ハーフオーガのアリシア74 ― 商工会Ⅰ ―
魔獣討伐演習のときにアリシアたちが所属していたローテリゼ大隊の慰労会があった、その二日後。
起きて身支度を整えると、皆で朝食の準備に入る。
まずは、屋敷の裏庭で採れた南瓜と玉葱を煮てスープを作る。
それから演習のときに狩って、アリシアが精肉した魔獣の肉を、お嬢様の荷物袋の異能の中から出していただいて、それを薄切りにして焼く。
肉を切るのはアリシアの仕事で、焼くのは黒森族のコージャさんがやってくれた。
それからこれもお嬢様の荷物袋の異能から出していただいた葉物野菜でサラダをつくる。
そこで、サラダの上に散らしたいから、蜜柑を取ってきてくださる? とアイシャさんに言われて、背の高いアリシアが、庭の木になっていた蜜柑をいくつも取ってきた。
それを指先を黄色くしながら皆で薄皮まで剥いて盛り付ける。
それから従僕のトニオ君が朝早くから起きてパン焼き窯で焼いてくれていた、できたてのパン。
あとはお嬢様の希望で、そこらじゅうのパン屋で買い集めた菓子パンを大皿に盛って、それに珈琲を淹れて、これも買ってきたバターを添えたところで準備が整う。
なんとも朝から本格的な食事で、食べるのが好きなアリシアとしては嬉しい。
まあ朝から本格的すぎて、準備に時間は取られるけれども……
◆
それから皆で朝ご飯を食べて、食べ終わったくらいの頃合いで、トラーチェさんが立ち上がって、今日の予定を確認する時間になる。
それで、今日は午後から、お茶会があるので、お昼ご飯の量は控えめにとのことだった。
「パリシオルム商工会からの招待ですから、十四時過ぎまでには商工会議所へと出向く予定となっております」
手帳を見ながらトラーチェさんが、皆の前で周知をしてくれたのだけれど、お嬢様はそれを聞くと渋い顔をした。
「どうしたの?」
お嬢様を抱っこしている豚鬼族のアイシャさんが、お嬢様の顔を覗きこみながら聞く。
するとお嬢様は、アイシャさんの胸に顔を埋めて
「あんまりいきたくないよう……」とつぶやいた。
なんと言えばいいのか分からなくて、アリシアは言葉が出てこなかった。
それは皆も同じらしくて、居間に沈黙が広がる。
けれども
「じゃあ、やめとく?」とアイシャさんが言ってくれたので、アリシアは安心した。
お嬢様はアイシャさんの胸にグリグリと顔を擦りつけるようにしてから、パッと顔を上げて
「それはだめ」とおっしゃる。
「別に行きたくないなら無理に行かなくても……」
アリシアがそう口を挟むと、お嬢様は
「わたしがわがままをいったらだいたいなんでもとおるから、わがままはいっちゃだめっておかあさまがいってたわ」
と、アリシアのほうを向いておっしゃった。
「ご立派なお心がけではございますが、そこまでご立派になさらずともようございますぞ」
新しくお嬢様の寄子になった、お爺さんのクリーガさんも、手に持っていた珈琲の入ったカップをテーブルに置いてそう言ってくれる。
「だめよ。ちょっとぐちをいってみただけ」
お嬢様はそう言ってかぶりを振った。
「今日のお茶会は何かあるんですか?」
黒森族のコージャさんが、怪訝そうな顔で聞く。
確かにただのお茶会で、しかも相手とは初対面だと思うのに、そんなに嫌だというのがよく分からない。
すると、お嬢様は思案顔で
「きょうはしょうにんさんとかしょくにんさんとかがあつまるみたいだから、いろいろたのまれたりするようなきがするわ」
とおっしゃった。
「そうなんですか?」
と、珈琲を飲んで、果物の残りを食べていた馬人族のウィッカさんが聞く。
