閑話:乳母であるアイシャ・シュファイネ氏の抱く懸念Ⅱ
アイシャは乳母として、お嬢様を抱っこしてどこへでも行くから知っているのだけれど、お嬢様の仕事は診療所でのお手伝いだけではない。
前にあったのだと、街のそばを流れている川の、河港の浚渫の予算が足りないとかで、御領主様の方から奥様とお嬢様に話が回ってきたことがあった。
土木工事とかそういうことに、術力の大きい奥様やお嬢様が出て、なんでもかんでもやってしまえば、話が簡単ではあるけれど、それだと人や技術が育たないとかで、なるべく地域の人たちにお金を出してやってもらうようにしている、とは御領主様もおっしゃってはいた。
けれども、今回はどうしても予算がないとかで、奥様とお嬢様が工事をされるらしい。
船着き場に奥様と、お嬢様を抱っこしたアイシャが並んで立つ。
奥様が水面に向けて手をかざすと(アイシャはそれを初めて見たのでたいそう驚いたのだけれど)川の水が、大蛇でもあるかのようにうねって持ち上がり、川床が露出した。
持ち上がった水は、空中にアーチをかけて、少し先の川下のほうにまた落ちて行く。
その光景にアイシャが驚いて、あんぐりと口を開けて見ていると、今度はお嬢様が川床に向かって手を伸ばしてかざし、川床の泥や石なんかを吸い取りはじめた。
川床に溜まった泥がみるみるうちに深く抉られていって、その抉られた部分が川のふちに沿ってどんどん拡がる。
アイシャがお嬢様のそばにいると、さっきまであったものが消えていたり、何もないところから物を取り出していたりするのを見ることがよくあるので、お嬢様は【荷物袋の異能】をもってるんだろうなとは思っていたけれど、川床の土砂を大量に吸い上げるような、そんなすごいものだとは思ってもいなかったので、呆然としてしまう。
やがて、川床から泥が無くなると、奥様がまた手を動かして、川の水の流れを元に戻す。
すると川は何事もなかったかのように元通りになって、まわりで作業を見ていた人たちがパチパチと拍手をしていた。
それから、川床から取った泥は栄養が豊かだからということで、お嬢様は奥様に連れられて、希望者の畑を方々まわって泥を撒いていた。
なんでもかんでも奥様やお嬢様頼りではいけない、ということになってはいるけれど、大きな石の下敷きになって大怪我をしたとか、足場が崩れて転落したとかいうことになれば、結局は奥様あたりが治すことになるわけだから、それなら最初から怪我などしないようにと、やっぱり奥様かお嬢様が駆り出されて手を貸すことになる。
それで、道路工事だとか灌漑で水路を掘るだとか、大きな建物を建てるとかいうことになると、奥様か、お嬢様が、大きな石を掘り起こして除けるとか、そういう危険なところや大変なところを手伝うようなことが多い。
◆
その他には、近隣で大きな魔獣が湧いてでたとかいう場合には、奥様やお嬢様が遠征して退治しに行くことがある。
魔獣の退治というと、お嬢様の場合は、どこからともなく、ひと抱えもあるような大きな岩をだしてきて、それを投射令術で飛ばして、魔獣の頭をカチ割って退治することが多い。
そういうのを見ていると、アイシャは、お嬢様を抱っこして、だいたいいつも一緒にいるから、
(いま魔獣をぺちゃんこにしたあの岩は、あれは確か河港組合の会長の新しい屋敷を建てるのに、石切り場から切り出した余りだよね)
とかいうように、お嬢様の【荷物袋の異能】の物資の出入りがなんとなく分かるようになってくる。
◆
そして、【荷物袋の異能】で物資を集めたり、保管したり、出したりすることなんかも、お嬢様の役割のひとつになっている。
御領主さまのお屋敷のある丘を降りて少し行ったところにある街は、大きな街道に貫かれるように広がっていて、それに大きな川もそばにある。
そんなふうに、わりと交通や運送の便が良いところだから、色々な船が行きかっていて、河港には荷役の男の人たちがいっぱいいて、いつでも荷物を舟に上げたり降ろしたりしている。
