23.修行の成果
「水よ、満ちよ」
エリザベスはまっすぐに水差しを見据え、ふちに指先を添えると、凛とした声で告げた。
途端、触れているガラス面からつるつると水が湧きだした。それはやがて小さな水流となり水差しの中に渦を巻く。徐々に水位を増し、ついには水差しの縁からあふれるほどにまで。
これまでは器に半分ほどの水をあらかじめ入れておいてからそれを文字どおり『呼び水』として使っていた。けれども今回は何もないところから水を得ることに成功した。
「目覚ましい進歩だ、エリザベス」
「ヴィンセント殿下のお力添えがあるからですわ」
オレを見上げたエリザベスがにこりと笑う。
お世辞ではなく本当にオレのおかげだ。なにせエリザベスは集中力を保つためにオレを頭の中に思いえがいているのだから。
「当然といえば当然なのですけれど、この訓練のおかげで殿下のお顔を見ても極端に照れることはなくなったのです」
わかる。オレも昔そうだった。
とは言えず、オレは余裕のほほえみを浮かべてうなずいた。
「それはよかった。君の役に立てるなら、これほど嬉しいことはない」
「えぇ、わたくしもリーシャ様に負けていられませんから」
エリザベスは隣に目をやった。つられてそちらに視線を移せば、やや離れた場所にラファエルとリーシャ嬢が対峙している。
ちなみにここは屋外である。王宮の棟と棟のあいだに作られた内庭だ。そよぐ風とやわらかな日光を浴びながらエリザベスとリーシャ嬢は魔法の修行をしている。
そんなさわやかな空気を丸っと無視して、ラファエルはにたりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「フフフフ……見せてもらおうか、君の力を」
「負けませんっ!! 光よ、聖なる壁となれッ!!」
「水よ、氾濫せよ――」
叫びとともにリーシャ嬢が両手を前に突きだす。手のひらから凝縮された魔力がほとばしり半透明の壁をつくった。制御が難しいらしく厚く光り輝いたかと思えばほとんど透明になってしまったりもするが、とにかくそれは『壁』だった。
ラファエルが魔法で生みだした水流を弾いている。
『壁』の原理は母上がラースをつかんでいたのと同じだ。大量の魔力を凝縮することで対魔耐性のある物理的な層をつくる、それだけ。しかし水や火といった媒介を用いることなく魔力を魔力そのものとして固定化するのはとんでもなく難しい。
聖属性の魔法使いが少ない所以である。
リーシャ嬢、本当に魔法の素質があったんだな……。
「きゃあああっ!!」
集中が途切れたのか、魔力が底をついたのか。展開していた壁が消えた。当然ラファエルの繰りだす水流は無防備なリーシャ嬢に襲いかかる。
ラファエルは水滴の飛んだモノクルを拭き、かけなおしながら濡れネズミとなったリーシャ嬢を眺めた。
「そんなものかい? 君の力は」
「くうぅ……っ! も、もう一度お願いしますっ!!」
己を鼓舞するように拳を握りしめるリーシャ嬢。漆黒の目は深みを増して光り輝いていた。
見事にラファエルの演技にのせられてるな。……いや、演技かあれ? うん、まぁ演技だろう。そういうことにしておこう。
「君の魔力だけではボクには勝てない。……どうすればいいか、教えたはずだよ?」
「……!!」
リーシャ嬢は目を閉じると胸の前で手を組んだ。
大量の魔力を利用するためにはいくつかの方法がある。あらかじめ時間をかけて己の内に魔力を蓄えておく方法、魔石などから供給する方法、そして最後が、他者や自然からもらう方法である。
あのときのように、リーシャ嬢の周囲が輝きはじめる。黒髪は光の反射を受けて様々に色を変えた。まるで七色の虹。
シンプルなドレスも宝石を散りばめたごとく光のかけらをまとっている。
片手をかざし、リーシャ嬢は澄んだ声で告げた。
