閑話:黒森族の女の子Ⅲ
コージャが意識を取り戻すと、どこか知らない部屋の天井が見えて、自分がベッドに寝かされているのに気が付いた。
それから周りを見回すと、ベッドの脇にある椅子に、知らない豚鬼族のお姉さんが座っているのが見える。
「気が付いた?」
豚鬼族のお姉さんにそう問われて、何が起こったんだっけ、とコージャが考えていると
「今日の治療は見た感じが特別ひどかったからね。失神しても無理ないわよ。
体が干物みたいに開かれてたけど、あの状態からもとに戻すっていうんだからすごいわよね」
と、豚鬼族のお姉さんが言ったから、コージャは何が起こったのか思い出した。
「倒れたんだからちょっと診るわよ」
と断ってから、豚鬼族のお姉さんは、コージャに口を開けさせて舌を引っ張ったり、目に令術の小さな光を当てたり、首筋に指を当てて、たぶん脈をとったりしてくれた。
それから「気分が悪いとかない?」とコージャに聞いてくれて、大丈夫そうですとコージャが答えると
「じゃあ、まあ大丈夫みたいね」と言って椅子から立ち上がる。
「奥様がしばらく寝てるようにっておっしゃってたわ。またいい時間で誰かが起こしに来るからね」
と言い置くと、豚鬼族のお姉さんは、カーテンを引いて、灯りを落としてから部屋を出ていってしまった。
言われたとおりに、コージャがベッドに横になると、精神がショックを受けたからなのか、すぐに強い眠気がやってくる。
そうしてコージャはそのまま眠ってしまった。
◆
小さな声が聞こえる。
ささやき声よりもなお小さな、吐息のようなそれは、只人より耳が良い森族が声をひそめて話すときのものだ。
「よく考えたら、診療所に入って二日目の子にあんなものを見せたのは失敗だったわ」
「わたしたちはなれちゃってかんかくがまひしてるもんね」
「まあそう……そうなのかしらね」
「わたしはちゆでないぞうをいれかえたあとでもステーキをたべれるわ!」
「そういう言い方は趣味が悪いわよ」
ああ、これを聞いたのは、いつぶりだろう。
コージャがそう思いながら目を開くと、ほの暗い中で、見覚えのない天井があって、顔を横に向けると、そこには奥様がおられたのだった。
首をまわしてきょろきょろと見回すと、自分はベッドに寝ていて、ベッドの脇の椅子に奥様がおられて、コージャの寝ているベッドの枕元に、お嬢様が座っておられたのだった。
小さな明かりがひとつだけ灯されて、仄かに部屋を照らしている。
「目が覚めたのね、良かったわ」
「なにかあたまがいたいとか、きぶんがわるいとか、たいちょうがおかしいとかある?」
奥様とお嬢様に矢継ぎ早に声をかけられて、ちょっと考えてみるけど何もない。
「大丈夫みたいです」とコージャが答えると
「じゃあびっくりしただけだったのね」とお嬢様がおっしゃる。
そう言われて、コージャは自分が診療所で、治癒の様子を見ていて気を失ったことを思い出した。
コージャがベッドから起き上がると、枕元のところにいたお嬢様がふわふわと漂って、コージャのお腹のところに向い合わせになって抱き着くように座った。
「まだコージャちゃんも子供なのに配慮が足りなかったわ。ごめんなさい」
「いえ、そんなことは」
奥様にそう答えながら、自分に配慮が足りないというなら、もっと赤ちゃんなお嬢様にはどうなんだろうとコージャは思わないでもない。
「いちおう簡単に診察しておくわね」
奥様はそうおっしゃって、さっき来てくれた豚鬼族のお姉さんと同じように、コージャの舌を引っ張ったり、目に光を当てたり、脈をとったりしてくれた。
「大丈夫みたいだから、じゃあ帰りましょうか」
そう言われて、ベッドから降りて立ち上がって、奥様とお嬢様について部屋から廊下に出ると、その廊下は休憩室につながっていたみたいで、そこで皆が座ってお菓子を食べたり、何か飲んだりしている。
部屋に入ると、どうもコージャが起きるのを皆で待っていたらしく、皆が食べたり飲んだりするのをやめて、テーブルの上の片付けが始まった。
皆を待たせていたんだと思うとなんだか情けなくなって、コージャは下を向いてしまう。
