ハーフオーガのアリシア72 ― 年寄りな子供Ⅲ ―
お嬢様の寄子志望のクリーガさんは、お嬢様から言われたとおり、翌日の午前中に、またやってきた。
いつものように庭の掃除をしていたアリシアが見つけて、応接間に案内する。
メイドのミーナちゃんが、珈琲と、チョコレートのタルトを、全員に持ってきてくれたところで
「クリーガさんはわたしよりずっととしうえなのに、わたしみたいなこどもがよりおやでほんとうにいいの?」
とお嬢様が聞く。
「はい。それが私の望みであり、他にはもう望みもあまりありません」
「わかったわ。じゃあ、あなたをよりこにします」
お嬢様がそう言うと、クリーガさんはなんとも嬉しそうな、とても穏やかな笑顔を浮かべて
「感謝いたします」と言った。
それからすぐにクリーガさんは、荷物を取ってくるとかで、出ていってしまった。
◆
少しすると、クリーガさんは、どこかで借りたらしい馬車の御者台に、御者らしきおじさんと並んで座って、馬に曳かれて戻ってきた。
馬車にはトランクとか風呂敷包みとか、長持とか槍とか剣とか弓とか武器類とかの荷物らしきものが載っている。
アリシアも手伝って、荷物を降ろして馬車を帰した後で、クリーガさんの部屋をどこにしようということになった。
お嬢様がどこか適当な空き部屋に案内しようとしたけれど、クリーガさんは
「アリスタ様は、お小さくとも淑女であられますし、おそばに侍るものもご婦人ばかりでしょう。
ですから私の部屋は、別棟のほうでいただきたくあります。
これからアリスタ様に男の寄子が増えることがもしあれば、私も含めて、その別棟のほうにまとめた方がよろしいでしょう」
とのことだった。
このお屋敷は、正門を入って正面奥に横長の三階建てくらいの石造りの立派な本棟がある。
その本棟の前面にちょっとした庭があって、その庭の左右に、敷地の壁に沿うように、同じく三階建ての石造りの立派な建物があり、門のすぐ脇から左右にも、手前側の塀に沿うようにして建物がある。
この手前側の建物だけは、二階建てで木造になっている。
本棟の裏には、馬の入っている厩舎とか、馬車の入っている車庫とか、畑とか倉庫がある。
こんなにいっぱい大きな建物があるのだけれど、でもアリシアたちは、お嬢様に、アリシアたち寄子が六人、それにメイドのミーナちゃんと従僕のトニオくんの全部で九人しかいない。
それで奥側の本棟と厩舎と馬車の車庫以外の建物は、ほぼ使っていなくて、別棟なんかは、ほとんど足を踏み入れることすらなかった。
だから、このお屋敷に来たばかりのころは、あっちこっち掃除ばっかりしていたけど、本棟以外は全く何もしていない。
でもクリーガさんが別棟で部屋が欲しいと言うから、皆でちょっと探検しに行ってみようということになる。
少し見てみると、正面の本棟から見て左側にある棟に、なんか寝室がいっぱいあったので、クリーガさんはそのうちのひとつで部屋をとることになった。
「せっかくですから入り口近くで部屋をいただいたほうが、用心もよろしいでしょう」
とクリーガさんが言ったから、クリーガさんの部屋は別棟の一階になる。
それから、皆でクリーガさんの部屋の掃除を手伝ったり、あるいは昼ご飯を作ったりしていると、そのうち昼食の時間になった。
今日は鶏肉のステーキに、玉葱のスープ、焼いた野菜に、あと大蒜と茸と葱のスパゲッティーだった。
いつものように台所に集まって、食事をするのだけれど、食卓に、よく知らない人がいるから警戒してしまうのか、空気がぎこちなくて、食事が始まっても、なんか今ひとつ会話が盛り上がらない。
それで、今までみたいな、女の子たちばっかり(従僕のトニオくん除く)で気楽だったころに戻りたいとアリシアは思ったけれど、お嬢様の寄子を増やさなきゃならないらしいから仕方がない。
もっとも、従僕のトニオくんに聞いたら、トニオくんは、自分以外の男の人が増えて嬉しいみたいだったけれども。
◆
そうしてさらに次の日。
今日は演習のときの大隊の慰労パーティーがある日で、今日こそきれいな服が着られるかと思ったら、トラーチェさんが
「パーティーといっても慰労パーティーですから、気楽な格好でとのことでしたよ。
でもマントの儀式があるから、お嬢様とクリーガ様はすこしきちんとした服にしましょうか」
と言って、アリシアのきれいな服は、またおあずけになった。
