真剣に聞いてくださるところも変わりません」
それは単にかわいすぎて見惚れていただけだ。たぶん記憶を封じられる前のオレも同じ理由だな。
どう返答すればよいのかわからずに黙りこんでいると、エリザベスはオレの顔を見上げてほほえんだ。
髪を飾るリボンがしゃらりと揺れ、窓からさしこむ陽光が金の巻き毛に跳ねかえって舞い踊る。
心臓がどきんと鳴った。
同時にずきりと痛む。
エリザベスはほほえみかけてくれているというのに、オレは素直に笑顔をかえすことができない。
以前のオレはさぞややさしい男だったのだろうな、と思う。エリザベスがこれほどに信頼を寄せているのだから。
それとも――見た目と地位さえ変わらなければ、中身なんてどうでもいいのか。
「変わりませんと言ったって、実際オレは口調も態度も違うんだろう」
責めるような声がでた。自分のことをまるきり忘れてしまった婚約者にむかって、なにも変わらないと告げる楽観的すぎるエリザベスに。
「オレの記憶が戻らなかったらどうする」
鋭い視線でエリザベスを見据えるも、ほほえみはくずれなかった。
「そのときは、ヴィンセント殿下にまた好きになっていただけるよう、精いっぱい励みます」
わずかに頬を赤らめながら、先ほど恋人だと言ったように、はっきりと、エリザベスはそう宣言した。
まっすぐにオレを見つめかえす視線に嘘偽りも打算もない。記憶のないオレでもそれはわかった。エリザベスは本心から以前のオレを信頼していて、いまのオレとも信頼関係が築けると信じている。
…………。
二人のあいだを、沈黙がよぎる。
オレが思わず睨みつけるような形相になっても、エリザベスは視線を逸らさない。手負いの獅子すら彼女の前には跪くだろう、そんな聖性に似た慈愛が身の内からわきあがっている。
神々しさすらあるオーラに頬をひっぱたかれたような気持ちになり、オレは再度なにを言えばいいのかわからずに黙りこんだ。
わからん……全然わからん。
わきあがるのはただひたすらに困惑。
――記憶を封じられる前のオレ、どうやってこの恋人と付き合ってたんだ???
いやむしろどうやって恋人になったんだ???
一見すると純真な目をした、しかしてその実態はとんだ暴れ馬だぞ……? お伽話にでてくる一角聖馬だ。やつら、純白の毛なみと虹色のたてがみに反して性格は非常に凶暴、輝く翼で陸海空にかかわらず縦横無尽に駆けまわり、額の角で攻撃すると聞く。
なんというか、そんな感じだ。
エリザベスの感情のすべてが美しすぎて、逆にオレにダメージがはいる。
無言で見つめあっていると、突如エリザベスは「あっ」と小さな声を漏らしうつむいてしまう。
こっちもこっちでなんだと硬直してまっていると、やがて聞こえるか聞こえないかの声で、エリザベスは呟いた。
「でも、先ほどはオレと結婚しろ、と……つまりその、もしかして、で、殿下はすでに、わたくしを……」
「……!!」
「い、いえ、なんでもございません。きっとわたくしの勘違いですわ」
距離感ぶっ壊れてるだろこのカップル。もうだめだ、意味がわからない。なんだこのかわいいがすぎる天使は。
視線を伏せ、恥ずかしそうに可憐な唇をふるわせながら……エリザベスは胸の前できゅっと手を握った。その仕草の一つ一つがあまりにもかわいすぎてオレは理解した。
この子、すっげえ天然だ。
そして底抜けに純粋で、無垢なのだ。
ヴィンセント、お前いったいどんな徳を積んでこの子と恋人になったんだよ……。
そっと背後に視線をむければ、ハロルドは視線を逸らし、ラースは口から魔石を吐いていた。
「君、天然ってよく言われないか?」
「え? いえ……言われたことはございません」
「そうか……どうやらオレは、君の前で相当なネコをかぶっていたようだな」
ぐしゃぐしゃと髪をかき乱すとエリザベスが目を丸くする。
なんかもう色々と考えすぎるのはやめた。
オレはエリザベスに惚れた。エリザベスも憎からず想ってくれている。記憶をとり戻そうがこのままだろうがいまのところ障害はない。
なら好きなようにするだけだ。
「君がそんなに無防備なら、こちらもとりつくろうのはやめる」
エリザベスはきょとんとした顔になったが、すぐに「はい」とうなずいた。
いやだからそこでうなずいたら駄目なんだってば。