今日はここに来て、すぐ気絶して、あとは寝ていただけじゃないかと思うと悲しくなった。
すると近くにいた奥様の寄子の女の人が、テーブルのお菓子をひとつ取って握らせてくれた。
それからお嬢様が漂ってきて、お茶の入ったカップを渡してくださった。
みんな優しい。
◆
診療所の建物を出て、馬車に乗り込むところで
「今日はこっちにいらっしゃい」
と、奥様がコージャを隣に呼び寄せてくださる。
それで言われたとおりに、馬車の、奥様の隣の席に座ると、皆の嫉妬の視線が少しだけ痛い。
「今日の午後に治癒をしていた人はね。体のあっちこっちに癌ができたり、癌が転移してきたりしてて、それでなるべく癌を取っちゃわないといけないから、全身を点検してたのよ。
だから体をすごく開いてたけど、あれは治療のためなんだからね」
と、奥様が馬車の上で説明をしてくださる。
「はい、それはもう」
コージャにもそんなことは分かっていたけど、どうにも気持ち悪くなったのだった。
「アリスタが普段は何をしてるのかをちょっと見ておいてもらおうと思って、診療所のほうに来てもらったんだけど、今日はちょっとまずかったというか、間が悪かったわね」
「いえ、そんなことは……」
「まあ、昨日と今日で診療所のほうはだいたい見てもらったし、明日からは別の仕事を用意するわ」
「あの、奥様。私は大丈夫です」
別の仕事を用意すると言われてしまうと、今の診療所のほうについては、なんだか見放されたような気がして、それが嫌でコージャはそう言い募るけれども
「うーん、でもコージャちゃんって治癒術は得意じゃないんでしょう?
じゃあ診療所にこだわらなくてもいいわよ。元から診療所はニ、三日くらい見てもらうだけの予定だったし」
というように宥められてしまう。
それでその日は皆で屋敷に帰った。
◆
翌日に、午前中は昨日までと同じで、お嬢様が家庭教師とお勉強をされるのを、後ろで椅子に座って見ていて、そのときにコージャもついでに勉強する。
勉強の時間が終わると、今日はお嬢様と別れて、コージャは屋敷の敷地の端にある、庭師さんがいる場所へ行くように言われた。
◆
言われた通りに、敷地の端のほうまで行くと、そこには大きな木造の建物があって、扉を叩いてみたら真っ白な口髭の生えたお爺さんが出てくる。
仕事をしにきたと言うと、ちゃんと奥様から話を通してくださっているようで、お爺さんはコージャを建物の中に招き入れてくれた。
お爺さんがコージャに案内してくれたところによると、そこの建物は一階が庭仕事や畑仕事の道具や資材が入った倉庫になっていて、二階に庭師のお爺さんと、それに下働きのお兄さんたちが四人ほど住んでいるらしい。
それで、コージャはそのお爺さんから仕事をもらって、その日は畑の草取りをしたり、野菜の虫を取ったりして過ごした。
やることができて、とりあえず安心して、その日からコージャは、庭師さんたちの建物に午後からは何日か通った。
けれども、なんだか遠慮されてるみたいで、何かすることがないか聞いてみても、楽な、すぐ終わるようなことしかやらせてくれない。
庭師のお爺さんはそうでもないけれど、下働きのお兄さんたちからは、コージャは避けられているような感じを受けた。
それで、そのことをお爺さんにコージャが愚痴ってみたら
「使用人というのはただの平民ですから、何の力もありませんし、寄子の方とは立場も違いますからな。
遠慮はするのが普通ですとも」
とお爺さんに言われてしまう。
「でも私の実家にも使用人の人たちはいたけど、こんなふうに私のことを避けたりはしなかったわよ」
「そりゃあ、コージャ様を小さい時から知っていて、うちのお姫様だと思っている使用人と、つい何日か前に会ったばかりという使用人は、同じようにはいきませんわい」
「そういうものなの?」
「そうですとも。お強い方の中には、力弱い平民をなんというか、なぶるように、絡むようにして扱う方もいますからな。
うっかり近寄って目を付けられでもしたらかなわんので、最初は警戒するものです。