皆で朝食をとってから、アリシアは特に予定もないので、掃除をして時間を潰し、掃除もいいかげん飽きてきたので、獲物の解体用のエプロンを付けてから、お嬢様にお願いして、荷物袋の異能の中に入っている、演習の後で、術石だけ取ったきり、解体ができてない獲物を、ひとつ出してもらう。
お嬢様が出してくださったのは、魔獣化した野牛だった。
アリシアは野牛を引きずって、敷地の隅っこの目立たないところに移動して、そこにあった大きな木かの太い枝からロープで獲物を吊るして固定する。
そうしてから刃物を入れて、獲物を解体して、毛皮を作ったり、内臓を取って井戸から汲んできた水で洗ったり、りっぱな角やらも外して、それから枝肉を作っていく。
お嬢様の荷物袋の異能に入れているかぎり、腐敗が進行しないから、演習のときに獲ってから何週間も経つ獲物でも、内臓がまだ新鮮で、ほとんど全部が食用に回せるのが、アリシアとしては、とても嬉しい。
そのうちに陽が上のほうに昇ってきたので、そろそろ昼ご飯かなと思って台所に行くと、皆で作っている途中で、アリシアは、さっき洗ってきれいにしたばかりの、野牛の腸とかの脂がたっぷりの内臓を少し持ち込んでスープに仕立てる。
皆で食べたらとても美味しかった。
スープにして食べる以外の、まだいっぱい残っている内臓とか、毛皮とか角とか蹄とかは、またお嬢様の荷物袋の異能に戻す。
昼食の後は、枝肉を部位ごとに解体して骨を抜いて、ヒマにまかせて丹念に精肉して磨き上げていく。
そうしているうちに、やっとこ陽が落ちてきたので、肉をいくらかとって、料理に使いやすいくらいに一定の大きさにカットしていく。
そうしておいてキッチンから大皿を持ってきて、いい感じに盛りつけてから、解体の道具とかを全部洗って、片づけをする。
カットまでいった部分以外のお肉は、お嬢様にまた預けて、大皿に盛りつけたお肉のほうは、台所にある晶術石で動く冷蔵庫にしまい込んだ。
天竜の解体も、まだ二頭分が、晶術石を抜いた以外は、ほぼ手つかずで残っているし、その他の魔獣も千体以上もあったはずで、お嬢様の荷物袋の異能に入っている獲物の解体は、これは来年の演習が始まっても終わらないんじゃないかとアリシアは思わないでもない。
というか一年は三百六十五日しかないのだから、解体する人が自分だけだと、全く休みなく一日に一体のペースで解体したって全く終わらないということになる。
それに天竜とかのデカブツは一人でやったら解体は一日では絶対に終わらない。
ということは、つまりこれは来年の演習が始まる時期になっても獲物の解体は終わらないということになる。
そしてまた演習が出たら、どうせお嬢様のことだから獲物を山のように狩って、それを演習の先に捨ててこずに、荷物袋の異能まかせに全部回収するんだろう。
そうしたらまた解体していない獲物が増えてしまう。
そんなふうに毎年毎年獲物のストックが増えていったら、ひょっとしてもう絶対に終わらないのではないか。
アリシアは少し考え込んでしまったが、まあ、お嬢様の荷物袋の中に入れておけば、獲物は腐らないから解体はいつでもできるんだろうし、色々考えても仕方がないので、アリシアは頭を振って忘れることにした。
◆
そうして夜になって、解体のときに着ていた服から、普段着ている服に着替えたところで、パーティーに出かける時間になる。
いつものとおり、馬人族のウィッカさんが曳いてくれる馬車に(アリシア以外の)皆は乗り込む。
「馬人族の方に馬車を曳いていただくと、なにやら申し訳ないような心持ちがしますな」
と馬車の座席に座ったクリーガさんが、首をまわしてウィッカさんのほうに言っているけれど
「いーえぇ、私の数少ない大事な仕事ですから、お気になさらず。それに馬人族からすると、馬車を曳くのってけっこう楽しいんですよ」
とウィッカさんが答えている。
アリシアも獲物の解体や精肉で、それを仕事ということにして時間を潰せるからいいようなものの、そうじゃなかったら困ってただろうなと思う。
◆
ウィッカさんの曳く馬車は、いつも通り快調に走り、隊長さんのローテリゼさんのお屋敷にでも向かうのかと思いきや、そうではなくて街の外縁のほうに向かう。
そうして、なんか石造りのやたら大きな平べったい建物に到着した。
「ローテリゼさんのところのお屋敷でやるんじゃないんですね」
