閑話:政治の季節のはじまりⅡ-裏面
ヴェヒター・インクルマートが伯爵様に呼ばれたのは、春ごろのことだった。
伯爵様が仰せになることには、伯爵様のご息女であるセラ様が九月から帝国学園に入学するから、ヴェヒターも一緒に入学するようにとのこと。つまりお嬢様の付き人にでもなれという話だ。
あまり年かさのものを一緒に行かせると、それはそれで学生たちだけで政治や統治の練習をしてみるという学園の趣旨に反して外聞が悪いので、若手でないといけないし、さらに学園にある程度以上の期間通ったことがあって学園に慣れている者、となるとなかなかいないらしい。
それでヴェヒターに話が回ってきたということらしかった。
「お前ならまだ二十五歳だからな。中級過程を今からやりたくなったので再入学ということにしておけば問題はない」
ヴェヒターはわりといいところのお坊ちゃんだったから、学園に通ったことがあって、十三歳から十八歳まで六年間かけて標準後期課程を修了していた。
中級過程というと、標準後期課程のその次の過程だから、十九歳から始めて二十二歳とかそこらで終わらせるのが標準になる。
だから二十五歳にもなって、今さら中級過程を始めるというと、だいぶ薹が立っているような気がしないでもないが、まあヴェヒターのような年齢のものもいなくはない。
皆が皆、きっちり十三歳から学園に入ってくるわけでもなくて、もっと年かさになって入ってくるものもいるし、単位をゆっくり取るせいでなかなか課程が修了できないという人もいないでもない。
「分かっているとは思うが娘には手を出すなよ」
と、伯爵様はそれはそれは怖い顔でおっしゃった。
あたりまえだ。
そういうわけで、ヴェヒターのように新たにお嬢様の付き人になったり、あるいはお嬢様の寄子になった連中で、セラお嬢様を護衛しながら、ヴェヒターは学園に向けて出発した。
◆
それで、特に事もなく学園に着いて、伯爵家が学園都市に所有している屋敷に落ち着く。
というのは、伯爵家の一門とか寄子で学園に通っている人達がいるので、伯爵家で屋敷をひとつ持っていて、そこを寮のようにして住めるようにしてあるのだった。
そこにセラお嬢様やヴェヒターたちがさらに入るような格好になる。
それで荷解きをしたり、少し体を休めたりしているうちに、入学式の日になった。
アリスタ・ゲルヴニー・ファルブロール様をお見かけしたのはそのときが最初になる。
入学式のときのパレードで学園にいる貴族たちの中隊が行進するのだけれど、そのときにアリスタ様も中隊を率いて行進しておられた。
そのときにアリスタ様は空を飛んで、それも天竜や飛竜に乗るのでもなくて、ただ自前の術力だけで普通に空を飛んでおられたのだった。
アリスタ様は、まだ幼いのか、体がかなり小さくて、なんだか赤ちゃんか幼児が空を飛んでいるように見えた。
飛竜やらに乗らずに、自力で空を飛ぶというのは、ごく稀にそういうことができる人がいるとは聞いたことがあるけれど、自分を術力の対象にして空を飛ばすのはかなり難しいらしい。
術力の制御がかなり上手くないといけないし、術力自体も相当必要になると聞いたことがある。
少なくともヴェヒターはこれまで何かに乗らずに空を飛んでいる人を見たことはなくて、アリスタ様が飛んでいるのを見たのがはじめてだった。
それでびっくりしたから、周りにいる中隊仲間に、何か知っていることはないかと話を聞いてみる。
すると、たまたま中隊のなかに、その人のお祖父さんの膝の関節炎がどうも良くないので、ファルブロール伯領まで行って、そのアリスタ様に治してもらったとかいう人がいた。
お祖父さんは膝に注射を打って麻酔をかけてもらって、膝を切り開かれ、膝の関節を丸ごと作り直してもらったとかで、膝が痛くて困っていたのが一日で治ってしまったとのことだった。
アリスタ様は森族で、それもたぶん高位の森族だから幼く見えるけれど、治癒の腕前はかなりのもので、さらにかなり大きな荷物袋の異能持ちらしいとか、そんなようなことを教えてくれる。
腕のいい治癒士ということであれば、うちのセラお嬢様も本職は治癒士だし、学園の診療部とかで関わり合いになることもあろうかとヴェヒターは記憶にとどめておくことにした。
◆
それからは、ヴェヒターたちは、約一か月後に迫った演習の準備で忙しくなる。
輸送連隊のほうから貸し出されて、セラお嬢様が所属する大隊に入ってくれる輸送部隊と打ち合わせをしたり、自分たちの中隊でも自前で馬車や物資の手配をしたりしなければいけない。
