30.マリッジレッド
王太子に加えその側近候補たちの婚約・婚礼が次々と発表されたことで、貴族社会はにわかに熱狂の気配をおびてきた。年ごろの子息令嬢たちがこぞって婚約を結ぶ。すでに婚約状態であった者たちは挙式の日どりを決めていった。
婚姻誓約書をいただきたいという申請が急増し、事務官は仕事に追われているらしい。
「みんな愛に狂っているのぉ」
父上が楽しそうに笑っていたが、本人も二十年来の愛に狂っているので「若いな~」みたいな他人事な言い方はどうかと思う。威嚇する相手もいなくなったというのに今日も母上とペアルックだし。
さて、そんななかで、オレとエリザベスはというと。
前進はしているものの、いまだ決定打には至らず、という状況であった。
なにがといえば、『誓いのキス』の予行練習である。
誰もいない、かつ誰からものぞかれることのない、二人きりの小部屋で、オレとエリザベスはむかいあって立っていた。
エリザベスはやや緊張した空気をまといつつも、それを気づかせぬよう精いっぱいふるまってくれる。しかし、のびた背筋は普段どおりでも、胸の前で組まれた手がいつもよりほんの少し内側に寄せられていたり、まっすぐに見つめる視線がほんの少し揺らいだり、なによりそういったことにエリザベス本人が気づいていないという事実が、なによりも雄弁にはりつめた気持ちを物語っていた。
そういうオレも平静な態度をとっているつもりでエリザベスから見ると緊張しているのだろうが。
じっとオレをまつエリザベスに一歩近づく。
エリザベスが手をさしのべる。その手をとって、視線をあわせる。エリザベスが頬を染めてやさしい笑顔を浮かべた。
ああああ天使だ天使がいる。いまですら天使なのに式の当日は純白のドレスで髪型もメイクも変わるのだそうだ。つまり、いまスムーズに式での流れをこなせるようになっておかねば、当日はあまりの美しさに放心する可能性が高いということだ。
エリザベスの顔にかけられたベールをあげる、ふりをする。
それが合図となって金の睫毛にふちどられたまぶたがゆっくりと重なり、エリザベスが心もち顎をあげてオレに顔をむける。
エリザベスをつつみこむように腕に手をそえ――あ、かわいい。
突如、オレの脳内をエリザベスとの思い出が駆けぬけていった。
はじめて会い、心奪われた八歳の誕生日パーティ。エリザベスとの距離を実感してしまって枕を濡らした夜。エリザベスの愛らしさに必死に己へ叩きこんだマナーが雲散霧消し、なにも活かすことのできなかった二度目の対面。エリザベスの肖像をながめながら必死に学問にはげんだ昼夜、手紙のやりとり、アカデミア入学――。
記憶を封じられてわかった。互いに多忙で会えなかった日々も、心はそばにあったのだと。エリザベスがいたからこそオレは外面だけでも完璧と呼ばれるほどの男になれたのだ。
そうやって恋い焦がれつづけてきたエリザベスがついにオレの伴侶になる。そしてエリザベスもそのことを望んでくれているという奇跡。奇跡としか言いようがない。
生まれてきてくれてありがとう……という感謝の気持ちがあふれてきて、視界がにじむ。
「ヴィンス殿下……? ど、どうされたのですか!?」
感動で涙ぐんでいたらエリザベスが薄目をあけた。すぐに目は驚きに見ひらかれ、エリザベスが心配そうに見上げてくる。
「あ……びっくりさせてすまない。その……エリザベスと結婚できるんだと思ったら、嬉しくなってしまって……」
言いながら、なにを言っているんだとうつむいてしまう。顔が赤くなるのがわかった。恥ずかしさが伝染したらしいエリザベスもまたうつむいている。表情は見えないけれども、金髪からのぞく耳は赤い。
誓いのキスができなくてもじもじしているオレたち、はたから見たらバカップルなんだろうな……誰もいないけど。
「ヴィンス殿下は、そんなふうに思ってくださっているのですね……」
「いままでが格好つけていただけで、こういう性格だったようだ、本当は」
自分でもエリザベスの前で素をだそうと考えたことなどなかったから、わかっていなかったが。
ハロルドにも言われた、オレの本性は『腹黒』ではなく『へたれ』だと。あれはこういう意味だったのだ。さすがは乳兄弟、よくわかってる。
「わたくしも、同じ気持ちですわ。ヴィンス殿下と夫婦になれる日をまちどおしく思います」
「リザ……」
「けれど、これでは練習になりませんから……殿下、お目をとじていただけますか?」
申し訳なさそうに眉をさげると、エリザベスは言った。
ウッ、そうだよな……ごめんなさい。もっともすぎる指摘にオレは目をつむる。
エリザベスはなにをするつもりなのだろうか。気合を入れるための平手打ち? 怖い……よりも期待が勝つ。
「はしたないとは思わないでくださいませね……」
けれども、オレの内心とは裏腹に、囁くようなエリザベスの声がそばで聞こえた。ドレスの衣擦れの音。
躊躇をあらわす数秒の沈黙――そして、唇にやわらかな感触。
……え?
驚いて目をひらいたときには、すでにエリザベスは顔を伏せていて、オレに見えたのはさっきよりも赤くなった耳の先だけ。
「いまの……」
「……ヴィンス殿下のお心が安らぎますように、おまじないです」
それ以上の言葉は出てこなかった。
***
エリザベスは日に日に美しくなっていく。もはや目を細めなければ視線がむけられないほどに。
式次第の確認から来賓たちの宿泊場所の確保、遠方の客人には我が国の観光スケジュールなども手配し、もちろんそれぞれの土地柄にあわせた食事や土産にも気を使わねばならない。陣頭指揮を執る母上を筆頭に、オレもエリザベスも目がまわるような忙しさだった。
唇にやわらかなものの触れたあの日以降、オレたちが二人きりになるチャンスはなく、今度ばかりはハロルドがひかえていたわけでもないので状況を尋ねることもできず、真相はエリザベスのみぞ知ることになった。
いやしかしこれはエリザベスからの激励だ。
あのときの感触とエリザベスの肖像を組みあわせることでよりリアルなイメトレができるという……。とりあえずは誓いのキスを素振り千回。足りなければ万回だ。
そうこうしているうちに月日はあっというまに流れ、婚礼の日がきた。