5.一番大切なもの(前編)【エリザベス視点】
駆けつけた王宮は、一見いつもどおりの空気が流れているように感じられた。緊迫した様子もなければ、迎えの人々は皆にこやかに挨拶をくださる。
わたくしはお父様と顔を見あわせた。
つまり、まだおおやけには明かせないほどの、よほどの事件が起きたということだ。
ふるえる手をぎゅっと握りしめ、わたくしは小さく呼吸を整えた。
状況を確認しないうちから不安を膨らませてはいけない。ヴィンセント殿下ならこのようなときにもおちついて行動されるはず。
訪れを告げると通されたのは王宮のもっとも奥の間、国王陛下の寝室だった。
とはいえわたくしが寝起きしているような部屋ではなく、ベッドのわきには来客用のテーブルとチェアがそろえられている。しかしそこには誰も腰かけず、王妃様とヴィンセント殿下は直立のままわたくしたちをまっていた。
何度か王宮へは参上しているが、国王陛下の寝室にはいるのははじめて。それだけ内密なお話であるということ。
ベッドから近い壁に王妃様の肖像画がかかっている。きりりとしたお顔立ちは本物の王妃様そっくりのまま、口元にはやわらかな笑みが浮かんでいる。
お父様が思わず凝視してしまったけれども、そばにたたずむ王妃様はまったく動じていらっしゃらないみたい。
ご本人が気にしないのなら、こういうのもありなのね……。
ではなくて。
ヴィンセント殿下は驚いたようなお顔でわたくしを見つめていらっしゃる。なんでしょう?
そっと袖をひっぱると、お父様はハッとした顔になって腰を折った。
「おおせをいただき、参上いたしました。……いったい、なにが……?」
わたくしはそっとベッドに視線をむけた。
そこには陛下が、青ざめた顔をして横たわっていらっしゃった。
「挨拶は抜きにしましょう。陛下、起きてくださいませ」
王妃様はそう言って国王陛下の鼻をつまむ。目を閉じたままの陛下のお顔が険しくなる。
「う……ふがっ」
「あ、あの、大丈夫なのでしょうか」
「問題ありません。いま臥せっているのは魔力不足のせいなのです。わたくしの魔力を分け与えますからしばらくすれば目覚めます」
「それは申し訳ありません、ですぎた真似を……」
「いえ、普通の感性ですわ」
お二人にはお二人の、夫婦としての関係があるでしょうに……と恐縮するわたくしに、王妃様はやさしくうなずいてくださった。
鼻をつまんでいた王妃様の指先が青白く光る。と思えばすぐにお言葉どおり、陛下が目をひらく。
しかし、陛下のお言葉を聞く前に、前に進みでたのはヴィンセント殿下だった。
殿下の顔に浮かぶのは笑み。
けれどもそれはどこかいつもと違う……自信に満ちた鋭い視線と、口角だけをあげる笑い方。
普段の殿下がやさしく包容力のあるお方であるのに対し、いまの殿下はどちらかといえば優雅さの奥に獰猛さすら感じさせる。
手袋をした手がわたくしの手をとった。まるで初対面の相手にするように、殿下はうやうやしく腰をかがめて手の甲に口づけた。
上目づかいに見上げられてどきりとする……一方で、わたくしの心は混乱していた。
その混乱に拍車をかけるように告げられる言葉。
「まるで天使が舞い降りたのかと思いましたよ。こんなに美しい御令嬢を隠していたとは、ラ・モンリーヴル公爵殿もお人が悪い」
「ヴィ、ヴィンセント殿下……?」
たすけを求めて視線をめぐらせれば、殿下の背後に控えるハロルド様がぐっと口元をひき結ぶのが見えた。沈痛にも見える表情で肩をふるわせていらっしゃる。
これは、いったい――。
呆然とするわたくしにむかって、ヴィンセント殿下は甘く艶やかな笑みを浮かべた。
「オレと結婚していただけませんか、……もしよろしければ、お名前を、レディ」