「光よ、聖なる壁となれ」
詠唱とともに完璧な長方形の光の壁が出現した。
ラファエルの放つ水流も難なく防ぎ、それどころか吸収さえしているようだ。水はあたりへ飛び散るのではなく壁にぶつかって消えてしまう。
なるほど、これが【聖なる壁】が完璧に出現したときの効果なのか。はじめて見た。
属性を付与された魔力を分解してただの魔力に戻し、吸収する。実質無敵の魔法防御であるが、初期投資がでかいのと魔法にしか効かないので実戦ではほとんど使われない。
ラファエルの笑みが深くなる。
「ではこれではどうかな、――水よ、氾濫せよ」
先ほどからラファエルが放っているのはエリザベスが使った魔法の上位版だ。違いは単に水量だけ。とはいえ、魔力と技術の違いは明確な差となって表れる。
内庭全体を水浸しにできてしまうほどの奔流がリーシャ嬢を襲った。
「……っ!!」
今度はリーシャ嬢は悲鳴をあげなかった。ラファエルと繰りだされる水流を見つめ、【聖なる壁】を維持しつづけた。
そして。
ざっぱーん。
最後の最後まで形を保ってから、壁はかき消えるように失われた。見事に押し流されて尻もちをついたリーシャ嬢にラファエルがほほえむ。
「今日はここまでにしましょう」
合格点、ということらしい。スパルタというよりも生来のドSであるラファエルが満足する結果を出すことはなかなか難しい。
リーシャ嬢が安堵の息をつく。オレを含め、ここにいる誰もが正式な《魔法使い》の資格を持つラファエルとの実力差を感じていた。
……と、素直に感心している場合ではない。嫌な予感にエリザベスを見れば、エリザベスは頬を紅潮させてラファエルを見つめている。紫の瞳がキラキラとあどけなく輝く。
「お見事ですわ、ラファエル様。わたくしももっと特訓せねばなりません」
「はい、エリザベス様も着実に上達しておられます。修行を積めばいまの規模の魔力を扱うことも可能です」
こいつ、リーシャ嬢と同時にエリザベスのモチベーションまであげてきたぞ。同時に好感度もあがる演出がいやらしいな。さすがは稀代の魔法使いにして稀代の女好きと呼ばれた男。
エリザベスはリーシャ嬢を助け起こし、侍女とともに屋内へと入っていった。着替えをするのだ。
残されたオレとラファエルは顔を見合わせる。
くすりと笑われて思わず眉を寄せた。
「婚約者様は順調かい?」
「もちろんだ」
なみなみと水をたたえ周囲のテーブルクロスを濡らす水差しを指させば、ラファエルもうなずいた。
徐々にではあるがエリザベスの魔法素養は磨かれている。普通の人間ならひと月ほどかかる修行を一週間に短縮しているのだから、その努力は並大抵ではない。エリザベスだからこそできることだ。
リーシャ嬢の『開花』を間近で見てしまったエリザベスはわかっていないかもしれないが、あれはあれで荒療治であってリーシャ嬢の豊富な魔力量と素養開花の見込みがあったからこそやったことである。
本当は、エリザベスのためならオレも三階から落ちてもいい。しかしラースを無理なく成長させるためには地道な研鑽がよいだろうということでこのようなやり方になっている。
ラースは一回り大きくなった以降は大きさの変化はないが、かわりに鱗は厚く尖り、見た目のトゲトゲしさは増した。威嚇の際には鱗の先まで赤く光るようになり、それがエリザベスの魔力を吸った結果だと思えば剥いでやりたくなるほどだ。本人(竜?)もたまに舌を出しながら目と鱗を点滅させてくるし。腹立つ。
それとなくエリザベスに探りを入れたところでは、ラースとのふれあいは控えているそうだ。
くれぐれも中身が同じ年頃の男であることを覚えていてもらわねばならん。男なぞみんな狼だ。……とは言えないので、「危険な邪竜であることを忘れないように」と訓示しておいた。