それに演習で通ることになるルートの各村に、お金を入れた封書を送って便宜を図ってくれるように依頼したり、そんなことをしているうちに、あっという間に時間が過ぎていく。
そうして出陣式の日がきて、セラお嬢様やヴェヒターも自分たちの大隊と一緒に演習に出発した。
それで、中隊の先頭を歩くセラお嬢様の背中を見ながら、お嬢様は大丈夫かなと、ヴェヒターは心配になる。
伯爵家の御令嬢として、蝶よ花よと乳母日傘で育てられてきたセラお嬢様は、長期間の魔獣討伐演習とかは初めてだ。
もちろんセラお嬢様も貴族なんだから、大人になったらいずれは魔獣や野盗や敵国との戦いに出なきゃいけないこともあるかもしれないし、そのためにも今から演習で訓練をするわけで、だからこれでいいんだけれど、それでもやっぱり不慣れなことだろうし、大事なウチのお嬢様のことなのだから、心配なものは心配になるのだった。
◆
演習は目的地の砦までの往路で二十日かかる。
そして、目的地の砦で魔獣を討伐しつつ二十日過ごし、復路で二十日かけて帰ってくる。長い旅路だ。
それで、セラお嬢様は、演習に出たその日と次の日くらいまでは元気が良かったけれど、三日目くらいから、だんだんと口数が少なくなり、疲れた様子を見せはじめる。
一日中ずっと歩いたり、あるいは馬車に揺られていなければならないし、行軍が終わったら、その日の晩に泊まるための野営地を作って、それから馬たちに水を飲ませに連れていき、人間用の水も運んでこないといけない。
それが済んだらさらに食事の用意もしないといけない。
その食事と言ったって、だいたいは乾燥野菜と豆が入った、塩漬け肉で味をつけた麦粥だ。
飲み物は沸かしてから酢と酒を入れた水になる。
はっきりいって旨くはないから、お嬢様も冴えない顔で食べている。
そばについている女達が、ちゃんと体は拭かせているんだろうけれど、それでも風呂に入れるわけでなし、ときおり頭とかが痒そうな様子も見せる。
セラお嬢様は我儘な子ではないから、不満も言わないし、弱音も吐かないけれど、日ごとに疲弊していっているのが分かる。
必要な訓練だというのは分かってはいるけれど、見るに忍びない。
目的地の砦に近づくにつれて、魔獣の襲撃もふえて、怪我人が出れば、セラお嬢様も治癒術を揮って治療をされる。
お嬢様は投射術とか令体術とかはあんまりだが、治癒術は凄い。
血まみれの怪我人なんかに顔を青くしながらも、怪我人を次々と癒しておられた。
でも魔獣の襲撃の頻度が高くなると、寝てるときにしょっちゅう起こされるわけだから、睡眠に支障が出てくる。
そのうえで魔獣の襲撃に対応しなければいけないし、往路の最後のほうは本当にもう大隊の皆してボロボロになりながら、ようやっと演習の目的地の砦に転がり込むようにして入ったのだった。
それでも死者のひとりも出さずに砦に着けたのは、セラお嬢様の貢献も大きいと思う。
◆
砦の中の広場で、割り当てられた場所に天幕を張って、大隊の皆がそこで休んでいると、遠雷のようなたてつづけの爆音が聞こえてくる。
何事かと思ってヴェヒターが天幕から出てみると、砦の広場から、夕焼けの空に演習旅団所属の天竜が舞い上がって飛んでいくのが見えた。
それからしばらくすると、馬や、馬車や、人の足音などが微かに聞こえてきて、砦の門が開くと歓声が上がる。
どうやら最後の大隊が、魔獣と戦闘してから砦に到着したとのことで、その物音だったらしい。
それでまた天幕に引っ込んで休んでいると、今度は地面が微かに揺れるような感触と、ガラガラと崖でも崩れるようなすごい音がし始めた。
何が起こったのかと思ってヴェヒターが天幕から飛び出すと、砦の広場のほうで、大きな土の塊が幾つも空を舞っているのが見える。
なんだアレは、と思って見ていると、その土の塊が成形されて、いくつもの大きな建物や、テーブルや、ベンチになっていくのが見えた。
見た感じ、建物は大きなのが十棟以上もある。こんなことが人間業でできるのか。
轟音をたてながら大きな土の塊が乱舞する様子は、天変地異のように見える。
やがて静かになって、見ると、ヴェヒターは空中に何かが浮いているのに気づく。
近寄ってよく見るとそれは、なんだか森族の赤ちゃんのように見えた。ということはたぶん入学式のときにお見掛けした、アリスタ・ゲルヴニー・ファルブロール様なのだった。
それでヴェヒターが遠目に見ていると、アリスタ様はふわりと飛んでどこかへ行ってしまった。
