25.渦中の王子【マリウス視点】
あの大ヒット小説『聖なる乙女は夜空に星を降らせる』の第二巻が隣国で発売されたそうだ。
それが速報として王宮まで伝わってくるのだからすごい人気だとマリウスは感嘆する。作者は不明だが、これだけ人の心をつかむ物語が書けるのなら食べていくにも困るまい。
自分にもそういった才能があれば……と考えそうになって首をふる。
リーシャは自分に王位を継ぐことを望んでいるのだと、レオハルトが言っていた。そして自分の隣に立つためにいま隣国で厳しい修行にも耐えているのだと、レオハルトからの手紙にはリーシャの勇気と進歩を褒める言葉があふれていた。マリウスもまた彼女の期待に応えられる王となるために粉骨砕身の努力を必要とする。
わかってはいる――のだが。
十八年という人生を、積み重ねてつくりあげてしまった隔たりは大きい。弟であるレオハルトが持ち前のかわいらしさと明晰な頭脳で皆から慕われるあいだ、マリウスは人目におびえて暮らしてきた。
変われ、と言われて変われるのなら、とうに変わっているのだ。
レオハルトとリーシャの純粋な期待がマリウスを苦しめた。
自分が変われなければリーシャを想う気持ちまで嘘になってしまいそうで。
***
アクトー侯爵から『聖なる乙女は夜空に星を降らせる』の続編を手渡されたのは、そんなときだった。
政務を行うための部屋に現れた男は、椅子に腰かけたマリウスより頭が高くならぬよう注意を払いながら『乙星』を押しつけるように手に握らせた。
(……??)
素直な反応としては困惑ただそれだけだったが、さすがに表に出してはいけないだろうと平静を装う。正直にいって意味がわからない。
しかしアクトーは真剣な表情で、
「これは我が部下が隣国よりひそかに送ってよこしたものです」
と声をひそめて告げる。あまりにも人目をはばかるのでマリウスは身を屈めて耳を近づけなくてはならなかった。
芝居がかった仕草でアクトーが言うには、留学中のレオハルトに現在とんでもないことが起きているらしい。
レオハルトは、隣国でとある令嬢に一目惚れをした。妃になってほしい、国へ戻るとき一緒に来てほしいと大騒ぎだったそうだ。
その件についてはレオハルトからの手紙にも書いてあったので驚かない。ぼくは運命の相手を見つけました、と情熱的に書かれていて、弟の意外な一面をほほえましく思ったものだ。
しかしアクトーの部下の報告では、その相手はエリザベス・ラ・モンリーヴル公爵令嬢――『乙星』第一巻での《悪役令嬢》なのだという。
「いや、小説の中の話だろう? 話題をつくるために権力者をあげつらう、よくある手ではないか」
「それがそうとも言いきれませぬ。第二巻で《悪役令嬢》は自分を追放した国を逆恨みし、邪竜を召喚するのです。……なんと、それがしの部下は、公爵令嬢が邪竜とともにあるのを見たのだそうです! こちら――ここに、動かぬ証拠が」
そう言ってアクトーがさしだしたのは黒曜石と見間違えるほどの硬く深みのある物体。まるで磨きあげられた鏡のように表面は輝き、実際にのぞきこめばマリウスを映す。
「これは……鱗か?」
微弱ながらも魔力をおびる黒鱗を見てさすがにマリウスも絶句した。
魔石をよほど精巧に加工したものか、さもなくばアクトーの言うとおりドラゴンの鱗であろう。それが邪悪なものかどうかはまだわからないにしろ。
「『乙星』の作者は王家の裏側に気づいたのでしょう。真実を訴えようと筆を執っているに違いありませぬ」
マリウスの無言に意を得たのかアクトーはヒートアップし、かの国の者に聞かれれば戦になりかねない讒言まがいの主張をまくしたてる。
まるで彼のほうが邪竜に憑りつかれたかのようだ。
「部下だけではありません。ワイスワーズ王家に仕えるアバカロフ家……彼らも何やら我が国へ移りたい様子。それがしに助けを求めてきたのです。内部は崩壊寸前と思われます」
「ふむ……」
完全には同意できないが、少なくとも隣国で何かが起きていることは確かだ。そしてレオハルトがその渦中にいる。……おそらくは、リーシャも。
思わずひそめた眉を好きなように解釈したらしい、アクトーは同情を含んだまなざしで大きくうなずいた。
「レオハルト様は邪竜に魅入られてしまったのでしょう。……マリウス殿下のお命を狙うやもしれません」
「レオハルトが? まさか。無礼はよせ。いまのは聞かなかったことにしておく」
ため息をついて首をふった。あの純真な弟がそんなことをするわけがない。……その信頼の後半は正しいが前半は仮初の姿であることを彼は知らない。
「アクトー侯爵。あなたは少し弟を色眼鏡で見ているのではないだろうか?」
私のこともだが、と心の中で呟く。
アクトーは保守主義者だ。
レオハルトを王太子に、という意見が囁かれたとき、それを潰してまわったのはほかならぬ彼だ。だからといってマリウスの味方であるわけではない。
彼が重視するのは長男が王家を継ぐことであり――それによって優秀な弟を追いやって当主を継いだ自分を正当化するためでもある。
アクトーはひざまずいてマリウスを見上げた。やはり芝居がかった仕草だと思う。
重たげな瞼からのぞく視線はマリウスへ一直線に駆けてくるようでいて、その実その目にマリウスを映してはいない。彼の目に映るのはただ王太子という肩書を持つだけの男だ。
「それがしは、王太子殿下に忠誠を誓っているのです」
「……ありがとう」
そうとしか言えない己の勇気のなさに内心で唇を噛む。
深々と礼をして去っていくアクトーを見送り、マリウスはようやく手の中の小説を執務机に置いた。安い紙を使った本は手のひらに浮いた汗を吸って歪んでしまった。
表紙には流れる黒髪を風になびかせた少女がほほえんでいる。
どこかリーシャに似ている気がした――いまや彼のもとを遠く離れてしまった気がするリーシャに。
人は、変われるのだろうか。