とても活気があるし、だからこそ花売りたちも集まってくるんだろう。
それで、河港の船着き場に船が着くと、たまに連絡が来て、奥様とお嬢様が船着き場のそばの倉庫に出向くことがある。
するとそこには、だいたい小麦とかが倉庫に何棟分もいっぱいになっていて、お嬢様や奥様がそれをあっという間に吸い取っていき、その分のお金を払う。
逆の場合もあって、お嬢様や奥様が、荷物袋の異能から、小麦やらを出して、空の倉庫をいくつも満杯にして、代金をもらうこともあった。
だいたいは穀類とかの食べ物が多いけれども、それ以外のものをやり取りすることもたまにある。
あれは何をしているのかと、奥様に聞いてみると、穀類とかが豊作で値崩れしそうになったら買い支えて値段が下がりすぎないようにして、反対に凶作で高騰したら売りだして値段を下げているとのことだった。
「アリスタの荷物袋の異能はいくらでも入るから、そういうのが捗るわ」
アイシャが抱っこしているお嬢様のほうに手を伸ばして、その頬を撫でながら、そう奥様はおっしゃった。
それでアイシャは、ふと、この屋敷では真冬でも色々な種類の葉物野菜が全然絶えないし、桃とかの夏の果物が冬でも普通に食べられることに気が付いた。
というかよくよく考えたらいつでも新鮮な肉や魚を季節感もなく大量に食べさせてもらえる。塩漬けの肉や、干した果物なんかは、ほとんど出てこない。
なぜ、季節外れの、保存用に干したものでもない、新鮮な肉や魚や果物や野菜が、いつでもいっぱい食べられるのか。
何も考えずに喜んで食べていたけれど、よく考えたらおかしくはある。
それで奥様に聞いてみると
「そうよ。私の荷物袋もアリスタの荷物袋も、中は時間が停まるから、それで野菜とか果物とか生鮮品は運用してるわね」
とのことで、やっぱりそうだった。
そこまで聞いたところで、アイシャはだんだん恐ろしくなってきた。
ひょっとしてうちのお嬢様は、ものすごく価値が高いのではないだろうか。
いやもちろん、お嬢様は大事な大事な赤ちゃんだし、だからアイシャの命を懸けてもいいくらいに大事な存在ではあるけれど、そういう意味じゃなくて、もっとなんていうか、能力的に、効能的に、凄いのではないんだろうか。
◆
昼の食事が終わって、診療所へお手伝いに行く前に、お嬢様は少しだけ、お昼寝をする。
診療所でのお手伝いはけっこう遅くまであるし、そこからお屋敷に帰って晩の食事をとって、お風呂に入ってとなると、お昼寝をしておかなければ、お嬢様がそこまで保たないからだ。
お嬢様に添い寝をしながら、アイシャは、お嬢様の寝息にあわせてかわいらしく上下するおなかを眺める。
この小さなおなかの中に、街をいくつも養えるような穀物や肉や魚や野菜や果物がしまいこまれているとは、とても信じられないような気がした。
もちろん異能でしまってあるんだから、実際におなかの中に入ってるわけではないんだろうけれど。
◆
そうして、アイシャがお嬢様の乳母になって、5年ほどがたったある日。
アイシャは奥様に呼び出しを受けた。
お嬢様抜きで、アイシャだけで来るようにとのことで、そういうことは珍しいけれど、ときたまある。
そういうのはだいたい、お嬢様の成長ぐあいとか、日ごろの様子とかを、奥様がアイシャからお聞きになるときで、アイシャはそのたびに、お嬢様がどれほど愛らしく健やかで、また日々がんばっているかをお話するのだった。
奥様がどこからともなく出してくださったアイスクリームとお茶をいただきながら、お話をして、ひと段落すると
「そろそろアリスタも13歳になるから、基礎教育も終わらせたし、学園にやろうと思うのよ」
と、奥様はそのようにおっしゃった。
学校に通うということは、自分はもうお役御免なのかとか、そんなことがさーっとアイシャの頭を駆け巡る。
けれども
「だからあの子の家臣団を作ろうと思うのね。一人目はあなたということでお願いできるかしら?」
と、続いて奥様がおっしゃったので、アイシャは安堵した。
お嬢様の家臣になるという話はもちろん快諾する。