まあ慣れてきたらそのうちだんだん寄ってくるようになりますよ。猫とかと一緒ですな」
「でもお爺さんは私のことを避けたりしないじゃない」
と反論してみても
「儂はもう老い先短い爺ですからな。だんだんと怖いものはなくなっていくんですよ」
とか笑いながら言われてしまう。
そう言われてしまうと、コージャはちょっと寂しく感じたので
「お爺さんは長生きしてね」と言うと、お爺さんは
「これはどうも」と嬉しそうに言って帽子をとり、自分を頭をつるりと撫でた。
それから少し迷うような表情をしてから
「儂は、令術が使えない、特に何でもない男です。
だから、貴族様方とか、その寄子の方々とか、そういう世界のことはよく分からんので、間違ったことを言っているかもしれませんが……コージャ様もお強い方々とお近づきになるときはくれぐれもお気を付けなすってください。
コージャ様のようにお強い方であっても、もっとお強い方に対すれば、それはやはり令術つかいに平民が対するのと同じように危ないことですからな。
まあうちのお嬢様の寄子になられたのであれば、ある程度は安心やもしれませんが」
と、コージャに忠告してくれる。
それはもちろんそうだろう。
コージャも、実家のある里の子供たちの中では、それはもちろん令術を使えない普通の子たちよりは、当たり前に強かったけれど、令術を使える子たちの中では決して強い方じゃなかった。
少しくらい強くても、もっと強い人の前では用心しなきゃいけないのは、それはそうだ。
そんなわけで、庭師さんたちのところで何かしようとしても、やることがあんまりない日もけっこうあって、そんな日には、コージャはお屋敷の中をうろついて、洗濯場とか畜舎とか、色々なところに顔を出してなんか雑用をやらせてもらったりした。
けれども、そこでもやっぱり遠慮されたり居心地が悪そうにされたりする。
そういうのも何だか心にくるものがあって、だからそういうのに耐える気力が出ない日は、もう独りでそのへんを掃除したりして時間を潰す。
とっても虚しい。
そんな状態で、月に一度の俸給が貰える日がやってきて、コージャは本当に金貨が三枚分ももらえてしまったので、いよいよ困ってしまった。
ちょこちょこと雑用をしただけにしては貰いすぎだと思ってしまう。
◆
そんなふうに過ごして、このお屋敷に来て、ひと月くらいもたったころに、お嬢様の新しい寄子の人がくるとかいう話があった。
お嬢様の寄子はいまのところ、お嬢様の乳母で豚鬼族のアイシャさんと、コージャだけだから、それに加えて、三人目ということらしい。
新しい寄子の人は大鬼族だということで、アイシャさんなんかは、冗談交じりではあったけれど、私たちはその大鬼族の人に食べられちゃうんじゃないかとか言っていた。
まあ蜥蜴族じゃあるまいし、多分大丈夫だろうとは思うけれども。
◆
そして、春が深くなり草や葉の色が濃くなってきたころに、その新しい寄子になる大鬼族の人はやってきた。
寄子になるためのマントの儀式があるから、昼食は大食堂で皆で食べるとのことで、コージャもアイシャさんやお嬢様と連れだってそっちに行く。
お嬢様も寄親としてマントの儀式をしなきゃいけないし、昼食会もたぶん長くかかるので、診療所でのお仕事は、今日はお休みらしかった。
先に会場の大広間に入って時間を潰していると、その新しい寄子らしき大鬼族の人がメイドさんに連れられて、後から入ってくる。
その大鬼族の人は、見上げるように背が高くて、体つきもものすごくがっしりしているけれど、顔は只人とあまり変わらない。
それに服どころか、上着まで着ていて、その上着の袖口からは真っ白なブラウスの袖が覗いている。
まったくきちんとしていて、清潔で、アイシャさんやコージャが、大鬼族の人が来ると聞いて想像していたのとは、全然違っていて驚いた。
それと胸が大きく膨らんでいるし、顔つきとかからすると、たぶん女の人みたいに見える。
やがて食事が始まると、その人は、ちゃんと席について、ナイフとフォークを使って、隣のお嬢様やアイシャさんと楽しそうに話をしながら食べていた。
