ハーフオーガのアリシア53 ― 野営と音楽 ―
軍人さんたちが帰っていって、それから皆で食べたプリンとかの食器を洗って片付けて、それからしばらくゆっくりしたところで
『出発準備! 出発準備!』というような声が聞こえ始めた。
それで背の高いアリシアと、馬人族だから、やっぱり背の高いウィッカさんで、タープやロープを馬車や立木から外して巻き取る。
お嬢様が土から作った椅子やテーブルにかけていた布をアイシャさんが取って片付けると、お嬢様が椅子とテーブルを崩して土くれにもどしていく。
それを黒森族のコージャさんや、トラーチェさんや、コロネさんが適当に均してくれた。
それから馬を馬車に繋いで、ウィッカさんは自分を馬車に繋げて、あっという間に準備ができる。
周りを見回すと、エルゴルさんの姿が見えたから、近くで後に続くように並ぶと
『出発!』という掛け声が前の方から聞こえてきて、それで列が動き始めた。
大隊は、森のそばを離れて、街道に戻ってから進み始める。
人だけじゃなくて、馬も、馬車も、竜も、といっぱいいて、かなりの車列になっているから動きは遅く、ごくゆっくり歩くくらいの速さになる。
それで、いつの間にか列の間隔が詰まっていて、エルゴルさんの後ろ姿がごく近くまで来ていた。
エルゴルさんは、アリシアに気づいたのか、歩調を緩めて近寄ってきて
「さっきの出陣式での喊声は懐かしかったです。
私が大鬼族の里を出て以来ですから、もう何年になりますかね。
十五年以上聞いてなかったのを、久々に聞きました」
と話しかけてくる。
アリシアは何のことを言われているのか分からなかったので、よく聞いてみると、街の競技場を出るときに皆で大声を出したアレのことを言っているらしかった。
「本当は声を出すつもりは無かったんですけど、皆の声を聞いていると、なんか心がむずむずして、気が付いたら大きな声がでてました。
……あれはなんだったんでしょう?」
アリシアがそう聞くと、エルゴルさんは一瞬だけ目を見開いて、それからパッと笑顔になって
「あなたはまるで大鬼族じゃないみたいに見えますけど、あなたもちゃんと大鬼族だったということですよ。大鬼族ってのはそんなものです」
そう言ってから、演習でもよろしくお願いしますね、と付け加えて、手を振ると列の前の方に戻っていった。
アリシアはエルゴルさんに手を振り返しながら、そう言われてみれば、自分は大鬼族について何も知らないのだということに気が付いた。
アリシアの周りにいた大鬼族は父親ただ一人しかいない。
他の人たちは只人がほとんどで、たまに豚鬼族の人がいたりとか、土鬼族とか鱗人族の人がいるくらいのものだった。
『大鬼族ってのはそんなもの』とエルゴルさんは言ったけれど、大鬼族ってどういう生き物なんだろう、とアリシアは我が事ながら、初めてそのようなことを考えたのだった。
◆
さらに二時間くらい進み、少し陽が傾いてきた夕方の早い時間。
大隊の列は道から外れて少し歩き、近くに小さな小川があって、少しだけ高くなっているところで停まる。
それから長く伸びた列を崩して、中隊ごとの塊にばらけてそれぞれ適当に場所を取った。
すると「かべをつくったほうがいいかきいてきましょう」
お嬢様が言ったから、お嬢様を抱っこしたアイシャさんと、アリシアと、コロネさんと、あとトラーチェさんを連れて、ローテリゼ中隊の旗を探して、大隊の隊長であるローテリゼさんのいるだろうあたりを目指す。
アリシアたちは、ご領主様のお屋敷から、学園都市に来るまでの旅行で、どこか途中の村で宿とか取るとき以外は、お嬢様が夜ごとに令術で土を動かして、砦のようなものを造ってくださったから、あれのことかと見当がついたけれど、トラーチェさんはあれを見たことがないので、お嬢様が何のことを言っているのかあまりよく分かってないみたいだった。
お嬢様のあれは控えめに言って天変地異みたいだけど、せっかくだからトラーチェさんにも驚いてもらおうと思ったので、アリシアはトラーチェさんに何も教えてあげずに、何食わぬ顔をしていることにする。