「ふつうのへいみんのひとは、ほんとうにこまってるとかじゃないと、えんりょしてあんまりいってこないし、きぞくのひとはたのんでくるよりじぶんでなんとかしちゃうけど、へいみんのなかのえらいひとっていうのかな。
おおきなしょうにんさんとかそういうひとは、わりといろいろいってくるようなかんじだわ」
「……そう言われてみると、私の親戚にけっこう大きな商会をやっているものがおりますけれど、わりにそんなところがあるかもしれません」
トラーチェさんが何かを思い出すようにして、手を頭に当てながら言う。
「それでね、それでね。たのまれたことをしてあげたら、あとでべつのひとがおこってきたりするのよ。
まえにも、おかねがないから、てつをやすくうってくれっていってきたひとがいたから、そうしてあげたら、そのひとにおなじものをうりつけるよていだったひとがおこってきたりとか、たとえばりんごがいっぱいとれてあまってるからかってくれっていうひとからかったら、べつのひとが『じぶんのかうぶんがなくなった』っておこってきたりするの。とにかくそんなのがいっぱいあるのよ。
いつもはどうしたらいいかわかんないときは、おとうさまかおかあさまにきけばよかったけど、きょうはおとうさまもおかあさまもいないから、じぶんできめなきゃいけないし、なんかふあんだわ」
「それは……だいぶん無礼な話ですな。
誰と何を売り買いしようと、そんなものは自由競争でしょうに」
クリーガさんが自分の顎を撫でながら思案顔で言う。
「でも、わたしはにもつぶくろのいのうでしょうばいをするし、お金もあるから、やっぱりふつうのしょうにんさんよりはだいぶんゆうりなのはそのとおりで、だからはいりょはしてあげなくちゃいけないの。
わたしのいのうでは、どんなたいりょうのにもつでもいれてはこべるし、いれたものがくさることもないから、おもいものやくさりやすいものではとくにそうね」
「けっこう面倒なんですね。
でも、お嬢様くらい強ければ、商売なんかしなくても、魔獣だけ狩って暮らしても十分稼げそうな気がしますけどねえ」
昼ご飯が控えめになると聞いたからなのか、大皿に残った菓子パンの余りを、浚えるようにして食べて、珈琲で流し込みながら、ウィッカさんがのんびりと言う。
自分も、もうちょっと食べたかったなあと思って、アリシアが空になった大皿を眺めていると
「パンをもうちょっと切ってきてあげて」
とアイシャさんがメイドのミーナちゃんに言ってくれた。
ミーナちゃんが菓子パンを大皿に追加してくれて、アリシアはちょっと恥ずかしいけど嬉しい。
「でもしょうばいってたのしいわよ。
すこしずつてもちのものやおかねがふえていくの。
それにふだんからそうやって、てもちのぶっしをふやしておかないと、いざひつようなときにたりなくなるわ」
「弱いものに配慮をされる、そのような母上の高潔なお心を、我らは幸いとするところではありますが、しかしそのために母上が、かえって侮りを受けるようなことがあれば、それは我らの苦痛とするところです」
クリーガさんがお嬢様にそんなことを言っているけれど、クリーガさんみたいなお爺さんが、赤ちゃんみたいに見えるお嬢様に母上とか言っているのは、もちろんお嬢様は寄親なんだから、それで正しいんだろうけど、アリシアとしてはどうも違和感があって困る。
「あの、お気が進まないようでしたら、お断りすることは可能です」
トラーチェさんが、そう遠慮がちに口を挟むけれど
「いいの。このまちでしょうばいをしたいなら、しょうこうかいにかおはだしておいたほうがいいもの。
きょういかなかったら、やすみあけにかおをださなきゃいけなくなるだけのことだわ」