いったい何だったんだ? とヴェヒターが首をひねりながら天幕のほうに戻ると、そこに討伐演習旅団の本部のほうから、ヴェヒターたちの大隊へ、伝令がやってきていて、伝令の内容は、風呂と夕食の振る舞いがアリスタ・ゲルヴニー・ファルブロール様からあるので来るように、とのことだった。
伝令は、新しく浴場が造成されたので、拭き布と着替えを持って、砦の広場に来るようにとも言っていたので、行ってみるとその浴場というのは、さっきアリスタ様が土を令術で動かして造っていた建物がそうだということだった。
建物は実際にあるのだから、そうだとして単に建物のガワだけではなくて、浴場が突然できあがるなどということは信じられなくて、ヴェヒターは半信半疑でその建物の中に入ってみたけれど、すると建物の中には本当に風呂ができていた。
中は予想外に立派で、しっかり術石の灯りとか薬液まで備え付けられていて、何十人も入れそうな浴槽にはお湯がたっぷり入っている。椅子も桶もちゃんとある。脱衣所さえある。
それで大隊の男女別に別れて、なんだか夢でも見ているような気分で風呂に入り、薬液とお湯があるから、ついでにそこで下着も洗濯して、令術で強引に乾かしてからまた着て、それで出てくると、今度は広場にアリスタ様が造って備え付けたテーブルのほうに行くように言われた。
広場にはテーブルが何百人分もあって、人がいっぱいに座っている。
きょろきょろとしてみると、セラお嬢様と中隊仲間でかたまっているところを見つけたから、そっちに行って席に着く。
ふたつ置いた斜め向かいの席にセラお嬢様が座っていて、中隊の皆と話をしていた。
なんだか青白い顔をしていたのが、風呂に入ったせいか、頬に赤みがさして血色が良くなっている。
それに表情も楽しそうに、元気そうになっていて、風呂に入ったせいか異臭がしなくなっていい匂いにもなった。
少し待つと、アリスタ様が、まるで鳥みたいにすいすいとこっちに飛んできた。
それで「いまからばんごはんをだすからね」とおっしゃってテーブルの上に滑り込むように漂ってくる、とガチャン、ガチャン、ガチャンという音が連続して聞こえた。
すると、皆の目の前には魔法のように、食事が載ったでっかいトレーがそれぞれ置かれていたのだった。
トレーの上には皿が幾つもあって、
ソテーしたらしき貝類をのせたサラダ。
レバーか何かのテリーヌとソテーしたアスパラガスにクリームソースをかけたもの。
何かの魔獣肉のステーキと焼いた野菜。
何かのグラタン。それに野菜のたっぷり入ったスープ。
林檎らしきもののタルト。カラメルのかかったプリン。それに葡萄が数粒。
手のひらくらいある丸パンが二つに、ウズラの卵より少し大きいくらいのバターの塊。
それとやたらとでっかいコップが三つあって、それぞれ赤いワイン、お茶、水が入っていた。
あとカトラリーが添えられている。
一瞬、何が起こったのか分からなくて、隣や向かいの席のやつと顔を見合わせてしまう。
「たべられないものがあるひとはべつのものにかえるから、またいいにきてね」
とアリスタ様はそう言うなり別のテーブルのほうへ飛んでいってしまった。
それでアリスタ様が飛んでいったほうを見ると、向こうにあるテーブルの上で、またガチャン、ガチャンと音をさせていらして、アリスタ様が飛び去った後ろには魔法のように連続的に食事が載ったトレーが出現している。
食べていいのかなと思って周りを見回していると、アリスタ様のいる方向から順送りで
「後ろがつかえてるからさっさと食べろ」と伝言が流れてきたので、あわててフォークを手に取って食べ始めた。
久しぶりのまともな食事に、ほとんど手が震えるような嬉しい気分で、まずはサラダにフォークを刺して食べる。
瑞々しい新鮮な野菜だ! サラダの上に乗っているソテーした貝からはバターの香りがする。
その貝を口に入れて噛み締めると、磯の匂いが鼻へ抜けて、一瞬自分がいまどこにいるのか分からなくなった。
なんで砦のなかで磯の匂いがするんだろうとぼんやり思う。
レバーのテリーヌは冷たく、ソテーされたアスパラガスは暖かく、ステーキも、焼き野菜も暖かい。
ジャガイモのグラタンと、野菜スープはやけどしそうなくらい熱く、プリンと葡萄は冷たく、パンとお茶は暖かく、ワインと水は冷たい。
ああ、本当に旨いなあと思って、思わず落涙したら、セラお嬢様もちょっと涙をこぼしていた。
暖かいものは暖かくて、冷たいものは冷たい、本当に美味しいなあ、と思ったところで、背筋がぞわりとした。
なんでこんな今作ったみたいな料理がでてくるんだろう?