とアリシアがつぶやくと
「六百人以上も招待客が来るとか言ってましたからね。
そりゃあ専用のホールじゃないと入らないと思います」
そうトラーチェさんが教えてくれる。
案内の人が、ホールの裏に馬車の駐車場があるというから、そっちに回ってみると、馬車と馬がいっぱいになっていた。
これは確かによっぽど大きな会場じゃないと入らなさそうだ。
考えてみれば討伐演習のときも、お嬢様が砦を造って、大隊をまるごと収容していたけれど、その砦も相当に大きかった気がする。
駐車場が馬車でいっぱいで、いったん置いたらどこに置いたのか分からなくなりそうだったし、ウィッカさん以外に馬車につないできた馬とかもいないので、馬車はお嬢様の荷物袋の異能にしまっちゃうことになった。
建物の表に戻ると、大きな両開きで硝子張りの玄関が二つもあって、そこに立派な黒のコートを着た男の人がそれぞれ立っていて、アリシアたちが近づくと玄関を開けてくれる。
中に入るとそこはロビーになっていて、ソファーがいくつも置いてあって、奥には木製のカウンターがあった。
パーティーに参加するらしき人もちらほらいるけれど、その人たちから視線が飛んでくる気がする。
なんか見られている。
カウンターの中には男の人たちがいて、トラーチェさんが、ローテリゼさんからもらった招待状を渡すと、ロビーの奥の大きなドアのほうに案内してくれた。
ドアのところには、紺色の天鵞絨に金釦の揃いの上着を着た人が二人立っていて、ドアを開けてくれる。
皆で部屋の中に入ると、そこは天井が高くて、やたらとだだっ広い部屋で、天井のあっちこっちに晶術石の灯りがあって、とっても明るかった。
どこで演奏されているのか、ごく小さな音で音楽も聞こえてくる。
部屋の中にはたくさん人がいて、テーブルやソファーがあっちこっちにたくさん置かれていた。
テーブルの上には料理や飲み物の瓶が山盛りになっている。
ホール内を少し見回して、いい感じに人がいなくて空いてそうなテーブルがあったから、そこに寄っていって落ち着く。
けれどもすぐに
「ファルブロール様よ!」とか「アリスタ様だわ」とか
「大鬼族の方が一緒にいらっしゃいますものね」
などと言う声が聞こえて、わーっと人が寄ってきて、あっという間に取り囲まれてしまった。
皆すごい笑顔で口々にお嬢様に話しかけてきて、演習の時のご飯やお風呂のお礼を言ってくれたりするのだけれど、そのうちにだんだんと列ができて、お嬢様の座っているソファーのまわりを何重にも取り囲むみたいになってしまった。
それで二人か三人ずつくらい順にお話をしてから、次の人たちに交代するみたいな流れになる。
人がいっぱい並んでいるので、いつまでたっても終わらないけれど、お嬢様は嫌な顔もせずに対応しておられて、こういうとこってお嬢様は偉いよね、とアリシアは思う。
でも適当なとこで止めたものか、それとも止めない方がいいのかアリシアが迷っていると、ぬうっと大きな影がさして、見ると六本腕のエルゴルさんと、その隣に見事な赤銅色の髪のローテリゼさんがいたのだった。エルゴルさんはこっちに向かって太くて長い腕を小さく振っていた。
「さあさあ、そろそろ始めるから席についてちょうだい」
とローテリゼさんが言うと、お嬢様のまわりで人垣や列を作っていた人たちが、お嬢様に手を振ったり
「また後でね」と言ったりしながら、自分たちのテーブルへと散っていく。
それで解放されたお嬢様が、ふわふわとローテリゼさんのほうに漂っていって
「おまねきいただきありがとう」とおっしゃった。
「来てくれて嬉しいわ。大隊の慰労会なんだからアリスタ君を抜きになんて考えられないもの」
ローテリゼさんはそう言いながら近くまで来たお嬢様を捕まえて抱っこした。
すると、近くに立っていた金髪のふわふわした髪の女の子が(よく知らない子だけど演習の時に見たような顔だった)お嬢様を抱っこしているローテリゼさんのほうを、恨めしげに見ながら
「お母様だけアリスタ様を抱っこしてずるいわ」と言う。
お母様って誰だろうとアリシアは考えたけれど、ローテリゼさんが、その女の子に
「招待客にご挨拶をするのは主催者の役得だもの」と返事をした。
ローテリゼさんにそうやって声をかけてきた女の子は、たぶん十代前半の、十二歳か十三歳くらいに見える。