自分がお嬢様から離れなくてよさそうだとわかると、アイシャは安心して、それで年齢からしたら13歳でも、まだあんなに小さいんだし、可愛いのだし、そんな急いで手放すこともないのにな、とアイシャは思ったから、奥様にそう申し上げる。
すると、奥様はティーカップをソーサーに置いて、急に真剣な表情になると
「あの子の生活ってあなたから見てどう思うかしら」
とアイシャにお聞きになった。
お嬢様の生活、とアイシャは考えてみる。
お嬢様は、朝は身支度をして、アイシャと一緒にご飯を食べて、それから午前中は家庭教師と勉強をしておられる。
それが終わると昼には、奥様とその家臣の方々か、あるいはアイシャと昼食にして、食後に少しお昼寝をして起きたら下の街に降りて診療所でお手伝いを夜までして、終わったら屋敷に戻る。
夜は、奥様とご領主さまとお嬢様の、家族水入らずでご飯を食べて、ご飯が済んだらアイシャと一緒にお風呂に入って、それから就寝になる。
魔獣が湧いたので退治に行かなきゃいけないとか、そういう突発のことがないかぎりは、お嬢様の一日はだいたいこんな感じのはずだ。
アイシャがこのお屋敷にお嬢様の乳母として来たときには、もうすでに、だいたいこんな一日の過ごし方で固まっていたから、あんまり疑問も持たなかったけれど、こうしてあらためて思い返してみると、なんだか予定がびっしり詰まりすぎな気がする。
休みは週末日が全日で、その前の日が半日あるだけだから、そう言われてみると、赤ちゃんにしてはすごく過密じゃないだろうか。
そこまで考えたアイシャが「忙しすぎるんじゃないかという気がします」
と答えると、奥様はため息をついて、やっぱりそうよね、とおっしゃった。
「あの子はね、とても頭がいいのよ。教えたことはすぐ覚えるし、術力だってものすごくあるのよね。
傷だって一瞬で塞ぐし、体組織の作り替えだって、ささっとやるしね。
助手としちゃとても使いでがあるけれど、そしたらどうしても便利に使っちゃうのよ。
そりゃ農家の子とか、奉公に出た子だったら、けっこう働いてたりもするけれど、あんな小さいのに夜まで働かせるのはどうかと最近思うのね」
「そうですね。お嬢様が遊んでるところって、そういえば見たことない気がします」
アイシャがそう答えると、奥様は考え込んでしまう。
「それは……そうかもしれないわね」
奥様は消え入るような調子でそうおっしゃった。
考えてみれば、アイシャのいた故郷の村では、只人や豚鬼や犬人の子供たちが、お手伝いの暇を見つけては、きゃあきゃあと言いながらそのあたりを駆け回って、鬼ごっこやらなにやらしながら遊んでいたのを思い出す。
それに比べてお嬢様のまわりには子供がいないから、遊ぶような相手もいないように見える。
でもお嬢様はまだ見た感じは1歳か2歳くらいに見えるから、まだ集団で遊ぶのは早いのかもしれない。
森族の成長の仕方というのはよく分からないけど、普通はどうなのだろうか。
「それに、お嬢様は、同年代の子供たちと触れ合う機会がないようにも思います」
とアイシャは奥様に申し上げてみる。
「それは、森族の子だから、只人の子たちと遊ぶのは難しいというのもあるのよ。
だって見た目は赤ちゃんだけど精神年齢はそうじゃないわけだし、いちおう貴族の子だから、下の街に行って、どっかその辺の子供と適当に遊んできなさいって言って放り出して、何か事故でもあったら困るわけじゃない。
なかなか難しいわよね」
奥様はどこか言い訳をするような口調でそうおっしゃった。
「とにかく! このままここに居たらあの子は、毎日毎日診療所やら工事やらでひたすら仕事して寝て、起きたら勉強をして、それが済んだらまた私の手伝いをして仕事して、みたいな生活になっちゃうわ。
仕事を減らせばいいと言ったって目の前で病人や怪我人がいて、患者が溜まってたら絶対あの子に色々させちゃうのよ。
だからここから離さなくっちゃ!」
あの子にだって楽しい時期が必要よ! 奥様はそう断言なさった。




