29.邪竜VS聖女(前編)
兄上様以外には手をまわしてある、とレオハルトは胸をはっていた。
レオハルトの書いた手紙は『マリウス兄様のため、帰省の折には凄腕の催眠術師を連れていきます。花月・十五の日、城の護衛には話を通しておいてください。兄上様には御内密に』という冗談みたいな内容だったが……。
まぁどこの王族も隠語くらいは持っているものだ。『凄腕の催眠術師』が何の隠語かはわからないが、きちんと伝わったからこそ王城にもあっさりと入れたし、国王夫妻とマリウス殿が折よく広間にいたわけだ。
三人はレオハルトとリーシャ嬢を見てから、オレたちの前にいるエリザベスに視線を移した。
ハッと息をのむ音。
「あなたは……!?」
「あなたがレオハルトの呼んだ催眠術師とでもいうのですか……!?」
……隠語じゃなかったのか。なんというか……実直なご両親なのだな。
驚く国王夫妻を前に、オレはなんとか毅然とした表情を保った。目深にローブをかぶっているため見えづらいはずではあるが、ここで気を抜いてはいけない。
ちらりと盗み見るとエリザベスも背筋をのばして目を見開いている……紫色の瞳がよく見えるように。
「しかし、その姿はまるで……」
マリウス殿が呆然と呟いた。
アクトーの部下を経由して送りつけた『乙星』はきちんと彼の心をとらえたようだ。エリザベスに釘付けになった目はそのうしろに並ぶオレとハロルドまで及ばない。しばらく会っていなかったことに加え、オレが従者のみなりをしているからというのもあろうが。
エリザベスは――ほほえんだ。
本当ならそこはニヤリと笑うはずなのだが、その顔に浮かんだのは天使の笑顔であった。これはもう何度練習してもだめだったのだ。天使の表情筋は悪女の笑みは形づくれないようになっているということをオレはエリザベスとの稽古で知った。
案の定、マリウス殿たちは毒気を抜かれた顔になる。
うん、この笑顔を向けられたら、悪意があるなんて思えないよな。だって天使だもん。
しかしエリザベスは――《悪役令嬢》なのだ。
「わたくしは、レオハルト様と婚約し、この王国をのっとることにいたしました!!」
「!?!?」
「そうです、ぼくはエリザベス様にこの王国を捧げる……兄上様には渡しません。邪魔者はすべて消す」
「レオハルト様!? エリザベス様も……!! いったいどうなされたのですか!?」
エリザベスとは対照的に、俯きがちに不敵な笑みを浮かべるレオハルト。暗黒微笑効果の陰影で不気味さは増している。
驚いたリーシャ嬢が必死に呼びかけるも、二人は答えない。
「ふふふ、無駄です。レオハルト様の御心はすでにわたくしのもの」
ぐぐ……っ!! わかっていてもエリザベスの口からこんな台詞が出ると精神にクる。
隣のハロルドがそっと手に持ったバスケットをオレに押しつけてきた。支えにしろというのだろう。ありがたく寄りかからせてもらうと、藤で編まれた籠はギシリと音を立てた。
目の前では、オレと同様に国王夫妻が頭を抱えている。
エリザベスの笑顔と台詞のちぐはぐさにレオハルトの暗黒微笑まで浴びて、こちらも精神的に参っているらしい。理解の範疇を超えた出来事が連続して起こると、人の精神は摩耗する。
「そんな、エリザベス様がこんなことをなさるはずがありません!! 何か、何か事情が……!!」
リーシャ嬢は懸命に語りかける。ともにすごした日々を思えば当然だ。しかしエリザベスは反応しない。
マリウス殿は呆然とエリザベスを――おそらくはエリザベスの金の巻毛と紫色の瞳を見つめていたが、その唇から小さな呟きがすべり落ちた。
「アクトーの言ったことは本当だったのか……?」
いまだ、とオレはバスケットの蓋をパタパタいわせて合図をした。
エリザベスがリーシャ嬢を押しのける。マリウス殿へ向かって。
よろけたリーシャ嬢を支えようとしてマリウス殿はいっしょになって倒れこんだ。もはや立ちあがる気力すらもなく、尻もちをついたままエリザベスを見上げる。
「えぇそうですわ、この国はわたくしがいただきますわ!!」
冷静に考えさせてはいけない。弟の婚約者が悪役令嬢って、よく考えたら『乙星』のシナリオと全然違うぞ? とか思わせてはいけないのだ。
インパクトのあるシーンを、問答無用に叩きつける。
「いいえ、何かの間違いで――」
「我が呼びかけに応じ、いでよ、《燃え盛る鉄竜》!! 汝の力を解放せん!!」
『乙星』の第二巻、復讐を誓う公爵令嬢が叫んだのとまったく同じ台詞が広間に響く。
オレはハロルドが持っていたバスケットの蓋を開けた。
中に隠れていたラースが修羅場と化した広間に飛びこんでいく。
魔石にたくわえていた魔力を吸収し、体躯を倍加させながら。
今度こそ、リーシャ嬢の言葉は途切れた。
「ギュアアァアアァァアァ……!!」
天井にまで届くほどの巨大な黒竜。その鱗の一つ一つは刃のように鋭く尖り、触れた者を傷つけんとする。口から瘴気を吐き、やがて邪竜は獲物を見つけたとでもいうように双眸を真紅に光らせた。
さすがに騒ぎを聞きつけた近衛兵たちが飛びこんでくるものの、彼らは皆ラースの剣幕に圧されて一瞬の怯みを見せる。そこを狙ってオレが金縛りの魔法をかける。傍目には邪竜の威圧で動けなくなったように見えるだろう。
何が起きたのかもわからないまま目の前で荒れ狂う邪竜を見せつけられる兵士たちは恐慌状態だ。すまん。
「ヴォオォオオ……!!」
恐怖の視線を集めながら、黒い身体が灼けた鉄のごとく赤く染まってゆく。
邪竜の視線がマリウスをとらえた。
「ラ……《燃え盛る鉄竜》!! やっておしまいっ!!」
エリザベスが叫んだ、その瞬間。
「光よ、聖なる壁となれッ!!」
リーシャ嬢の凛とした声とともに、広間を聖なる光が包みこんだ。