壁の長さはどれくらいがいいかとか、ごにょごにょとお嬢様が、ローテリゼさんとかエルゴルさんと話していたけれど、そのうちに話が終わって、お嬢様がアイシャさんの腕の中から飛び出して空高く舞い上がった。
そしてそのまま百メェトルほども向こうにすっ飛んでいったかと思うと、今度は土砂崩れとか鉄砲水のときのような、不穏な地鳴りの音がした。
それから少し地面が揺れたかと思うと、ビキビキという何かが割れるような轟音とともに、大きな土砂の塊が高々と吹き上がるようにして持ち上がった。
お嬢様はすいすいと空を飛んで、それについていくように、土砂が大きく抉れる。
そうして抉れた場所の内側に、持ち上がった土砂が落ちて積みあがって、どんどんと壁を作っていく。
音と振動がひどくて、それが連続するので馬や竜たちが暴れだすのを皆が抑えている。
そうしてアリシアたちの立っている場所を中心にぐるりと四角く囲むように、三階建ての建物の屋根ほども高さがある壁ができあがる。
広さは二百メェトル四方もあるだろうか。
お嬢様は壁に沿って飛びながら、できあがった壁の表面をきれいに均していき、ときおり、ドン、という大きな音をたてては、壁の四方にそれぞれひとつずつ、出入り口の穴を開ける。
お嬢様がそのへんの土を使って砦のようなものを造るのは、アリシアたちは何度も見たことがあったけれど、これを初めて見たであろうトラーチェさんは、その場で腰を抜かしてへたり込んでいた。
とは言っても、ご領主様のお屋敷から学園都市に来るまでの間にお嬢様が造ってくださった砦は、馬車が何台かと馬が数頭、それに人が十何人か収容できるくらいの大きさのものだったから、今回の砦ほどは大きくない。
人が何百人に馬が何百頭、それに馬車も百台以上入るような、これほど大きな砦をお嬢様が作るのを見るのは、アリシアたちも初めてだったりする。
やがて砦を造り終わったらしいお嬢様が、またふよふよと飛んで戻ってきて、アイシャさんの腕の中に収まった。
ざわざわと皆が驚きにざわめく中で、ローテリゼさんが大まかに砦の中での中隊ごとの区割りを決めてくれる。
アリシアたちの中隊が、人数が一番少ないからか、割り当てられた場所が、砦の中心になっていて、そのアリシアたちを取り巻くような感じで、他の中隊が放射状に配置される。
それから皆で天幕を張ったり、馬車から馬車へタープを張ったりして、まずは寝床の用意を整えた。
その後、お嬢様が出してくださった水を馬にやり、お嬢様が出してくださった食事を食べる。
砦の下の方にある小川まで馬に水を飲ませに行ったり、食事の準備をする手間が無いだけ、時間に余裕ができたから、食後に皆で珈琲を飲みながらまったりしていると、お嬢様が
「おふろをつくってくるわね」と言うなり、砦の壁を越えて飛んでいってしまった。
慌てて素早く相談して、黒森族のコージャさんと、コロネさんと、豚鬼族のアイシャさんを留守番に残すことにして、その他のアリシアと、馬人族のウィッカさん、それとウィッカさんの馬部分の背にトラーチェさんを乗せて、お嬢様を追いかける。
そうして砦の壁を、出入り口のところから抜けると、お嬢様は、砦の壁の前にある、砦の壁を作るときに土を取ってできた深い堀の中に降りていた。
「何やってるんですかー!」とトラーチェさんが堀の傍から下を見ながら呼びかけると
「おふろをつくるつちをとっているのよー!」と堀の底にいるお嬢様から返事があった。
堀の底をうろうろしているお嬢様をよく見ていると、お嬢様が堀に沿って移動すると、その移動したところの堀が深くなっているのにアリシアは気が付いた。
つまりその堀が深くなったぶんだけ、お嬢様が土を荷物袋の異能かなにかにしまい込んでいるのかもしれない。
やがてお嬢様は必要なだけの土を取り終わったのか、ふわーっと浮かび上がってきて、トラーチェさんに捕まえられると、そのまま抱っこされて砦の中に戻った。
天幕や馬車のあるあたりに戻ると、お嬢様はトラーチェさんからアイシャさんに引き渡されて、アイシャさんに「勝手に飛んでいかないでって言ったでしょう」とかいって怒られていた。
「じゃあ場所の相談をしてきましょう!」