今食べた貝からは、磯の香りがしたということはあれは海の貝じゃないか。
なんで海産物がこんなところにあるのか。
それはつまりアリスタ様の荷物袋の異能は時間が止まるのでは……?
深く考えるとなんだか髪の毛が逆立つような気がしたので、ヴェヒターは考えるのをやめて食事に専念した。
◆
食べ終わると、たったいま風呂から出たらしき人が、食事をとるべくやってきたので、ヴェヒターたちは慌てて席を立ち、アリスタ様が土を令術で捏ねて新しくお造りになった洗い場に食器類を持っていって順番に洗った。
洗った食器類は、アリスタ様が令術で大きな桶を作って、そこにいっぱい水と食器を入れて、令術を上から撃ち込んでお湯を作って煮て消毒しておられた。
アリスタ様は、まったく自由自在に令術をお使いになる。
何をしておられるのかは分かるけれど、浴場の件といい、そんなことを実際にできるとはと驚愕するばかりだ。
結局のところ令術とは、温度や光や物体の運動といったものを操作する技術だから、もちろんそれで土を動かしてテーブルや椅子を造ったり、果ては建物を作ったりも、理論上はできる。
熱を操作する技術でもあるから、風呂の湯を沸かしたりとかも、術力が強ければ、できるはずではある。
でも何十人も入れるような浴場を、それもきちんとしたものを十棟以上も建てて、その浴場に巨大な浴槽を造って、そこに大量のお湯を張るなどという、あまりにも大規模かつ高度なことをアリスタ様は息を吸うようにしてしまうので、もはや我々の使う令術とは全く別物であるかのようにすら見えた。
◆
今日は砦の中なので、夕方になっても野営地の造成をする必要もないし、夜の食事はアリスタ様が出してくださったので、もう終わってしまった。
あとは水や草を馬にやったら今日の用事が済んでしまう。
それで見張りの当番が当たっている者以外は、天幕の中で久しぶりにのんびり休んでいると、また旅団の本部のほうから連絡があって、アリスタ様がお酒とかおやつを振る舞ってくださるから、食べたいものは食べに来いとのことだった。
そんなもの行くに決まっている。
それで中隊の皆でまた繰り出すと、今度はアリスタ様が、土で造ったらしき大きな台の上に、パイやらタルトやらケーキやら、あとウイスキーやらワインやらのお酒に、珈琲にお茶にジュースと、山のように積んでおられた。
あと、あっちこっちに焚火があって、そこで魔獣肉らしきものが焼かれている。
食べる分だけ好きに取って、席について食べるように、とお達しがあったので、色々ありがたくいただいて席に付いた。
そこへアリスタ様がけっこうな勢いで飛んでこられて
「アイスクリームがほしいひとはてをあげて!」とおっしゃった。
そんなものまで食わせてくださるのかとびっくりしたけど、皆で手を上げる。
すると、アイスクリームが入った人数分の小鉢とスプーンを、荷物袋の異能から、テーブルの上にお出しになり、物も言わずに別のテーブルにすっ飛んでいってしまわれた。
二千人以上の人に食事やアイスクリームまで面倒をみてくださるのだからさぞ大変だろう。
奇妙なことには、その出してくださったアイスクリームは黄色味がかった白の普通のやつ以外にも、様々な色のものがあって、皆で少しずつ味見をしてみると、ミルク、苺、蜜柑、林檎、桃、無花果、枇杷、お茶、チョコレートとか色ごとに色々な味があった。
ヴェヒターは普通のミルクの味のアイスクリーム以外のアイスクリームなんてものがあるとは知らなかったので驚いたけれど、食べてみると実に美味しい。
特にチョコレートのやつがすごく美味しい。
ヴェヒターは、アイスクリームを食べて、珈琲を飲んで、焼いた魔獣肉をツマミに、アリスタ様が出してくださったウイスキーを、ゆっくり飲んでいると、疲弊した体と精神がしみじみと癒されていくのを感じた。
セラお嬢様のほうをちらりと見てみると、お嬢様は何かのタルトを食べながら、飲み物を片手に、楽しげに近くの席の寄子と話をしていた。
