閑話:エルゴル・セックヘンデ氏のたくらみⅤ
エルゴル・セックヘンデが、ファルブロール伯の屋敷を辞してからの日程は、わりと強行軍になった。
ファルブロール伯の領民である娼婦の顔を切りつけた、ヘレットという男を、賠償金を払って引き取ってこい、というのがエルゴルに課せられた仕事だったわけだけれど、被害者には、たっぷり賠償金を払ったし、エルゴルの側の派閥のほうが大きいこともあってか、色々と文句を付けられたりとかいうこともなく、ヘレットを引き取るところまでは簡単にいった。
それにファルブロール伯の屋敷では、飯も旨かったし、部屋も広々してて快適だったので、だから仕事というよりは、まるで休暇のようだった。
でも、そうやって引き取ったヘレットを、エルゴルに仕事を持ってきたドライランター公のもとへ連れ帰るほうが面倒で精神がすり減る思いがした。
季節はもう完全に夏だから、そもそも暑いのでそれだけで大変だし、護送用の馬車や竜車で来ていなかったから、ヘレットの奴は閉じ込められているわけでもないので、エルゴルは部下たちに何かされないか、気を付けて見ていなければいけない。
そのうえヘレットの奴が「女が欲しい」とか言いだしたときには、もう奴をその辺に埋めて帰ろうかと思った。
そんなわけで奴をさっさとドライランター公なりに引き渡したかったから、車列をけっこう急がせたけれども、部下たちから文句のひとつも出なかったということは、みんな奴とはさっさと別れたかったということだろう。
◆
それでドライランター公の屋敷に着いて、真っ先にヘレットの奴を放り出すように渡して、やっとこ肩の荷が下りる。
けれどもエルゴルにとっては、むしろこれからが本題で、つまりアリシアさんとお近づきになるために、学園に行く必要があって、それも自然な理由付けをしつつ行く必要があるわけだ。
そこでうちのローテリゼお嬢様の出番で、彼女はいま学園の学生だから、彼女の付き人にでもしてもらって、学園に潜入しようというのがエルゴルの目論見なのだった。
たしかお嬢様はたぶん八月から夏の休暇だから、屋敷に戻ってくるはずで、エルゴルとしてはその時にお嬢様に頼もうとしている。
屋敷の居間に呼ばれて、公に「ご苦労だったな」などと労われながら、奥様が作ってくださった、氷をたっぷり入れたワインの炭酸割りなどいただく。
ローテリゼお嬢様がいないかなと目で探してみるけれど、出てこないし気配もない。
「ロッテお嬢はまだ学園から帰ってこないんです?」と聞いてみると
「そろそろ帰ってくるとは思うけどまだよ」と奥様が答えてくださる。
どうしたの? と言われて、エルゴルは正直に事情を話すのがなんだか恥ずかしくて、
「……いやせっかくだから顔でも見ておこうかなと思って」とごまかす。
「今年は帰ると手紙が来たからな、まあもう二、三日のうちだろう。少しゆっくりしていけ、ロッテも喜ぶ」
と公が言ってくれたので、エルゴルは少し屋敷に滞在することにした。
◆
そうして、二日後の昼にエルゴルが、ドライランター公とその奥様と、ロッテお嬢様の弟妹である、お子様たちと食事をとっていたところへ、先触れの従僕の人がやってきたので、食事を中断して皆で迎えに出る。
屋敷の前庭を回り込むようにして馬車の車列がやってくる、その前を、赤銅色の髪をなびかせて、先頭で馬車から降りたお嬢様が走ってくる。
屋敷の前で待っている皆の姿を見とめると、生真面目げに窄められた眉根がふわりとひらいて、そのまま奥様の腕の中に飛び込んだ。
それから公と抱き合って、その後に小さな弟や妹たちのところへ行って、抱き上げたままエルゴルのほうにやってくる。
エルゴルは六本もある腕をいかして、公の子供たちをひょいひょいと抱き取りながら、最後に残った一本の腕でローテリゼお嬢様を抱きとめる。
