ハーフオーガのアリシア38 ― 学園生活のはじまりⅢ ―
高級な晶術機が、ほどよく柔らかな冷気を流してくれる部屋の中で、アリシアはカーテンをまわりこんでくる夏の光を感じて目を覚ました。
ご領主様のお屋敷でいたころは、昼過ぎまで仕事はなかったから、朝は、わりにゆっくりしていたけれど、今はすぐに飛び起きる。
部屋のすぐ隣についている自分用の洗面所とトイレで(さすが元は屋敷の主人の部屋なだけある!)身支度を済ませて、それからキッチンへ向かった。
ハムが焼ける匂いと音がするので、もうアイシャさんが朝食を作り始めてくれているのだろう。
キッチンに入ると、やっぱりアイシャさんがいて焜炉の前に立ってくれている。
挨拶をしてからアリシアは流し台のほうに向かい、野菜くずやら入っている生ごみ入れを持って屋敷の裏に出た。
すると馬房に入れてある馬が騒いだから、生ごみ入れを覗いたら、人参のヘタと、リンゴの芯と皮が入っていたので、それだけ取り出して馬にやることにする。馬というのは、なんとも鼻がいいものだ。
馬房のすぐそばに生えている木に、くずのつるが巻きついていたから、それも引きちぎって一緒にしてやる。
朝の飼葉と水は、従僕のトニオ君がちゃんとやってあるみたいだから、まあオヤツだ。
残った生ごみは、畑の脇に掘ってある穴に入れて、少し土をかぶせてから、井戸から水を汲んで生ごみ入れを洗って、残った水を畑にまいてからキッチンに戻る。
キッチンの大きなテーブルに、皿やコップを並べたり、氷室箱(晶術石で動く高級品!)から飲み物を出したり、サラダの用意をしたり、果物を切ったり、焼けたハムや目玉焼きを皿に引き上げたりしていると、アイシャさんが
「お嬢様を起こしてくるから、アリシアさんちょっとパンとスープの鍋を見ててくれる?」
と言ったから、アリシアはむしろ自分がお嬢様を起こしたいなと思ったけれど、それはやっぱり乳母のアイシャさんの仕事なのであきらめて
「はい」と返事をして、パンが焦げないように監視を始めた。
そうしているうちにコロネさんがキッチンに入ってきたので、挨拶をしてからパンの監視を彼女に任せて、アリシアは屋敷の表玄関の方にまわる。
するとそこには、黒エルフのコージャさんと、馬人族のウィッカさん、それに従僕のマルコくんが、そこらへんを箒で掃いていて、メイドのミーナちゃんは玄関のドアノブを磨いていたみたいだった。
このお屋敷はかなり大きいし、屋敷の左右に建っている別棟も含めたら、何十人くらい人が住んでもおかしくないし、そうなると使用人の人もたくさん必要なんだろうけど、今のところ使用人は従僕のマルコくんと、メイドのミーナちゃんしかいない。
とは言っても、アリシアは貴族のお嬢様とかでもなんでもなくて、単なる田舎の猟師の娘だから、自分のことは自分でできるし、他の皆もだいたいそうで、本当にお世話をしなきゃいけないのはお嬢様くらいしかいない。
だから、使用人の人がいなくても、どうにでもなると言えばどうにでもなる。
けれども屋敷が広いから掃除だけは大変で、とても全部はできないから、とりあえずよく使う場所と、お客さんが使いそうな場所だけを皆で優先的にやろうという話になった。
そういうわけで、朝には玄関先を掃いてくれている皆に挨拶をしてから
「もうそろそろご飯だよ」と声をかけると、皆がそれぞれ挨拶を返してくれてから、掃除道具をしまいに行く。
トラーチェさんは、応接室のほうの掃除をしていると言っていたから、そちらの方に行ってみると、彼女が部屋の窓を開けて、ハタキでバタバタやっているのが見えた。
彼女は良いところのお嬢様なのか、ホコリよけに頭と口許を覆って掃除をしている姿が、あんまり慣れていない様子で、サマになっていなくて、なんだか少し可哀想な気がした。
寄っていくと物音に気付いて振り向いたので、挨拶をしてご飯ですよ、と声をかけると、トラーチェさんは、口許を覆っていた布をとって、頭にかぶっていた三角巾を外す。
掃除とか慣れてなさそうでつらくないですかと聞くのも、それは何か変な気がして
「大丈夫ですか?」とあいまいな言い方でアリシアは声をかけた。
けれどもトラーチェさんはアリシアの意図するところを分かってくれたみたいで
「そりゃね、慣れないから少し疲れますけれど、将来に使用人が家にいっぱいいて、わたくしが掃除をしなくてもいいくらい財産のある旦那さまを見つけられるとは限りませんでしょう? わたくし自身はあんまり才覚もありませんし。
そう考えると掃除の練習をしておくのも良いことですよ、何事も経験ですわ」
そんなふうに答えてくれる。
「それに他の皆様も、アリシア様だって色々と用事をしておられるんですから、わたくしだけじっとしているわけにもいきませんわ」
それはまあそうだ。
◆
それから皆でキッチンのテーブルに集まって朝ご飯をいただく。
「キッチンにテーブルがあって、そこで食べてしまうのも楽でいいですわねえ」
とトラーチェさんに言われてみて、そういえばご領主様のお屋敷ではキッチンと食堂は分かれてたなと思い出す。
大きな家だとそんなものなのかもしれない。
「この屋敷での生活も少し落ち着いてきたし、今日は学院のほうに用事があるから皆でそっちに行こうと思うのよ。なんでも学生の登録とかいうのをしなきゃならないみたい」
とお嬢様のために枇杷の皮を剝きながらアイシャさんが言った。
「そういうのは任して! わたしは学生生活が長いからね、そういうのは慣れてるわ」