お嬢様はそんなふうにおっしゃって、嫌なお茶会でも我慢して出ることにされるようだった。
こういうところがお嬢様って偉いよねとアリシアは感心する。
◆
そうして、トラーチェさんの言うとおり、控えめな物足りない昼ご飯を食べてから、ウィッカさんに馬車を出してもらって出発した。
ウィッカさんが馬車を操って、曇り空に小雪のちらつく街の通りを、すいすいと走っていく。
街の中心部に近づくにつれて、この寒いのにいったい何をしているんだろうと思うくらいに、どんどん人や馬車が増えてきて、あっちへこっちへと行きかっていた。
トラーチェさんの指示で、右へ左へ道を曲がり、最後に鋭角に曲がった交差点を切れ込んだところで、目の前に円形のやたらとでっかい建物が現れる。
市壁とかならともかく、円形の建物というのをこれまで見たことがなかったから、アリシアはちょっと驚いた。それにとっても大きい。
この円形の建物が、トラーチェさんによれば、パリシオルムの街の商工会議所とのことで、ここで到着らしかった。
この大きな円形の建物は、街のほぼ中心部の、川から少しだけ離れた場所にあって、高さは三階建てほどもあるだろうか。
正面には馬車が四台ほども並んでも通れそうな大きな扉があって、左右には守衛さんらしき人が二人ずつ、しめて四人もいた。
そうしてその扉から馬車が中に入って行ったり、馬車が出てきたりしている。
扉から左右に伸びる、長い長い外壁沿いには、順番待ちかなんなのか、馬車がいっぱいに並んでいるのだった。
並んでいる馬車は、だいたいが荷物を運ぶ用の箱馬車だけれども、小さな客室のついた一頭立ての乗用馬車もちょこちょこある。
建物に近づいたところで、ウィッカさんの曳く馬車に乗っている人は、馬車から降りて、馬車自体はお嬢様が荷物袋の異能に収納してくださった。
すると大きな扉のほど近くに、四人くらいで立って、並んでいたお爺さんたちが、こっちに向かって走ってくるのにアリシアは気づく。
マントの下に隠しながら、こっそり手斧を握って、アリシアが向き直ると、お爺さんたちは少し離れた場所で止まって跪いた。
「初めてのお目通りを賜りますことを幸いに存じます。
私はパリシオルム商工会の会頭を務めておりますフォーゼ・ハンデスと申します。
本日は足元の悪いところをお越しいただき、まことにありがとうございます」
お爺さんたちのうちの一人がそう言って、他のお爺さんたちも同じような感じで挨拶をすると、トラーチェさんが
「本日は、お招きいただきありがとうございます。お目にかかれて嬉しく存じます」
と簡単に返事をした。
「ささ、どうぞこちらへ」
と会頭さんのフォーゼさんというお爺さんが言って、他のお爺さんたちと一緒に、皆を中に案内してくれる。
お爺さんたちの後をついて、やたらと分厚い、分厚すぎるように思える壁を通って建物の中に入ると、そこは円形の大きな広場のようになっていた。
そこにも馬車がたくさん停まっていて、人もいっぱいいる。
馬車の中を覗き込みながら何か話している人や、何かの穀物でも入れているらしき袋とか、あるいは何かの樽を地面にいくつも置いて、何か交渉でもしているのか、激しい口調で話し合っている人もいる。
壁の内側には等間隔でずらりとアーチ型の大きな扉が付いていて、そこから馬車が入ったり出たりしていた。
建物の中に入ってくるときに、やたら壁が分厚いなと思ったけれど、つまりその分厚い壁部分は、内側に向かって出入り口が開いた倉庫のようになっているらしかった。
それからアリシアは何の気なく顔を上げて、それで驚愕する。