お嬢様もだいぶん元気が出たらしい。ありがたいことだ。
◆
アリスタ様が、食事丸ごとのお振舞いをしてくださったのは、砦に着いた日だけだったけれど、その次の日からも、食事の時間ごとに、新鮮な野菜や果物、ケーキやパイや菓子類に、パンに酒にジュースにミルクまで、広場のほうに土を令術で練って作った大きな台の上に、大量に出しておいてくださるのだった。
それに風呂の振る舞いは毎日してくださる。
砦の広場にいくつもお作りになった浴場に、毎日お湯を張ってくださるどころか、皆が交代で風呂に入るその合間に、お湯を一日に何度か替えてさえくださる。
荷物袋の異能持ちというのは珍しいからそもそも数がほとんどいない。
そしてその数少ない荷物袋の異能持ちでも、だいたいは、大きめの樽が一個分とか、ワインの空き箱くらいとか、それくらいの容量がほとんどらしい。
それくらいの容量でも、荷物袋の異能に入れている物は、重さを感じないし(拷問や脅迫で荷物袋の異能に入っている物を出すように強要されたりしないかぎりは)他人に奪われたりもしないから重宝される。
そしてこの異能が強力な場合、たとえば馬車くらいとか、ちょっとした部屋くらいの大きさになってくると、軍とか輸送関係の仕事に引っ張られることが多い。
ではアリスタ様はどうか。
旅団の皆に行き渡るだけの食事を用意してくださったり、毎日大量の食材や菓子や酒をくださったり、旅団の全員にお風呂を毎日用意してくださったりする。
それらに必要な食材や水を荷物袋の異能から出しておられるわけだから、とんでもない容量であろうことが想像できる。
さらに聞くところでは、砦に到着するまでの行程も、アリスタ様はご自分の所属する六百人近い大隊を、食事と風呂でずっと養っておられたとか。
もう途方もない。というか風呂をいれるための水を荷物袋の異能に入れて持ち運ぶ人は初めて見た。
しかもできたての食事や、収穫したばかりのような野菜や果物や、溶けていないアイスクリームを出してくださるということは、さらに貴重な時間停止の効果がアリスタ様の荷物袋の異能にはあるということになる。
これは大変なことではないか。
それだけでなくて、アリスタ様が、途中で大怪我をして体が半分になってしまった人を、治癒術で元通りにしたとか、そんな話も聞こえてくる。
うちのセラお嬢様だってかなり強力な治癒士だけれど、それでも体が半分になった人を元に戻すなどということはとてもできないだろう。
アリスタ様は、荷物袋の異能だけでも大変なのに、さらに治癒術までとんでもないらしい。
そして演習の目的地にある砦に入って、一日休んで、その翌日から本格的に魔獣討伐が始まると、アリスタ様が、さらにさらに、とんでもないことがだんだん分かってきた。
ヴェヒターたちの大隊は、治癒術士のセラお嬢様が中心の部隊なので、飛竜や走竜や騎馬や馬車に分乗して砦の門から砦の外に出ると、そこでセラお嬢様をがっちりと囲むようにして陣形を組み、それから討伐行に出撃する。
それで砦の門のところで、門を通るための順番待ちをしていると、アリスタ様がお供の飛竜を左右に二頭ずつ引き連れて、なんだか金色の輪っかみたいな形の令術の補助具らしきものの中に入って、門は通らず、砦の壁を飛び越えて出撃していくのが見えた。
皆で手を振ると、手を振り返してくださるのがかわいい。
それでヴェヒターたちが砦の外に出て、空を見回すと、アリスタ様はだいたい空を飛んでいるので、見通しのよい場所だと、アリスタ様が見えたりすることもある。
自分たちも魔獣を捜索しながら、ヴェヒターがちらちらと観察していると、アリスタ様が高い場所から光球を撃ち放って魔獣を狩っているのが見える。
その光球の色はいつも白で、爆発もかなり高威力なように見える。
ぼつぼつ撃っているときもあるけれど、魔獣の群れでも見つけたのか、その白い光球を突然何十個も出してぶつけたりしておられることもある。