だから、それより少し年上の十五歳か十六歳くらいに見えるだけのローテリゼさんが、お母様って呼ばれるのはおかしいなとアリシアは思ったけれど
「この子は最近に私の寄子になったナイーダ・マイン・ヴェゼツキアよ。仲良くしてあげてね」
と、ローテリゼさんが腕の中のお嬢様に言ったので、つまりそのナイーダちゃんがローテリゼさんの寄子だから、ナイーダちゃんから見ればローテリゼさんはお母さんになるんだなと気づいた。
そうだとすると、アリシアもお嬢様のことを、お嬢様ではなくてお母様と呼ばなきゃならないことになるけれど、やっぱりお嬢様はお嬢様だし、お嬢様は見た目が赤ちゃんだしなあ、などと考えていると、お嬢様がナイーダちゃんに
「よろしくね」と言って、ぷにぷにのおててを差し出した。
ナイーダちゃんはそのおててを握って、とても嬉しそうな顔をする。
「じゃあ、私はとりあえず前で挨拶してくる」
とローテリゼさんが言い、お嬢様はローテリゼさんの腕からふわりと飛び出して、こちらに戻ってきて、元通りにアイシャさんの腕の中に落ち着いた。
ローテリゼさんはナイーダちゃんを軽く抱擁して、頭のてっぺんにキスをひとつ落としてから放して、部屋の前のほうに向かって歩いていく。
部屋の前側には、正面奥の壁に沿うように、演劇でもするような、大きな壇というか舞台があった。
そしてその舞台の手前の床が、窪んで少し低くなっていて、その窪みに嵌まるように、楽器を抱えて演奏している人たちが十人以上も座っているのにアリシアは気づいた。
そこから音楽が聞こえてくる。
なんで演奏している人たちのいるところを窪ませてあるんだろう? とアリシアが考えながら、それをジロジロ見ていると、ローテリゼさんが舞台のところまでやってきて、脇の階段から上に上がった。
すると楽器の演奏が中断されて静かになる。
それからローテリゼさんは話し始めた。
「さあ、お待たせだが、そろそろ始めよう。
今日は大隊の慰労会に集まってくれて皆ありがとう。
公務やらで来られない者もいるが、寂しくならないようにゲストも呼んでいるから安心してほしい」
何かの術具でも使っているのか、ローテリゼさんの声がやたらと通ってよく聞こえる。
「さて……まずは皆に感謝を述べたいと思う。
今年は私が学園に入って四年目で、演習では初めての大隊長を拝命したわけだが、やはり力不足を痛感する部分があった。
戦闘力においても、部隊の運営においてもそうだったと言わざるを得ない。
私が気づいているだけでも色々と問題があったのだから、私の気づかなかった部分も含めると、いったいどれほど不手際があったのか恐ろしいほどだ。
しかしながら幸いなことには、私は、私を助けてくれる人にたいへん恵まれている。
まず、至らない私に普段からついてきてくれる、私の中隊がそうだ。
普段からいろいろと我慢してくれていることがあるだろうし、今回の演習でも危険な目にも遭わせた。
私の指揮ぶりにも問題があった。それでも私についてきてくれていることに感謝する。
また、私の兄であるエルゴルと、その中隊の皆さん、さらに輸送連隊から分遣されて大隊に入ってくださった輸送中隊の皆さんには、部隊の運用面で非常にお世話になった。
状況を破綻させずに、無難に大隊を運用して行軍できたのは、皆さんのおかげだ。
飛竜中隊の皆さんにも、空の安全をよく守って警戒していただいた。
私達だけでは目が行き届かないところを、素早く敵を先に見つけてくれて、早手回しに対応できたので、危険をかなり避けられた。
そして何よりアリスタ中隊には大隊の皆が助けられた。
これは私が言うよりも大隊の皆が大いに実感したと思う。
食べ物や飲み物に事欠くことないようにしてくださり、野営地の造成もせずに済むようにしてくださって、毎日風呂にも入れるようにしてくださった。
なにより魔獣に襲われて、大隊から死者が出そうな場面も何度もあったが、なんとかしてくださった。
大隊の誰かが命を失うでもなく、私たちが悲しみに暮れるでもなく、こんなふうに暢気に慰労会ができるのも、アリスタ中隊のおかげであると思う。本当にありがとう。
それで今日はせめてもの慰労として、大隊の皆を慰労会に招待させていただいた。
食べて飲んで楽しくやってくれたらと思う。
これをもって開会の言葉とする。
余興として劇団を呼んであるので、いったん皆でおしゃべりを楽しんで、腹ごしらえをしてから、しばらくしたら始めてもらう予定だから楽しみにしておいてくれ。
