閑話:エルゴル・セックヘンデ氏のたくらみⅠ
彼女はほんとうに美しい大鬼族だった。
それはもうエルゴルが見たことがないほどのもので、だから、ひとめ見たその瞬間に、妻にするならこの人だと思った。
それ以外の選択肢はもはや瞬時に消えてしまった。
誰でも人生についての理想みたいなものはあるかもしれないが、あきらめていた、あるいはそんなものは存在しないとさえ思っていた、その理想をはるかに超えるものが突然目の前に現れたので、エルゴルは、もはやそれを手に入れることしか考えられなくなってしまったのだった。
なんとしても彼女を手に入れなければならないと、エルゴル・セックヘンデは独り決めにそう決めたのだった。
エルゴルが調べたところによれば、その彼女の名はアリシアというらしい。
◆
最初に話が回ってきたときは嫌な仕事だと思った。
ことの起こりは派閥の長であるドライランター公爵から、極上のウイスキーが入ったのでちょっと味見でもしにこないかと手紙が来たことだった。
肉やら甘味やらも用意したとも手紙には書いてあって、まあそしたら最近は顔も出してないことだし、部下たちの慰安旅行がてら、皆を引き連れて顔でも出すかとエルゴル・セックヘンデはそう決めた。
それで、とりあえず部下たちのうち手すきのものと、その家族まで引き連れてドライランター公爵の本屋敷に顔を出したけれども、そこでの滞在は確かに快適ではあった。
屋敷の建物自体も趣味がよくて美しいけれど、その建物がある丘が、大きな庭園のようになっている。
丘の上全体に、木立や池や、花が絨毯のように咲く広場などが美しく配置されていて、その間を遊歩道やらでつなげてある。
まあ夢のように美しい場所で、釣りもできる。
退屈になったら丘の下に街があるので、そこにくりだして色々ひやかすのも楽しい。
連れて行った部下たちも、その家族も喜んでくれたし、肝心のウイスキーも飲ませてもらえた。
なんとかの二十年物とかいうやつで確かに旨かった。
けれどもその後が良くなかった。
エルゴルが屋敷を訪れて三日日。そろそろ明日あたり帰ろうかとなっている日の夜。
夕食が終わってしばらくして、いい加減に夜も遅くなってから、エルゴルは、ドライランター公爵の私室で、公爵と差し向かいになって座っていた。
二人の間にある背の低いテーブルには、イクラ、生ハム、チーズ、果物と、色々なものが載ったカナッペが銀の大皿に入ってずらりと並び、その傍らには薄く切ったチーズ、ナッツ、ドライフルーツと様々なツマミが木皿に盛られて並び、氷に冷えた水に炭酸水、香りづけの柑橘、と完璧なまでに一杯やる用意が整えられている。
そこでエルゴルは、公爵と四方山話をしながら、注いでもらった秘蔵のウイスキーをゆっくり楽しみ、それを二人で瓶の半ば近くまで空けたところで、ドライランター公爵がおもむろに要件を切り出したのだった。
「少し頼みたいことがあるんだが……」とさんざん食べたり飲んだりしている断りづらいタイミングで言ってくる。
こういうことをしてくるところが年寄りは面倒だとエルゴルは思った。
聞いてみるとまったく馬鹿みたいな話で、同じ派閥のゴルダネスハー伯の傘下にヘレットとかいうのがいて、そいつがわりと近くにあるファルブロール伯の領地で騒ぎを起こしたらしい。
「なんでも領民の娼婦を無理やり連れていこうとして、抵抗されて顔を何度もナイフで切りつけたそうだ。
それで見回りの衛士に伸されたらしい……そうファルブロール伯からの手紙に書いてあった」
なるほど、と言うしかないが、続いて「お前、後始末に行ってくれんか?」ときた。
話を聞くかぎりでは、わりとロクでもない、ただ吊るし上げられに行くことになりそうな感じなので
「……寄親のゴルダネスハー伯が行った方が良いのでは?」と言って抵抗してみる。
「あいつには別の用事を頼んである。ないがしろにしていい相手じゃないからな、急がねばならん」
「ふむ」どうやら無駄な抵抗だったらしい。