攻撃用の光球は、色が 赤黒、赤、黄、白、青白、と威力が上がっていく。
ヴェヒターは投射令術が苦手ではないけれど、それでも色は赤と黄の間くらいが精いっぱいだし、数も三つ以上は出せない。
白いのを何十も同時に行使するのは、ちょっと尋常ではない。
つまりは、荷物袋の異能も、治癒術も、投射令術も、そのすべてが普通じゃないということになる。
そうだとすると総合して戦力評価ではどれくらいになるのか想像もつかないくらいだ。
◆
それで演習の目的地の砦で、所定の二十日を魔獣狩りをして過ごして、それから旅団の皆で砦を出発する。
行きと同じように、道が分かれるごとに部隊も分かれていく。
二回目の分かれ道で、皆で手を振りあって、アリスタ様のいる大隊と別れたときに、アリスタ様たちの大隊が遠ざかっていく後ろ姿を、セラお嬢様が名残惜しげに見ていたから
「大丈夫ですか?」
とヴェヒターはお嬢様に声をかけてみた。
するとセラお嬢様は振り返り、明るい表情で
「大丈夫よ。アリスタ様がしばらく休ませてくださったもの。
だから、あと二十日だけがんばれるわ」
とおっしゃった。
確かにセラお嬢様は、砦に着いたときより、砦を出た今の方がだいぶん元気そうに見える。
◆
それから、少し危ない場面もあったりしたけれど、所定の二十日をかけて復路をこなし、なんとか無事に、死者を出さず大隊全員で学園の近くへたどり着いた。
大隊ごとにばらばらに行軍していた部隊が、徐々に合流して元の旅団に戻っていく。
そうして、分かれた道の向こうから、アリスタ様のいる部隊もやってきた。
アリスタ様のいる部隊は何百人もいる大きな大隊で、六本腕のセックヘンデ殿がいるから遠目からでも見ればすぐわかる。
アリスタ様のそばには何とかいう大鬼族も控えていたはずで……隊列にさっと目を走らせると、真ん中のあたりに大鬼族らしき巨体がいて、その横を走っている馬車に、アリスタ様が豚鬼族らしき女に抱かれて座っていた。
討伐演習で街を出たときと同じ順番で部隊を並べて、街に入らないといけないので、こちらの大隊が道を空けて、アリスタ様のいる大隊に先に行ってもらう。
手を上げて挨拶してくれながら、目の前を通り過ぎていく大隊を見ていると、自分たちのように不潔で垢じみていたりはしないし、血色も良い。
うちの大隊と比べて明らかに元気が良さそうだ。
砦を出てからもアリスタ様に世話をしてもらっていたんだろう。羨ましい。
◆
それから何日かして、勲章の授与式があったけれど、アリスタ様は高級な勲章をいっぱい貰っていた。
魔獣から採った術石からの納税額でも断トツで一位で、さもありなんとは思ったけれど、天竜を二頭も単独討伐とは何か。
それも凄まじいけれど、まだ他に一頭天竜がいたらしいし、野生の天竜があわせて三頭もうろついていたとか。そんなのがこっちに来たら誰か死んでいたかもしれない。
いちばん強いアリスタ様のところに行ってくれて助かった。
◆
それから何日かして、診療部で新入生歓迎の昼食会があるとのことで、招待状が届いた。
診療部の副部長であるダーム侯爵家の公女ローラ様の主催ということで、それで中隊のうち、新入生は全員と、在学生は手すきの者たちで出かけた。
会場のダーム侯爵家のお屋敷に着くと、くるくると巻いた豪奢な金髪のローラ様が自ら出迎えてくださった。
それで、皆でご挨拶をしてから部屋に案内され、そこで昼食会が始まるまで少し待つ。
そのうちに会場の入り口のところで、出迎えをされていたローラ様が、アリスタ様を抱き上げて戻ってこられて
「もう揃ったからもう始めるわよ!」とおっしゃった。
アリスタ様がたぶん主賓だろうから来られるのを待っておられたんだろう。
最初は診療部の部長で、長い黒髪が麗しい、ハウル子爵家公女のランナ様がご挨拶に立たれる。
その後に新入学生の自己紹介ということで、うちのセラお嬢様が最初に呼ばれた。
椅子をテーブルのそばに持ってきて休んでおられたお嬢様は、すらりと姿勢よく立って