「お兄も帰ってたんだ」
お嬢様はエルゴルの腕の中で、青い瞳をきらきらと輝かせながらそう言った。
◆
三時ごろ、お茶の時間になってエルゴルも呼ばれて居間にいく。
小さなお子様たちはお昼寝でいなくて、居間にはドライランター公と奥様とローテリゼお嬢様しかいなかった。
それでいい機会だったので、エルゴルは少し恥ずかしかったけれど、アリシアさんのことを話して、お嬢様にはそういうわけで学園での付き人にしてほしいと頼んでみた。
話をしながら皆の反応を窺っていると、公は興味深そうに聞いてくれているし、奥様は何だか嬉しそうにしてくれているけれど、肝心のお嬢様の顔があまりご機嫌がよろしくない感じだった。
「……私が学園に行くときに不安だからついてきてって頼んだら、そんなとこ行ってもつまらなそうだからイヤってついてきてくれなかったクセに」
そう言われてみれば、忘れていたけど、そんなことがあったような気もする。
「でもその女の人のためだったら学園だって行っちゃうのね」
そう言われるとエルゴルとしては弱ってしまう。
というかロッテお嬢様ってこんなじっとりとした物言いをする子だっただろうか。もうすこしカラッとして明朗な感じだったような気がするんだが。
「こら、そんな意地悪を言わないの」
そう言って奥様が助け舟を出してくださる。
するとお嬢様は、ため息をひとつついてから
「わかった。わかったわよ、じゃあ学園に戻るときについてきて」と言ってくれた。
◆
それでとりあえず目的は達成したけれど、お嬢様の御機嫌が何故だか悪くなったので、下の街に行くからお供をしてとか、そういうことを言われたらハイハイと言うとおりにして、なるべくご機嫌取りをするように努める。
それにお嬢様だけじゃなくて、その下の小さなお子様たちの相手を仰せつかることもある。
最初のうちはエルゴルが体が大きいせいか怖がっていたから、寄ってこなかったけれど、ロッテお嬢様が帰ってきたときに、お嬢様と一緒にまとめて抱っこしたせいで慣れたのか『たかいたかい』をしてくれとしょっちゅうせがんでくる。
まあエルゴルより背が高い人間ここらへんにはいないと思うから『たかいたかい』も本当に高いとは言える。
他にも奥様のお茶に付きあったり、公が社交の集まりに行くのについていったり、皆を手当しなきゃならないから大変だ。
それに、この屋敷に連れてきている自分の兵団の連中のところに顔を出したりもしなきゃならない。
ここには連れてきていない兵団の残りの人員には、拠点を閉鎖して学園に向かうように手紙を送ったりする。
二百人以上いる兵団の連中が全員学園に移動するわけだから、家や屋敷や宿を手当たり次第に買ったり、借り上げたりするように指示を与えて、その分の為替も持たせて先に学園に人をやる必要もある。
もちろん自分たちが学園に移動するための旅行の準備もあるから、合間を縫って物資調達に走り回らなくてはいけない。
そんなこんなで、エルゴルは八月で夏の休暇の時期だというのに全然休めなかった。
でも、これもアリシアさんとお近づきになるためだと思えば、全然苦労ではない。
◆
そうして数日経ったある晩に、エルゴルはドライランター公から部屋に呼び出された。
行ってみると、そこには公だけでなくて奥様とロッテお嬢様もおられる。
なんだろうと思いながら、エルゴルがすすめられた椅子に座ると、ドライランター公が唐突にエルゴルを褒めはじめた。
曰く、お前は大事な臣下だとか、このたびのファルブロール伯との交渉にも満足しているとか、お前の強さはよく知っているとか、今までのお前の働きには全く満足しているとか、そんなことを色々と言ってくれる。
エルゴルとしては面映ゆいし、いったい何なんだろうと思っていると、公は