そう言ってコロネさんが嬉しげに駆け出し、それに続いてアイシャさんもお嬢様を抱っこしたまま後に続いて歩き始めた。
アリシアとトラーチェさんが後に続く。
隊長のローテリゼさんのところまで行くと、彼女は同じ中隊らしき人たちと焚火を囲んで椅子に座っていた。
外向きに話をするときは、いつもだいたいトラーチェさんが話してくれるものだったけれど、トラーチェさんは何のことなのか、あまりよく分かっていないみたいで、だからかわりにコロネさんとお嬢様が隊長さんに話してくれた。
お風呂を作りたいと言われて隊長さんもあんまりよく分かっていないみたいだったけれど、とにかく空いてる場所にお風呂を作っていいことになった。
隊長さんやそのお仲間の皆さんが見守るなかで、お嬢様が手から土を出して壁を作り、建物を作っていく。
浴槽がここで、とか脱衣所がここでとか、お嬢様はアイシャさんとコロネさんと相談しながら手早く作っていく。
わりと慣れているような感じを受けたから、ちょっとアイシャさんに聞いてみると
「魔獣が出たとか洪水になったとかで、どこかの村の人たちが避難するとかいうときには、お嬢様がこうやってお風呂も作ってくださるのよ」
とのことだった。
お嬢様からは風呂でもなんでも出てくるらしい。
細かいことには、お嬢様は桶や椅子まで作って、最後に荷物袋の異能から出した水を浴槽に溜めてから、そこに光球を放り込んで温めて、それで風呂場が完成した。
風呂場の中を隊長さんたちが見て、それからお嬢様とトラーチェさんと相談をして、それで今建てたのと似たような風呂場をお嬢様が男女ごとに四つずつくらい作って、それで皆が交代でお風呂に入るようになった。
設計が決まってしまえば、お嬢様は土から、ほとんど一瞬でお風呂場を作ってしまうので、すごいものだと思う。
作ったものが一番風呂を使いなさいと隊長さんが言ってくれて、それでコロネさんと黒森族のコージャさんと馬人族のウィッカさんを、風呂は後から入ってもらうことにして、留守番に残し、お嬢様とアリシアと、豚鬼族のアイシャさんとトラーチェさんで先に風呂に風呂に入らせてもらうことになった。
手や顔を洗うように持ってきていた薬液と、体を拭こうと思って持ってきていた拭き布を手にして、それで風呂に入る。
風呂の建物の中は、壁に埋め込まれた術石と、壁の上の方の湯気抜きと兼用の明かり取りの窓からの光で明るかった。
服を脱いで脱衣所の棚に置くと、自分は狩りに来たはずなのになんでこんなところで裸になっているんだろうと奇妙な感覚を覚える。
同じく裸になったぷにぷにのお嬢様を抱っこして、浴室に入ると湯気の匂いがして、ますます感覚が混乱する。
アリシアは、まずは洗い場で、お嬢様が造った、土でできた背もたれのない椅子に座る。
そしてアリシアは、手とか顔を洗うために持ってきていた薬液の入った箱を、腕輪の中に入れて持ってきていたのだけれど、それを体を洗うために使っちゃおうと、薬液の入った箱を腕輪から取り出して開けたのをお嬢様が見ていた。
するとお嬢様は
「それっぽっちじゃすぐなくなるわ」
とおっしゃって、アリシアに薬液の箱をしまうように言うと、ご自分の異能から、でっかい箱に入った薬液を出してくださった。
お嬢様は「これをほかのふろばにもおいてこなくちゃいけないね」
と言っておられたけれど、そんなところまで心配しなくちゃならないお嬢様も大変だ。
それで、お嬢様を洗うためにアイシャさんはお嬢様を受け取ろうとしたけれど、アリシアはお嬢様を渡したくなかったので、それを断って自分でお嬢様を洗う。
拭き布を濡らして薬液を付けて、それでお嬢様を擦って、お嬢様が土から作った桶で、お湯を汲んで流す。
流したお湯が浴室の中央の地面の網のようになったところに流れて消えていくから、お嬢様に
「あれどうなってるんです?」と聞くと
「あのあみのしたにふかいあながあいているのよ」と教えてくださった。
洗い終わったお嬢様を名残惜しいけれども、自分の体を洗い終わったらしいアイシャさんに渡し、それからアリシアは自分の体を洗う。