「オーラ伯家公女、セラ・ヤント・オーラといいます。
寄子たちと中隊を率いておりますので、中隊のものと何か問題などありましたら、私までお知らせください。
好きなことは治癒術で、得意なことは……治癒術だと思っていたんですけど、先輩の皆さまは治癒が上手だし、色々とすごい話も聞こえてきて、私くらいの実力では治癒が得意とまではいえないのではないかと思い始めました。皆様どうぞよろしくお願いいたします」
アリスタ様のほうにちらりと視線を流して、そう言ってから席にまた座った。
うちのお嬢様も、まだ十四かそこらなのに実に堂々と挨拶していて、言葉づかいもなんだか大人のようで、こういうところは、貴族のお嬢様というやつだなあとヴェヒターは感心する。
「いやいや、演習中も見てたけどセラちゃんの治癒は上手だったわよ。得意だと言っていいと思うわ」
……じゃあ次の人お願いね」
ローラ様はそんなふうに言ってくださる。
確かにうちのセラお嬢様の治癒術は優れていると思う。得意じゃないなんてことは絶対ない。
単位時間あたりの術力も強いし、術力あたりの治癒効果も高い。
演習のときにも大隊の真ん中に陣取って、延々と負傷者を治癒し続け、おかげでうちの大隊は不死ででもあるかのように戦い続けられたのだから、持久力もある。
ヴェヒターは治癒が専門じゃないので、あまりよく分からないが、大隊にいる別の治癒士の言うところでは、セラお嬢様は、戦力評価で最低でも二万は堅いし、たぶん二万三千から二万五千くらいはもらえるだろうとのことだった。
戦力評価が二万三千もあれば、だいたい伯爵級ということになる。
お嬢様は治癒術以外はあんまりだから、戦力評価の内訳はほとんど治癒術だけだろう。
評価が低くなりがちな治癒術でそこまで戦力評価が稼げるとなると、逆に言えばセラお嬢様の治癒はとてもすごいということになる。
だからアリスタ様がちょっとおかしいのであって、あんなとんでもない方と比べて自信喪失などするべきではない。
昼食会が終わったらちょっとお嬢様にそう言っておかなきゃならないなとヴェヒターが考えていると、うちの中隊の新入学生の自己紹介が終わって、次はアリスタ様の番になる。
アリスタ様はその場でふわりと浮かび上がって話しはじめられた。
「ファルブロールはくしゃくけこうじょ、アリスタ・ゲルヴニー・ファルブロールです。
すきなことは……」
アリスタ様はそこで言葉を切って少し考え込んで
「……とくにないです」と続けた。
それから
「とくいなことは、アイスクリームづくりです!」と嬉しそうに仰せになる。
治癒術とかの令術じゃないのか……とヴェヒターは思った。
たぶん会場にいる皆がそう思っただろう。
「え、そうなの?」とローラ様がお聞きになる。
「ローラもわたしのつくったアイスクリームをえんしゅうちゅうにたべたでしょ」
とアリスタ様がおっしゃった。
「あれアリスタちゃんのお手製だったのね。あれは確かに美味しかったわ」
ローラ様が意外そうにおっしゃるが、ヴェヒターもお屋敷のコックにでも作らせたか業者から買ったものをご馳走していただいたのだと思っていた。
「ここにらんおうがあります。まぜてえきじょうにしてあります」
アリスタ様はそう言うと、ご自身の手のひらの上に空中に浮かぶように、ひと抱えほどもある黄色い球のようなものをお出しになる。
「これがさとう、なまクリーム、ぎゅうにゅう」
アリスタ様はそうおっしゃって、大きな白い球をさらに三つばかり連続で、お出しになった。
皆あっけに取られて見ているが、液状のものや粉状のものを令術で保持するのは難しい。
しかもあんなにたくさんの液状や粉状のものを、それも複数同時にというのはあり得ない。
アリスタ様は、ご自分が確かにアイスクリーム造りが得意なのだと証明なさるおつもりなのか、それらの材料を、令術を駆使して、空中で! 混ぜたり捏ねたり温めたり冷やしたりなさって、あっという間にアイスクリームを造ってしまわれた。