なんか思っていたより全然普通だ。
◆
それで、無事に昼食会とマントの儀式が終わって、部屋でコージャが休んでいると、お嬢様を抱っこした奥様が、アイシャさんを引き連れて、コージャの部屋までやってこられた。
奥様がおっしゃることには、その大鬼族の、アリシアさんというらしいけれど、彼女と、彼女を連れてきた森族の人が、訓練をするので、練兵場を使わせてほしいと言ってこられたそうだ。
それで
「アリシアさんが最初に面談をしにここに来たときにも、色々と見せてもらったけど、あれはちょっとすごいわよ。
アイシャもコージャちゃんも、同じ寄子仲間になるんだから、彼女に何ができるのかを見ておいて損はないと思うわ」
と、そう奥様はおっしゃった。
それで奥様と、奥様に抱っこされたお嬢様と、あとアイシャさんの後を付いて、コージャも練兵場に向かう。
その途中で何かが爆発するような音が聞こえてきて、コージャと、あとアイシャさんも、思わず飛び上がりそうになった。
けれども、奥様とお嬢様は特に気にした様子もなく練兵場のほうに向かっていく。
◆
練兵場に着くと、そこには見上げるように大きくて、すごく重そうな鎧兜と、森族の男の人が向かい合うように立っていた。
鎧兜のほうはやたらと馬鹿でっかい大剣を持っている。
あのでっかい鎧兜はなんなんだと思って見ていると、森族の男の人が帽子を、鎧兜の人は兜を脱いで、こちらに向かって会釈をしてくれる。
顔を見ると、つまり鎧兜の中身は大鬼族のアリシアさんなのだった。
その顔は穏やかそうに見えるけれども、挨拶を終えて、兜をかぶり直したアリシアさんはやっぱりとても強そうなのだった。
あの鎧兜といい、大剣といい威圧感がすごい。
やがて訓練が始まったらしくて、森族の男の人が、アリシアさんに向かって投射令術の光球を五つくらい投げつける。
するとアリシアさんは投射令術を受けてみる練習でもしていたのか、あるいは単にぼんやりしていたのか、光球をひとつ、まともに受けて倒れ込む。
大丈夫かなと思ってみていると、アリシアさんはなんでもないことのように跳ね起きた。
普通の人だったら立ち上がれなさそうなほど重そうに見える鎧兜を着けているのに、手さえ付かずに、体のばねだけで跳ね起きて立ち上がる。
なんだか妙に非現実的な光景に見えて、あの鎧はじつは布でできているとかで、すごく軽いんじゃないかとか思ってみたが、そんなわけもない。普通に金属音もしているし。
それからまた、森族の男の人が、アリシアさんに向かって投射令術の光球を五つくらい投げつける。
するとアリシアさんは、それこそ大型の魔獣があげるような、ものすごい吼え声をあげて、それで光球をひとつ消してしまった。
コージャはその声を聴いただけで、なんだか身が竦んでしまって一瞬動けなくなる。
対抗令術で干渉するとか、剣とかの得物で叩くとかならまだ分かるけど、吼え声で投射令術を消すってなんだ。そんなことができるのか。
そう考えながら見ていると、アリシアさんは吼え声だけで残りの光球も調子よく消していき、五つあった光球をすべて消してしまった。信じられない。
それから森族の男の人は、アリシアさんに、今度は投射令術の光球を十個ばかりも一気にぶつける。
するとアリシアさんが、もっともっと大きな、地面が震えるような吼え声を出して、光球を一個ずつではなくてまとめて全部消してしまった。なんだそれは。そんなことがあり得るのか。
コージャはその吼え声で腰が抜けて失禁するところだった。
◆
なんかもうアリシアさんは圧倒的で、私ではもう比較にもならないなあとコージャは思う。
それで訓練を終えたアリシアさんは、すごいところを披露したから、意気揚々と帰ってくるのかと思いきや、なぜか悲しげなような冴えない表情で戻ってきた。
それから、ぼそぼそと奥様やお嬢様、それにアイシャさんやコージャに挨拶をして、そそくさと屋敷のほうへ引っ込んでしまう。
どうしたんだろう?
それでその場は解散になり、コージャは自分の部屋に戻った。