体を洗い終わって浴槽の、お嬢様がアイシャさんに抱っこされて入っている、その隣に座ると、やっぱりアリシアには浴槽が浅くて腰までしかお湯がなかった。
けれども、お嬢様が令術でお湯を操って、全身が覆われるようにしてくださって、よく歩いた体にお湯の暖かさが染みる。
「もっとふかさのあるよくそうもつくらないといけないわね」とお嬢様が言ってくださった。
あまり気を使っていただくのも心苦しいことだったけれども、馬人族のウィッカさんが、ご領主様のお屋敷のお風呂で苦労していた覚えがある。
それで、アリシアがそう言うと
「わかった。ケンタウロスようのふろばをつくるわ」と言ってくださった。
お嬢様は優しくて面倒見がいい。見た目は赤ちゃんなのに。
風呂からあがって、きれいな下着に着替えて、爽快な気分になって、それからお嬢様が荷物袋の異能から出してくださった体を洗う薬液を、お嬢様が造ったあっちこっちの風呂場に配っていく。
女の人用の風呂場だと中に入って渡せばいいんだけれど、アリシア達は女ばかりなので、男の人用の風呂場にはちょっと近寄りがたい気がする。
別に中に入らなくても、入口のあたりにいる人に渡すしかないからそれでいいのだけれど、ちょっと気が引ける感じがあった。
お嬢様なら見た目が赤ちゃんだから、中まで入っていってもいいのかもしれないけれど、まさか一人で突撃させるわけにもいかない。
「アリスタ・ゲルヴニー・ファルブロール様より薬液の差し入れでございまーす!」
などとトラーチェさんがわざとらしく言っているのを見ると、トラーチェさんも同じような気持ちなんだろうと思う。
それからお嬢様が馬人族とか、あるいはエルゴルさんあたりの体の大きな人でも入れそうな、そんな大きな風呂場を男女別に一つずつ追加で作るのを見守って、それからアリシアたちは、自分たちの天幕の方へ戻った。
◆
天幕に戻って、今度は、留守番をしてくれていたコロネさんと、黒森族のコージャさんと、馬人族のウィッカさんに交代でお風呂に行ってきてもらう。
アイシャさんが冷たいお茶を出してくれて、それをお嬢様が土から作ってくださった安楽椅子に座って、お嬢様を抱っこしながら飲んでくつろいでいると、がやがやという人の声が聞こえた。
そっちを見ると、まず夕陽に照らされたエルゴルさんのでっかい体が目に入る。
エルゴルさんと、そのお仲間らしき人たちが五人くらいで一緒にいて、彼らを、風呂から上がったらしいコロネさんとコージャさんとウィッカさんが先導して、アリシアたちの天幕の方にやってくるのだった。
アリシアがお嬢様を抱っこしたまま立ち上がると、
「やあどうも、アリスタ様に御礼を申し上げに参りました。
狩りに出て湯に浸かれるとはよもや考えてもおりませんでしたけれども、おかげさまで今夜も快適に眠れそうです。
これはほんの心ばかりのものですが、お納めください」
エルゴルさんがそう言って果物の盛られた籠をアリシアに抱っこされているお嬢様のほうに差し出した。
無花果とか梨とか色々入っていておいしそうだ。
「せっかくもってきたくだものなのにいいの?」
「まあ果物はすぐ傷みますからな。ずっと冷やしておくのも骨ですし、ご遠慮なくどうぞ」
「わかったわ、ありがとう」
お嬢様はそう言ってから、近くに立っていた豚鬼族のアイシャさんに「これをきってきて」と頼んだ。
それからぷにぷにのおててを突き出すと、そこから土をどんどん出しては固めて、大きな長い机と、椅子を幾つも作る。
お嬢様はアリシアの腕からぴょんと飛び出すと、自分で作った椅子の上に着地して、それから硝子のコップを人数分と、琥珀色のウイスキーか何かが入ってそうな、きれいな瓶や、あるいは果物のジュースか何かが入っているらしき瓶を机の上に何本も出した。
「すわってすわって」
と言って、お嬢様は手から氷を出してはコップに入れて、それからコップをポイポイと滑らせていく。
そこへ果物を切って大きな皿二つに盛ったアイシャさんとトラーチェさんがやってきて、そうやってちょっとした宴会が始まった。