「ファルブロール伯はな、本人はまあ普通の貴族だし、独立してて寄親もないから大したことはないんだがな。
奥方が高位種の森族でかなり強力な治癒士だ。
おそらくあっちこっちにつながりがあるし影響力もある。下手に怒らせると藪の中からどんな猛獣が出てくるかわからん。
まあ伯爵本人よりも奥方が本体みたいな家だな。
被害者は特段の力もない単なる平民の娼婦だが軽んずるんじゃないぞ。
病気や怪我をしたら奥方が手ずから治して大事に大事に慈しんできた領民だからな」
「その大事な大事な領民の顔をナイフで切り裂いたわけですか……」
なんだかエルゴルはますます行きたくなくなってきた。
ドライランター公はエルゴルの言葉を無視して話を続ける。
「まあこれを機会にして、個人的に奥方と面識を作っておくのもいいと思うぞ。出会いようが悪いが、転んでもただでは起きないの精神こそ大事だ。
それにな、お前もこういう方面でもそろそろ働いてもらいたいところだ。
言われるままにあっちこっちに行って魔獣を狩ってりゃいいんでしょ、というだけではいかんぞ。
お前ももう三十だろう、ちっとは頭を使う仕事もしろ」
「あんまりそういうのは向いてないと思いますけどねえ」
そういうのが嫌だから領地も貰っていないが、領地がないと配下を食わせるためにずっと動いていないといけないのはある。
「何事も経験だ、そんなに難しい話じゃない、交渉としちゃ簡単なほうだ。
ひたすら下手に出て賠償金を払ってくるだけのことで、ねじ込まなきゃならん条件やらもない。
なんならヘレットのやつの身柄もいらん。ゴルダネスハー伯によれば、奴はこれまでに余所でも同じような悶着を二度ほど起こしていて、娼婦に怪我をさせたのはこれで都合三回目だそうだ」
「三回目……」
うーむ……と唸るしかない。賠償金だけ払って相手先に捨ててきた方がいいんじゃないだろうか。
そんなんでも戦力は戦力なんだろうが。
いずれにせよ、普段から世話になっていることでもあるし、さんざん飲み食いしておいて断れる話でもない。
引き受けるとエルゴルが返事をすると、ドライランター公は
「これ委任状な」と言って“本件に係る一切の権限をエルゴル・セックヘンデに委任する”旨書かれた委任状をすっと差し出してきたのだった。
委任者のところには、ドライランター公とゴルダネスハー伯の署名と印章の印影がしっかりと入っている。
こんなものがすでに用意されているということは、何のことはない、最初から用事を言いつけるために呼ばれたということにはなる。
これだもんなあ……とエルゴルはやるせない気持ちになったが、もはや引き受けざるを得ないのであればせめて飲めるだけ飲んでやると、秘蔵のウイスキーをしたたかに飲んでから寝室に引き上げ、翌日朝にドライランター公の屋敷を発ったのだった。
◆
交渉事となれば、できる限り情報を把握しておく必要がある。
連絡の行き来の関係で、コトがあった日はもうだいぶん前になってしまっているけれども、それでも聞き込みくらいはしなければならない。
エルゴルは部下たちの顔を思い浮かべ、その中からなるべく気の利いた、目端のきいたものを選ぶ。
あるいは偽装用に子供のひとりもいた方がいいかもしれない。
喧嘩やら魔獣退治やらをしに行くわけでもないから危ないこともなかろうし、そういう意味では観光旅行がてらにならんこともない。
兵団にいる孤児やらその世話係の女衆やらのうちで、前に遊びに行くときに連れて行ってやってなかったのは誰だったかなと思い出しながら選ぶ。
エルゴルの配下は、魔獣退治を専門にする兵団なので、旅の準備などは常にできた状態にあるから、人員を選んで集合をかければ集まり次第に出発できる。
そうしてすぐにファルブロール伯領に向けて、エルゴルとその配下の兵団は旅立った。
(……腰軽くバタバタ動くから用事を言いつけられやすいのかな?)とエルゴルは思わないでもない。
◆