トラーチェさんがそう言ってくれて、アリシアは少し安心する。
お嬢様の臣下はアイシャさん以外は、だいたいアリシアと同じくらいの歳で、アイシャさんだけが二十三でアリシアたちより大人だったから皆で頼りにした。
食事の準備とか日々の買い物とかそういうのは、アイシャさんが指示を出す形でやっていたけれど、年かさの人が他にいなかったから、アリシアは少し心細い気もしていて、だからもうひとり年上のトラーチェさんが来てくれてよかったと心強く感じる。
◆
さて出かけようとなったところで、従僕のトニオ君が、この学院への行き帰りで馬の運動も兼ねることにするから、馬に馬車を引かせてやってくれと言ってきたので、ウィッカさんは馬車から外れて、かわりに馬をつないだ。
それで大鬼族のアリシアと、人馬族のウィッカさんは歩きで、他の皆は、ウィッカさんの馬車と、コロネさんが持ってきた馬車の二台に分乗して、トラーチェさんの案内で学院とやらの建物を目指す。
馬というのは、運動させてやらなくちゃならないし、飼葉もいっぱい食べるし、なかなか手間がかかるもんだと思ったけれど、いっぱい食べるのは自分も同じかと気が付いて、アリシアは少し落ち込んだ。
◆
馬車で少しばかり走った場所に、学院とやらはあって、やたらと背の高い建物だった。
天を衝くような尖塔が左右に一本ずつ建っていて、その間には花を模したような、でももっと規則的な図形の、大きな丸い飾り窓があって、そこに嵌め込まれた硝子がきらきらと夏の陽の光にきらめいている。
その飾り窓の下あたりに大きな扉があって、そこが入り口になっているようだった。
建物の横にまわると、馬車と馬を預けられる場所があったので、そこで預けてから、徒歩で建物の正面にまわって中に入る。
外の日差しは八月だから、もう強くてくらくらするほどなのに、建物の中はひんやりしていて涼しかった。
ほんのりと風もある気がするし、たぶん晶術石で何かしてあるんだろうと思う。
建物の見た目はすごく立派だったけれど、中に入ってみると、わりに地味な感じで見たところは役場のような印象だった。
アリシアの実家の山小屋がある山の、麓の村の役場を十倍くらい立派にしたような役場というような感じがする。
入ってすぐベンチのようなものが、あっちこっちに置いてあって、そこでちらほらと人が座っていて、雑談をしたり、何かを待っているような様子だった。
そしてベンチのそばには、椅子がついていない立って使う机のようなものが、等間隔で幾つも据えてある。
その向こうの正面には建物の端から端まで続くような、長いカウンターがあって、その中が事務室みたいになっているみたいで、なにか机に向かって作業をしていたり、何か書類を持ってやってきたり、どこかに行ったりして立ち働いている人がいっぱいいた。
トラーチェさんの案内で、そのカウンターの受付の人が座っているところのひとつに連れていかれて、そこでトラーチェさんが何かを言うと、受付のお姉さんは、大きな紙とペンを人数分くれる。
もらった紙を見てみると、なんか書類で、名前や生年月日や、出身地に両親の名前とか、今仕えている主人の名前とか、そのほかにいっぱい書く場所があった。
分からないところはトラーチェさんに聞いたり、受付のお姉さんに聞いたりしながら書く。
そうして最後に、問題は起こしませんというような内容の誓約書というのを書いて受付の人に渡したらやっと終わった。
書類を全部受け付けの人に渡したら、かわりに皆に一冊ずつ、簡単に紐で綴じた大判の冊子をくれる。
今日はこれで終わりということなので、帰りに市場に寄って食材を買ってから帰ることになった。
◆
市場では、アイシャさんが大体何を買うか決めて、あれこれと買っていく。
それで、お金は全部お嬢様が出してくださるのだけれど、アリシアたちがいっぱい食べるせいなのか、もう本当に山のように色々と買っては馬車に積んでいく。
それで、なんだか子供にたくさんお金を払わせているような感じになって、アリシアは心苦しくて、つい幾らか出しましょうか? と言ってしまったのだけれど、お嬢様は
「なにをいってるの、しょくじとふくはしきゅうされるやくそくよ」
と、おっしゃった。
そう言われれば、前のお屋敷では食事は毎回食べさせてもらっていたから、つまりそれは今でも同じまま、ということかとアリシアは納得する。
「それに『マントのこと』をしたときにもいったじゃない。
『あなたにたべものをあたえ、いふくをあたえ、そしょうにおいてあなたのいいぶんをべんごしよう。あなたをひごし、しえんしよう』って。
そのやくそくは、いまでもそのままよ」
お嬢様は続けてそうおっしゃった。
それはもちろん覚えている。
あのときに貰ったマントも実際いま身に着けている。
けれども、改めてそう言われてみると、つまりお嬢様のお金で食事をしているのだと思うと、アイシャさんに抱っこされているお嬢様が、ただの赤ちゃんではなくて、確かにご主人様なのだと実感をもって思えてきたのだった。
そうしてお嬢様はその言葉の通りに、アリシアが市場の果物屋さんの前で、棚に並んでいる桃を見ていたら、よほど物欲しげに見えたのか、大きな籠いっぱいに、その桃を買ってくださった。
アリシアは申し訳ないやら恥ずかしいやらだったけれど、でもお嬢様がそんなふうにしてくださったことに、なんだか非常に満足して幸福感を感じながら、馬車の後ろについて、屋敷に帰ったのだった。