やがて物音を聞きつけたのか、隊長さんのローテリゼさんとお仲間の人たちとか、輸送のなんとかの副局長のウルスさんとか、あと飛竜をいっぱい連れているところの中隊の隊長さんとか、それに軍人さんたちもやってきて、結構な人数になる。
皆が手にお菓子とかを持ってきてくれて、お嬢様に、丁寧にお礼を言って、ご挨拶をしてくれるので、なんというかお嬢様の扱いがだいぶん上がったような気がした。
やっぱりみんな、お風呂に入れたのが嬉しかったんだろうか。
◆
そうやって皆でおしゃべりをしていると、エルゴルさんの部下らしき人の一人が
「団長! なにか音楽でもやってよ」とエルゴルさんに声をかける。
「そうだな……では、この旅の空に、熱い風呂と、こうして酒や肴を提供してくださったアリスタ様に御礼として、ひとつやらせていただきますぞ」
エルゴルさんはそう言うと、では準備をしてきますので、と近くの大きな天幕にいったん引っ込んで、それから楽器らしきものを三つも抱えて出てきた。
空いている手で椅子を掴んで、少し開けたところに置いてからそこに座る。
いちばん下の左手には、木でできた大きな胴体に弦が四本かそこら張ってある楽器を持っていた。
それを椅子に座った脚の間に立てるようにする。
下側の右手に、とても細い木でできた弓のようなものを持っているので、どうもそれで弦をこするようだった。あれのもっと小さなやつを、アリシアの地元の村に来た楽師さんたちが持っていた気がする。
真ん中の手には、これも木の胴体で弦をいっぱい張っていて、これは抱えて指で弦を弾くやつだった。
これも楽師さんが持ってたのを見たことがある。
一番上の手には、楽器の片方の端に鍵盤がついていて、もう片方の端との間を蛇腹のようなもので繋いであるやつだった。プカプカと陽気な音がでるやつで、アリシアはこれも楽師さんが持っているのを見たことがある。
ていうか三つも楽器を同時に演奏するんだろうか。まるで大道芸みたいだ。
エルゴルさんは楽器類を抱えたまま一礼すると、演奏をはじめ(本当に三つ同時に演奏していた!)それから朗々と歌い始めた。
『この秋の日に 口笛を吹きつつ 丘に向かって歩こう
高い空が澄み渡る 今日の佳き日に
足並みをそろえ 手を取りながら歌おう
小川をこえ 木立を抜けて 丘を登ろう
花々が咲く丘の上で 敷物を敷いて籠を開けよう
なんと美味しい食事と飲み物
話も弾む 我らの佳い日に!
小鳥はさえずり、わたしたちは歌う
歌に合わせて楽器を奏で それは丘の上から空にまで響く
ともに抱擁し わたしたちは踊る
花冠を作って友に渡そう 今日の日の記念のために
なんと楽しい今日のこの日
とても幸せな 我らの佳い日に! 』
歌い終わってエルゴルさんが一礼すると、拍手喝采が起きる。
「団長、そりゃピクニックの歌じゃないの!」
と誰かから声がかかり、皆の笑い声が弾ける。
それからあと何曲かやって、それから別の人に交代して、エルゴルさんは引っ込んだ。
最後にやってくれた曲は恋の歌で、アリシアは、エルゴルさんもそういうの歌うんだと意外に思う。
アリシアの近くに座って歌を聞いていたローテリゼさんは、半目になって、なぜかあまり面白くなさそうな顔をしながら
「浮かれてるわね」と言った。
楽器を天幕にしまいこんだらしきエルゴルさんが、こっちの方へ歩いて引き揚げてきて、そばに座り
「やあどうも、どうでしたか?」とにこにこしながらアリシアに聞いてくる。
「上手だったと思います。楽師さんみたいでした」
アリシアがそう言うと、エルゴルさんは、それは良かった、と言って喜んでいた。
アリシアは楽器はできないのでよく分からないけれど、三つも同時に楽器を弾いているのに、音の間違いとかもなかったように思う。
声は大鬼族だからどうしても低すぎる感じになっちゃうけれど、それでもいい声だったし、良かった。
「お兄は音楽が好きだよね」
とローテリゼさんがエルゴルさんに言った。
いつも真面目な顔で、堅い話し方をしていて、この大隊の隊長さんだし、ちょっと威厳すらあるような印象のローテリゼさんが、急にそんなふうな子供っぽい言い方をしたのでおかしかった。