頭上に、なんかやたらとでっかい大きな丸い透明な天井があったからだった。
見た感じはたぶんガラスでできていて、一定間隔で黒い色の骨組みらしきものが規則的に配置されている。
そんなものを初めて見たアリシアが、あっけにとられて上を見あげていると
「なかなかのものでしょう? 鉄の骨組みを幾何学模様に配置して、そこにガラスを嵌め込んであるんですよ。
この巨大なガラスと鉄のドームは、パリシオルムの街の建築史上の傑作であると自負しております」
と、会頭さんのフォーゼさんは得意そうに言った。
透明なガラスを通して、外からの柔らかな光が柱みたいに降り注いで、それで広場全体が、なんだか神々しいような明るさで満たされている。
よく見ると壁の上のほうには、なにやらきれいな絵も描いてあって、建物が円形なものだから、前も後ろも右も左にも、絵が内壁を一周するようにあり、そこに天井からの光が当たって、それもなんだか荘厳なように見えるのだった。
皆でふらふらと、広場の中央まで寄っていって、上を見上げると、円形のドームが空に向かって付いている窓のようにも見える。
単なる建物というのを超えて、やたらときれいというか、立派というか、素晴らしかった。
物も言わずに皆でしばらく眺めて、それから皆で顔を見合わせた。
トラーチェさんは来たことがあるのか、そんなに驚いていないみたいだったけれども。
六本腕のエルゴルさんが、人の造ったものが文化であってどうとか、前の演習のときに言っていたのをアリシアは思い出す。
確かにこんなにすごいものを人が造れるんだと思うと、これは確かにすごいなとアリシアは感心したのだった。
皆でしばらく天井を眺めて、それから
「こちらにお席を用意してございますのでどうぞ」
と会頭さんのフォーゼさんが言って、広場の壁に内向きに付いている扉のひとつに皆を案内をしてくれる。
扉の内側、つまり建物の分厚い壁の内部の、倉庫になっているところに入ると、その部屋の隅のほうに大きな階段があるのが見えた。
その階段を、たぶん二階ぶんくらい登って、三階に上がると、そこには廊下があって、立派な両開きの扉が一定間隔でならんでいるのが見える。
フォーゼさんや、お爺さんたちが、アリシアたちをそのうちのひとつに招き入れてくれると、そこは大きな広い部屋になっていた。
部屋の奥にある大きな窓からは、中央の広場が見える。
部屋の中には、大きなローテーブルとソファーのセットが三つばかり置かれてあって、その周りを取り囲むように丸い背の高い大きな丸テーブルが幾つも置かれてある。
三つあるソファーとローテーブルのセットのうちのひとつに、ダンディーな髭のおじさんが座っていて、残りの二つのソファーセットには誰も座っていない。
そしていっぱいある丸テーブルのまわりに、それぞれ人が何人かずつ集まって立っているのだった。
全部で五十人以上もいるだろうか。
「ファルブロール様と寄子の皆様がおいでになりましたぞ!」
アリシアたちを先導してくれていたお爺さんたちのうちの一人が、そう言うと、丸テーブルのところで立っている人たちが寄り集まってきて
「ようこそいらっしゃいました! ささ、こちらへ」
とか言いながら、三つあるうちの、真ん中のソファーセットのほうに案内して座らせてくれる。
ちゃんとアリシアように、座面の広いソファーもあったし、馬人族のウィッカさんようの厚手できれいな布も敷いてあった。
それで、アリシアたちはテーブルを挟んで窓側のソファーに並ぶように座らされたので、テーブルの逆側のソファーには誰も座っていない。
後で誰か座りに来るんだろうか?