いったい幾つの令術を同時に行使なさっているのだろうか。
しかも材料は卵とか生クリームとか牛乳とか鮮度が必要なものばかりだ。
つまりはアリスタ様の荷物袋の異能がなければこんなことはできようもない。
今使っている大きな丸テーブルより、まだずっと大きいくらいの直径がある、球状の巨大なアイスクリームの塊が宙に浮いている光景は、ひどく奇妙だ。
アリスタ様は、おそらく荷物袋の異能から、銀色のスプーンを取り出すと、そのできあがったアイスクリームの塊の表面を削り取るように、手ずからひと匙取って、ローラ様のところへ漂っていかれた。
スプーンを受け取ってぱくりと食べたローラ様は
「あ、美味しい。演習のときに食べたのと同じ味ね!」とおっしゃった。
アリスタ様は満足そうにうなずかれる。
「ローラがいいっていったらしょくごにでもみんなにこれをだすわ」
とアリスタ様が気前よく言ってくださる。
「いいにきまってるわ! ありがとう!」とローラ様も同意され、皆から歓声が上がる。
食事がひと通り終わると、食後の暖かい珈琲やケーキや果物とともに、皆に空の皿とスプーンが配られた。
食べられるだけアイスクリームを削り取って食べていいとアリスタ様が寛大にも言ってくださったので、セラお嬢様は、寄子の皆さんを引き連れて、喜び勇んでアイスクリームのほうに行った。
もちろんヴェヒターも後を追う。
空中に浮いている巨大なアイスクリームの塊から削り取るという体験は初めてだ。
せっかくだから多めに削って皿に盛り、席に戻っていただく。
ねっとりとしてなめらかで、粗悪なアイスクリームによくある氷のガリガリした部分がまったくない。非常に旨い。
確かに演習のときに食べさせて頂いたのと同じ味だ。
令術でアイスクリームを造るというと、それだけ聞けば奇妙な話だが、アリスタ様が見せてくださった技は、特別な荷物袋の異能と、極めて高度な令術の腕がなければできないことではある。
これはもうアリスタ様にしかできない芸術といってもいいくらいだし、得意なことがアイスクリーム造りとおっしゃるだけのことはあると、ヴェヒターはアイスクリームを食べ終わって、少し冷えた体を珈琲を飲んで暖めながら、そう考えたのだった。
■tips
主人公であるアリシアたちのいる西方帝国においては学位の制度は下記のごとくなっている。
学位名称 日本の学位との対称 標準年齢
標準前期課程 小学校 7~12歳
標準後期課程 中学校~高校 13~18歳
中級課程 大学学士 19~22歳
上級課程 大学修士 23~24歳
最上級課程 博士課程 25~27歳
なお、学園で提供される授業は標準後期課程(現代日本で言えば中学校~高校)からであり、これは任意の付加的なものである。
標準前期課程(現代日本で言えば小学校相当)については、国立の幼年学校における六年間の基礎教育、あるいはそれと同等程度の家庭教育、もしくは私塾における教育を子女に受けさせることが西方帝国国民に推奨されている。
それで、今回の話に出てきたヴェヒターさんは、標準後期課程すなわち現代日本に引き直せば高卒程度まで学園で勉強し、そこで卒業して、それから伯爵様のお屋敷に奉公にでたことになる。
そして今回、セラお嬢様の付き人として学園に付いてくるために、学園に再入学して、新たに中級過程(現代日本に引き直せば四年制大学に相当)の履修を開始した。
なお、アリスタお嬢様の寄子のひとりであるところのトラーチェさんは、上級課程つまり現代日本で言えば修士課程まで修了して終わっている。
なお、上級課程の修了が難しくて大変だったので、最上級課程(博士課程に相当)については学位の取得を断念しており、最上級課程には進んでいない。
学籍は保持したまま聴講生の身分で、アリスタお嬢様の寄子をしている。
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