では召し上がれ」
ローテリゼさんは、そうやって挨拶を終えると舞台の脇の階段から降りていった。
それから徐々に会場にざわめきが戻ってくる。
すると
「さあ、ちゃっちゃと食べて飲みましょう。食べて飲んだら動かなければいけません」
トラーチェさんが断固とした声でそう言った。
何を言ってるんだろうと思ってアリシアがそちらを見ると、トラーチェさんはテーブルの上に置いてあった飲み物の瓶を次々に開けたり、料理を素早く皿に取り分けて、皆に配ったりしていた。
アリシアにも、アリシアが好きな海老の料理とか、パンにスープに飲み物と、手早く持ってきてくれる。
何をそんなに急いでるんだろうとアリシアがぼんやり考えていると、トラーチェさんはアリシアのほうを向いて
「今回はクリーガ様をお嬢様の寄子にする件で、見届け人をローテリゼ様とソーモ様にお願いしておりますからね。
そのことについての御礼を申し上げたり、段取りを相談に、こちらから動かなければなりません。
ゆっくりしていると先方からこちらへ来られてしまうかもしれません。
ちょっと分かりづらいかもしれませんが、この会場の中で、お嬢様が、ローテリゼ様やソーモ様に会うために動かれるのと、ローテリゼ様やソーモ様が、お嬢様に会うために動かれるのでは、会って話ができるという点では同じなのですが、政治的な観点からすると意味合いが少し違ってきます。
お嬢様がローテリゼ様やソーモ様に会いに行けば、それはお嬢様からローテリゼ様やソーモ様に政治的な得点を与えることになりますが、ローテリゼ様やソーモ様がお嬢様に会いに来られれば、逆にローテリゼ様やソーモ様がお嬢様に政治的得点を与えたことになるんですね。
あまり影響力の強くない人同士であれば、パーティーでのおしゃべり程度のことで、別にそこまで気をつかう必要もないのですが、お嬢様ほど目立っていれば、わずかな動きでも、それがある種の政治性を帯び得ます。
今回は寄子のお披露目の件でローテリゼ様とソーモ様にご協力をいただいておりますので、先にお嬢様が動かれたほうが良いでしょう。
ローテリゼ様はこのパーティーの主催ですから、ソーモ様のところにまず移動し、ソーモ様を伴って、ローテリゼ様のところへ行かれるのが良いと思います。
それはお嬢様からローテリゼ様やソーモ様への政治的返礼になるでしょう。
政治、と私が申し上げるのは、それはもちろん少し大袈裟な言い方ではあります。
だって単にお嬢様が誰と親しくしているかを、周囲の方々が見るというだけに過ぎませんからね。
でも、その行為によって、例えばローテリゼ様やソーモ様が、何らかの政治的要求を通しやすくなったり、あるいはそのことに関連して、学園の議会における皆の投票行動が、実際に変わり得るのは事実です。
ですから、やはりそれが政治的行為だと言うのは、いくらか大袈裟ではあっても、間違いではないのです。
さらにもっと申し上げれば、この学園における立場や人間関係の親疎は、学園限りのものではなくて、この帝国における政治の場にも、そのまま持ち込まれるものでもあります」
アリシアにはトラーチェさんが何を言っているのかが分からない。
いや言葉そのものは幾らか分かるけれど、その意味が分からない。
でもトラーチェさんの眼は爛々と輝いていて、すごく……なんというか生気に満ちていた。
だから、たぶんここがトラーチェさんの場所なのだということを、アリシアはなんとなく理解したのだった。
アリシアは元が狩人なので、山に入れば、空模様、空気の匂い、風の方向、動物や鳥の出す音や声、排泄物や足跡、地面や、木の幹、枝の状態なんかを見てだいたいのことが分かる。
それらのもろもろは、アリシアには簡単に分かるまったく自明のことだけれど、トラーチェさんにはおそらく分からないだろう。
しかしパーティーでのもろもろは、アリシアには分からないけれど、トラーチェさんにはまったく当然に、当たり前のように分かることなのだろうと、アリシアはそう理解したのだった。
一生懸命にアリシアやお嬢様が、急いで食べているそばで、トラーチェさんはろくに食べることさえせずに
「パーティーというのは食べたり飲んだりするものではなくて、歩き回ってお話をするものなんですよ」
と、それはそれは楽しそうな顔で言ったのだった。