と、部屋の奥側のソファーセットに座っているダンディーな髭のおじさんが、こちらに向かって手を振っていた。
お嬢様が手をフリフリと振り返し、他の皆は会釈をするように頭を下げる。
そして部屋の手前側のソファーセットには誰も座っていない。
それから、会頭さんのフォーゼさんとかいう人が部屋の正面奥のほうに立って話し始める。
「さて……アロガント顧問がまだお見えになっておられませんが、定刻となりましたので、始めさせていただきます。
本日は、常日頃より顧問として当会にご協力を賜っておりますグロウス・ギガバート伯閣下ならびに寄子の皆様、また、このたび初めてのお越しを賜りましたファルブロール伯公女アリスタ様をお迎えいたし、ささやかではございますが、このように席を設けさせていただきましてお茶会を開催するものでございます。
会員の皆様方におかれましては、お二方にご挨拶を申し上げ、また会員相互の懇親をはかる機会となれば幸いでございます」
会頭さんがそう言って頭を下げると、拍手が起こったので、アリシアも拍手をした。
お嬢様も小さなおててでパチパチと拍手をしていた。かわいい。
挨拶が終わると、メイドさんたちや従僕さんたちが、ワゴンを押して部屋に入ってきて、お菓子やお茶を配ってくれる。
アリシアたちの向かい側のソファーの誰も座っていないところにも、お茶やお菓子が配られているから、誰か座るのかなと思ってみていたら
「御前を失礼いたします」とか言って、会頭さんとやらのフォーゼさんと、その仲間らしいお爺さんたちが座った。
「公女様、この度はお運びをいただきありがとうございます。
このようにしてご挨拶をさせていただけること幸いに存じます。
また何かご商売のご予定などおありでしたら、ひと声おかけいただきましたら、何かとお手伝いをさせていただける場合もあるかと存じますので、特に大量のお取引をなさる場合には、是非ともお声がけを賜れましたらとお願いをするものです。
とりわけ契約書の法務確認や、品目ごとの受給動向などにつきましては、専門家がおりますので、お気軽にご相談いただければと存じます」
フォーゼさんたちは、テーブルに頭をくっつけるような勢いでペコペコしながら話している。
「わかったわ。いっぱいかったりうったりするときは、フォーゼさんたちに、できるかぎりこえをかけるようにするわ」
「ありがとうございます。これで我らもひと安心でございます。
ご商売のことに限らず、お困りごとや、当商工会ならびに当商工会に所属します会員への苦情等ございましたら、まずは私どもまでお知らせくだされば幸いであります。
また私どものみならずパリシオルム市ならびに周囲の町村につきましても、なにとぞ公女様のご支援を賜りますよう伏してお願い申し上げるものでございます」
「わかったわ。できるだけのことはするわ」
「ありがたく存じます。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします」
会頭のフォーゼさんたちは、そうやって挨拶をしてから、さらに何分か話すと
「他に公女様とお話をしたいという者がたくさんおりますので、不本意ながら御前を失礼して交代をいたします。次の者もどうぞよろしくお願いいたします」
と言って席を立ってしまった。
それからその空いた席に、すぐに別の人たちが座って、自己紹介をして挨拶をして、少し話して、それからまた別の人に交代してしまう。
そんなのが何回も続いて、どうも順番でそうするようになっているように見える。
これはお茶会というより『お嬢様に挨拶する会』じゃないのかなとアリシアが思い始めたところで、今度は、眼鏡をかけた若い女の人が、お付きの人たちらしき二人を引き連れてやってくる。
彼女たちは、お嬢様に向かってお辞儀をしてから
「失礼いたします」と言って、アリシアたちの向かい側のソファーに座った。
眼鏡の若い女の人を真ん中に、その左右にお付きらしき人たちが並ぶ。
「私はゲトライーダ・コルンと申します。初めまして!