エルゴル・セックヘンデは、身長が3メェトル以上もあって大きいし、腕が六本もあり、下半身は爬虫類で太い鉤爪があり、とても長い尻尾が生えている、というような異形なのでとても目立つ。
だから正体を隠して聞き込みをする、みたいなことには全然向かない。
そういうわけでエルゴルはファルブロール伯の屋敷がある街には入らず、街の手前にある街道沿いの森の中に野営した。
そうして自分以外の、兵団の部下たちを先に行かせて投宿させ、食料その他の物資を買わせたり、聞き込みをさせる。
部下たちが街の盛り場で聞いてくる証言はほぼ一致していて、ヘレットというどこぞの男が、娼婦のヨランダという女を無理に連れ出そうとして断られ、ヘレットは逆上してヨランダの顔をナイフで切りつけて大怪我をさせた、というものだった。ファルブロール伯からの手紙に書いてあったそのままである。
ただ新しい情報もいくつかあって、事件を起こしたヘレットを取り押さえたのは、ファルブロール伯の家臣のアリシアという大鬼族の女らしい。
エルゴルもだいぶん異形ではあれ、種族としてはいちおうオーガではあるが、故郷の大鬼族の里を逃げ出して以来、数えるほどしか同族のお仲間に会ったことはない。
ちょっと経緯があって、エルゴルはオーガの、特に女にはあまり良い印象は抱いていないので、あまり会いたくはなかったのだけれども、でも只人の街で暮らしているオーガというものには幾らか興味があった。
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そうやって何日か聞き込みをしていると、そのうちに、普通に誰何されて、探りを入れているのが相手さんにバレたし、そのときにファルブロール伯の屋敷で逗留するように言われたと部下から連絡がくる。
まあ証言はいくらか集まったし、相手方にバレたのであれば、仕方がないので、調査はあきらめて招待された屋敷に向かう。
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エルゴルは馬車を連ねてファルブロール伯の屋敷へ向かった。
とは言っても、エルゴルはデカすぎて馬車に乗れないから、一番前を歩いていて、馬車に乗っているのはエルゴルの部下たちだけだ。
案内してくれる執事に従って、屋敷の敷地をしばらく歩くと、屋敷の玄関で何人か固まって出迎えをしてくれているのが遠目に見えた。
その中にはひときわ背の高い人がいて、その人がおそらく大鬼族のアリシアさんだろうなと推測を付ける。
そしてアリシアさんを遠目に見たときから、あれっ? と思ったが、距離が近づいてはっきり見えるようになるにつれ、エルゴルは電撃が走るような衝撃を受けた。
アリシアさんも(エルゴルの見た目が異形なせいか?)エルゴルのほうをじっと見ている。
何が驚いたって、まず服を着ていた。
仕立てのいい暗色のズボンに、短めのきれいな革のブーツを履いて、上は袖口まで真っ白な長袖のブラウスに、上から丈の短い袖なしの上着を着て、前できれいな組み紐で留めている!
普通の大鬼族の女というものは、半裸で腰に毛皮くらい巻いていたら上等で、棍棒とか持っているのが普通だ。髪とかも汚らしく固まって、体は全体的に垢じみていて、そばに寄ると異臭がするようなものだ。
それがアリシアさんはどうだ!
顔も手も全く清潔で、肩口まである髪はしっかり整っていて、服も清潔で、ちょうど目の前まで来たところで、異臭がするどころか何だか良い匂いまでしてくる感じだった。
なんと表現するべきか。そう、彼女は全く文化的なのだった。
エルゴルはこんな大鬼族の女性(“女”ではなく、彼女は女性と呼ばれるに値する!)を見たことがなかった。
あまりの衝撃にエルゴルは何も言えずにただじっとアリシアさんを見つめてしまい、それから我に返って、とりあえず会釈をし、それからファルブロール伯とそのご家族に挨拶をする。
けれどもエルゴルの心は、アリシア嬢と出会った衝撃で、まったく上の空であったのだった。