でも話を聞いていると、エルゴルさんはローテリゼさんの家臣のようなのに、お兄ちゃんでもあるらしくてどういうことだろうとアリシアは疑問に思う。
家名がローテリゼさんはトリッテンだし、エルゴルさんはセックヘンデなので、家族ではないはずだ。
「音楽だけじゃないさ、文芸、数学、絵画、陶芸、料理、服飾、文化的なものは全部好きだぞ。
なんたって楽しい。文化こそが我らを人たらしめるんだ」
「そうなの?」
とローテリゼさんが首をかしげる。
アリシアは知らない言葉が出てきたので
「あの、ぶんかって何ですか?」と聞いてみる。
「文化とは何か、か……単純なようで言われてみると答えるのが難しい質問ですな」
エルゴルさんはそう言ってから、三対六本あるすべての腕で腕組みをしてから少し考えて、やがて
「そう、ですね。正しく定義できているかは分かりませんが『人々が作り出したもの』くらいの意味でしょうか」
と教えてくれた。
それから、エルゴルさんは腕組みしている長くて太い腕の内の一本を解いて、地面に向かって伸ばし、そこに生えていた、紫色の小さな花を器用に摘む。
そうしてそれをアリシアの目の前に差し出した。
「これは人が造ったものではなくて、自然に最初からあるものです。だからこれは文化ではない」
「どうぞ」と言って、その花をアリシアに渡してしまうと、今度は机の上にあった新しいコップを引き寄せて、そこにピッチャーから氷を入れる。
それから、机の上にあったお酒の瓶を引き寄せて、コップに入れて水を足して水割りを作ると、これもアリシアに「どうぞ」と言って渡してくれた。
「でもこのウイスキーは人が造ったものです。
これは大麦やライ麦などをいったん発芽させ、それを粉砕して甘い液体を作ってからそれを発酵させ、色々複雑な工程を経て酒精を造るんですね。
そうして酒精ができたら、それを沸かしてその蒸気を集めて冷やして濃縮して、できあがったものを木の樽に入れて木の香りを移しながら何年も熟成させ、それを瓶に詰めて、そうしてやっとこウイスキーができる。味はどうです?」
そう言われたのでアリシアは水割りを一口飲んでみる。
かなり薄めにしてあるけれど、ほのかに甘い香りが鼻に抜けて、リラックスできる感じがある。
「美味しいです」と返事をすると
「そうでしょう? 美味しいんですよ。実にすばらしい。
こういうものが人の文化なわけです。
私がさっきやった音楽、アリシアさんが今着ている服、そして美味しいお酒、すべて人が造ったものですよ。
こういうものは大鬼族の里には無い。人の世にしかないんですよ。
だから私は人の間で暮らすのが好きです」
「でも大鬼族の里には、大鬼族の里なりのものがあるんじゃないの?」
ローテリゼさんがそう質問したのを聞いて、アリシアは自分が大鬼族なのに大鬼族のことを何も知らないなと改めて思ったのだった。
「自分だって若いうちに大鬼族の里を出たから、それほど深く知ってるわけじゃないけど、でも大したものはなかったと思う。
幾らかの舞踏とか、唄とかとか、ちょっとした習俗くらいかな……」
「そうなんだ」
ローテリゼさんが何となく気のない返事をすると
「人の文化の素晴らしさってのは、それが最初から当たり前にあるロッテには分からないかもしれないな」
と苦笑しながら言った。
「どういうこと?」
とローテリゼさんが返事をするのを聞きながら、アリシアは、ロッテっていう愛称はかわいいなと思った。
「例えば……大鬼族の里で暮らしてた大鬼族が只人たちの間で暮らし始めると、頭が良くなるんだぞ。
それはなぜかと言えば使う言葉の数が只人たちのほうが大鬼族よりずっと多いからだ。
人は言葉で考えるからな。
知らない物事、知らない言葉、知らない概念、それらを知るとどんどん複雑なことを考えられるようになっていく。
ぼんやりしていた頭の中が、どんどん明るく明晰になっていく。
これは経験したものでなければ分かるまい」
だから学園の授業も楽しみなんですよ、とエルゴルさんは嬉しそうに言った。
そう言われてみると、あんまり何も考えていなかったアリシアも、急に学園が素晴らしいもののように思えてきて、演習の後の授業が楽しみになってきたのだった。