このパリシオルムの街で穀物商をやっています!」
真ん中の眼鏡の女の人が、元気よくそう挨拶をしてくれる。
だいたい歳は見た感じ、トラーチェさんと同じくらいだろうか。
すると
「そちらに座っているトラーチェさんとは、学園の同窓生です」と教えてくれた。
「そうなんですよ。幼馴染です」と、トラーチェさんも楽しげに言葉を重ねる。
「公女様におかれましてはトラーチェをよろしくお願いしますね。
トラーチェったら学園の上級課程まで終わったのに、どこかに本格的に働きに出るでもなくて、聴講生になったとか言っていましたから、ちょっと心配してたんですよ」
「……テレサンタ様のところで『お話相手』はやってたもん」(※)
トラーチェさんが不満そうに口を挟む。
「そんなのお小遣い稼ぎにしかならないじゃない」
ゲトライーダさんはトラーチェさんのほうを向いて、そう答えてから
「でもトラーチェが、ちゃんと公女様のマントをいただいて、寄子として奉公にあがると聞いて安心しました」
と、お嬢様に向かっては、嬉しそうな顔で言ったのだった。
ゲトライーダさんは、それから少しばかり話してから
「では後ろがつかえておりますので、慌ただしいことですけれど、これで失礼いたしますわね」
と、周りをちらりと見まわしてから、お嬢様や皆に声をかけて席を立つ。
そうしてゲトライーダさんと、お付きの人たちが席を離れた。
するとまた次の人たちがやってきて、お辞儀をしてからアリシアたちの向かい側のソファーに座る。
そうしてその人たちが挨拶の言葉をいいかけたくらいのところで、部屋の扉が開いて、男の人がひとり入ってきた。
そうしてその人は、部屋に入るなり「アロガント顧問がお見えになりました!」と大きな声で言う。
するとアリシアたちの向かいに今座った人たちが立ちあがったので、立ち上がらなきゃいけないのかと思って、アリシアも立ち上がろうとしたら
「ああ、公女様と寄子の皆様はお座りになったままでどうぞ」
と、その向かい側のソファーに座っていて、今は立ち上がった、その人に手で静止される。
先触れらしき人に続いて、立派なマントを着た男の人が、付き人を四人くらいと一緒に部屋に入ってきた。
その人たちは、お嬢様のほうをちらりと見てから、一セットだけまだ空いている、そのソファーのほうに向きなおって、そっちに行って、マントも外さずにどっかりと座る。
立派なマントを着た人は、若い男の人で、トラーチェさんと同じか、もう少し若いくらいだろうか。
見事な金色の髪に、整った顔立ちに美しい青い瞳をしていたけれど、表情がとても不機嫌そうに歪んでいて、そのせいであんまりきれいな顔には見えなかった。
その人からはなぜか塩の匂いがして、アリシアは、なんでだろう、と不思議に思う。
部屋の中にいる人が何人も、その立派なマントの、アロガント顧問とかいう人の方に寄っていっては挨拶をしているけれど、そのアロガントさんという人は、あんまり機嫌が良くなさそうな、難しい顔でなんだか適当に受け答えをしていた。
それで、そのアロガントさんとやらが、なんだか機嫌が悪そうなので、ちょっと雰囲気がおかしくなって、部屋の中に緊張感が漂う。
するとそこでアロガントさんが、急にソファーから立ち上がり、ほど近くにいたゲトライーダさんの方へ向かってずんずんと近づいていった。
「おい、てめえ! よくも顔を出せたなこの野郎!」
アロガントさんは、ゲトライーダさんを、胸倉でも掴まんばかりにして怒鳴りつける。
「……な、なんのことでしょうか?」
ゲトライーダさんが、ちょっと震えている声で返事をする。
「惚けるんじゃねえや! 小麦を売っただろうがよ!」
「それはもちろん当家は穀物商でございますから、小麦を売ったり買ったりということは日常的に行いますけれども」
「シラを切りやがって! ネタは上がってるんだよ。お前が絵を描いて、皆で示し合わせて売ったんだろうが」
「小麦が高ければそれはもちろん売って利益は出すのが仕事でございます。