「そのうえで提案があるんだが、わしにマントを返して臣下から離れて、かわりにロッテのマントをもらってロッテの臣下にならんか?」と言った。
えっ……、と思わず声がでてしまう。
まさかマントを返せと言われるとは思わなかった。
「これはもちろん、お前を軽んじているのではないのだぞ。
ただ……ロッテはわしの大事な後継者だし、だから、できれば強い臣下を見つけてやりたい。
といっても強い臣下というのはそう簡単に見つからない。
わしの臣下がロッテの臣下になっててくれればいいが、わしの臣下はわしとの関係で臣下になっているので、ロッテの臣下になるとは限らない。
でもお前はロッテのことを小さいころから知っているし、家族のように大事にしてくれただろう?」
ドライランター公は慌てたようにそう言葉をつなぐ。
「それに……学園に行くロッテにお前は付いていきたいとのことだが、学園は次世代の若人たちが集う場所だからな。
そこで貴族の子弟は政治の真似ごとをしてみるわけだが、そこに学生の親の臣下が出張っていくのは外聞がよろしくない。
今やろうとしている親から子への臣下の付け替えだってあんまりよろしくないくらいだ。
だからな、お前が好いた女のためであれ、ロッテについて学園に行きたいというなら、お前はわしの臣下ではなくてロッテの臣下でないといけない」
つまりエルゴル自身が学園に、それもロッテお嬢様を理由付けにして行こうとしたから、そうなったということか。
……でも、さすがにマントを剥がれるのは嫌だ。
あれは大鬼族の里から逃げるようにして出てきた、独りぼっちのエルゴルを、ドライランター公が臣下として、自分の子供みたいに迎えてくれたときにくれたもので、だからあのマントは公がエルゴルのおやじになったことの証しであって……だからそれはちょっと勘弁してくれませんか、と言おうとしたところで、ふとロッテお嬢様の顔が目に入った。
ロッテお嬢様の顔は、不安げに揺れている、気がする。
そうだとすれば、エルゴルが自分の臣下になってくれるだろうかと、お嬢はそう心配しているわけだ。
ロッテお嬢は、エルゴルが公の屋敷にきて一年くらいして産まれた公の長女で、首が据わったくらいのころに奥様がエルゴルにも抱っこさせてくれたけれど、本当に小さくて、こんなに小さくて大丈夫かとエルゴルは心配になったものだった。
もちろんエルゴルの体が大きいからその対比で余計に小さく見えたんだろうけれど。
ロッテお嬢はエルゴルにもよく懐いてくれて、エルゴルはいろいろと遊んでやったり『たかいたかい』もしたものだ。
エルゴルを見つけると、本当に小さな体で、よちよちと歩いて寄ってくる様子は本当に可愛らしかった。
そんな小さないもうとがエルゴルに臣下になってほしいと思っている。
そうだとすると、これはこれで嫌ですとも言えない。
おやじのマントを手放すか、いもうとの頼みを断るか。
こんなのは選べない。選べないけれども……アリシアさんは欲しい。
それはエルゴル自身の望みだ。
そうであれば、いもうとの頼みを聞いて、おやじにマントを返すべきだろう。
「わかり、ました」
エルゴルは、そう言って着けていたマントを外し、公に返した。
◆
それから数日して、マントの儀式をしてロッテお嬢様からマントをもらった。
公が見届け人をいっぱい集めて、儀式は盛況に和やかに済んで、けれども周りに人がいないときに奥様が、ふとエルゴルの手を引っぱった。
それでエルゴルがひざまずくと、奥様はエルゴルの顔を覗き込んで
「ごめんね、ありがとう」と言ってくださった。
そのときエルゴルはもう少しで声を放って泣くところだった。
奥様はエルゴルの頭をかき抱き、エルゴルは、ほんの少し涙をこぼした。