通常よりだいぶん値があがっておりましたので、放出いたしましたが」
「まだ言うか。お前ちょっと来いや!」
アロガントさんがそう言って、ゲトライーダさんの腕を掴もうとしたので、ゲトライーダさんと一緒に来ていた、お付きのおじさんが
「なにとぞご無体は!」
と言って身を割り込ませるけれど、アロガントさんに振り払われて吹き飛ばされて、丸テーブルに突っ込んだ。
丸テーブルが倒れて、お茶のカップやらお皿やらが割れるひどい音がする。高そうだったのに。
それからアロガントさんがもう一度、ゲトライーダさんの腕を掴んだので、トラーチェさんが真っ青な顔で立ち上がる。
するとそれを見ていたお嬢様が、ふわりと浮かび上がり
「なにするのよ!」と叫んで、飛び出そうとしたところで、危うくなんとかアイシャさんが手を伸ばし、お嬢様のお腹と口のあたりを抑えて捕まえた。
モガモガと何か言おうとしているお嬢様の眼を見ると、行けと言っている気がしたので、かわりにアリシアが立ち上がって、アロガントさんとゲトライーダさんの間に割り込む。
視界の端で、お爺さんのクリーガさんが、アイシャさんの前に出て、皆を後ろに庇ってくれるのが見える。
それから馬人族のウィッカさんが立ち上がって、アリシアとは逆側に回り込み、突っ込んできてくれた。
「……なんだ手前らぁ」
アロガントさんがそう言ってアリシアを睨み上げる。
さて、ここからどうすればいいのか。殴ったりしたら問題だろうし、どうしよう?
アロガントさんを睨み返しながら、アリシアは内心では困ってしまう。
隙をみて、腰から下げている手斧でも握ったほうがいいのか、それともそういうことはやめておいたほうがいいのか。
魔獣相手ならもちろん斧を持ち出すけれど、人間相手だと話がそう簡単じゃないので困る。
「いったいなんだっていうのよ」
お嬢様の声がアリシアの肩口のあたりからして、横目で見やると、アリシアの肩越しにお嬢様が覗き込むようにして浮いているのが見えた。
「こいつが! 俺たちの船が小麦を運んでくるのに、わざわざ合わせて直前に小麦を売り浴びせやがったんだ!」
「そうなの?」と、お嬢様が後ろを向いてゲトライーダさんに聞く。
「違います! ……というか違わないと言えば違わないのですが、単に小麦が少し高止まりしていたから、それで売っただけです。それは普通のことです。
高い時には放出しますし、値が下がったら買いますよ」
「惚けやがって……ネタは上がってるんだよ。
こいつがな。他の商人たちと共謀して、俺たちの船が来る前に売ったんだよ。
明らかに相場が下がったから、ちょっと売りを入れたやつを締め上げたら吐いたぞ」
「でも、明らかに小麦が不自然に高止まりしていたから、それは売るのが当然でしょう」
「それは俺たちが子飼いの商会に買わせてたんだろうが!
船で小麦を積んできたんだから、クソみたいな値段で売るわけにはいかんだろうが!
だから価格を維持するために買わせてたんだよ!
それをこいつがよお。こっちが小麦の相場を維持しようとしてるって情報を掴んでて、こっちの足下見て売り浴びせやがったんだ。
おかげで俺らの商会のほうには小麦の在庫がたっぷりダブついてて、それで値段は下がってる。
おまけに船の方にも運んできた小麦がたっぷりある。フネで十二隻分だぞ? どう責任取ってくれんの? あ?」
「そんなこと仰られましても……高ければ売るのは公益の観点からも望ましいことのはずです」
「ほうほう。畏れ多くもかしこくも穀物商のゲトライーダ・コルン様は、俺らが危険を冒して命がけで運んできた食料を、ゴミみたいな値段で手放さざるを得なくすることを公益とおっしゃる? ほう?
お前な! 自分が利益を抜くだけじゃなくて他と示し合わせてやっただろうが! ああ!?」
「小麦を売るなとかそういうお話はいただいておりませんでしたし、そうであれば売るのは不当なことではないはずです」
「なるほど? 法には違反してないし、だから誰が損しようと、自分たちさえ儲かればいいと言ってるんだな? 俺らが損を被ればいいと?
法の上では問題がなくても、道徳ってもんがあんだろうよ。なあ?」
「どうとくっていうなら、わざとこくもつのねだんをつりあげるのって、けっこう、いや、かなりわるいことじゃないの?」
お嬢様がそう口を挟む。
めちゃくちゃ怒鳴っている人がいても、泣いたりとかしないあたり、お嬢様ってわりと気が強いのかもしれない。
まあ天竜と戦うのに比べたら普通の人を相手にするくらいは、あんまり何とも思わないのかもしれないけれど。
アロガントさんは、ちょっと痛いところを突かれたという顔をしたけれど、
「……吊り上げるたって、本当に高くなりすぎれば食料購買局が売りで介入してくる。
あくまで俺らが正当に儲けを取れるように、少し上げただけだろ!」
と言い返した。
「いまはふゆなんだよ? たべものがたりないとかぜをひいて、しぬひとだっているかもしれないわ」
「じゃあ何か? 俺らだけ損をかぶれって言うのかよ!
傭船料だって、船員の給料だって、港の使用料だってあんだぞ! どうするんだよ!」
「へんなねだんのそうさとかせずに、すなおにうったらよかったのに……」
アロガントさんは、ぐぬぬ、と言わんばかりに悔しげな顔をして、ゲトライーダさんの方を指差し、お嬢様に向かっては
「お前そいつのなんなんだよ! そいつの味方ばっかりしやがって!」
と喚きたてた。
「……だって、むすめのともだちらしいんだもの」
お嬢様がトラーチェさんと、トラーチェさんのほうに避難しているゲトライーダさんの方を見ながら、口を尖らせてそう答える。
娘の友達ってなんだ? とアリシアは分からなかったけれど、アロガントさんが、トラーチェさんのほうを見てから、ゲトライーダさんのほうを見たので、つまりゲトライーダさんは、お嬢様の寄子であるトラーチェさんの友達って意味だと分かった。
「運のいい野郎だ……!」
アロガントさんがゲトライーダさんのほうを睨みつけながら、そう吐き捨てるけれど、そこでお嬢様はふわりと眉根を開いて
「べつにあなたとけんかしたいわけじゃないわ」とアロガントさんにおっしゃる。
どうやらアリシアは手斧を持ち出さなくて正解だったらしい。
不機嫌そうな顔をして、お嬢様を見ているアロガントさんに、お嬢様はアリシアの肩の上に座って
「わたしがそのこむぎをかうわよ。ふつうよりちょっとたかいくらいのねだんでかえばいいんでしょ?」
と言った。
「……買うったって大きな船に十二隻分だぞ」
すると、お嬢様は小さなぷにぷにのおててをひらひらと振る。
令術をお使いになったのか、さっきアロガントさんが、ゲトライーダさんのお付きのおじさんごと、なぎ倒した大きな丸テーブルが、起き直ってから宙を飛んできて、お嬢様の前に、つまりアリシアとアロガントさんの間にどんと着地した。
何かと思って皆が見ていると、お嬢様は、その丸テーブルの上に、レンガみたいな大きな紙束をいくつか荷物袋の異能から取り出して置く。
このあいだ、演習で魔獣を討伐した術石の売却代金を小切手でもらったから、あれはたぶん小切手だなと、アリシアにも分かった。
それからさらにお嬢様は、ざらざらと噴水みたいに金貨を手から噴き出させはじめ、丸テーブルの上に積み上げて黄金の山を作る。
静まり返った部屋の中で、お嬢様は丸テーブルのそばに浮かびながら、アロガントさんのほうを見て
「おかねならあるわ」と仰ったのだった。
■
(※)ハーフオーガのアリシア38 ― 学園生活のはじまりⅡ ― を参照
■
10000文字をだいぶ超えてきたので、中途半端ですがいったん切ります。