ハーフオーガのアリシア18 ― 初めての対人実力行使 ―
「いまからくんれんをするわよ!」といっても何をするのか、お嬢様の言うことを聞いていると、どうも皆で、追いかけてくる魔獣とかから逃げるという設定で訓練をしたいらしい。
アイシャさんとコージャさんが馬車に乗り、ウィッカさんがそれを曳いて丘の上の広場を周回するように走る。
お嬢様が空を飛びながら指示をだして、アリシアは少し離れて馬車に追走する。
「ばしゃからぶきをふりまわすのよ!」とのことで、アイシャさんがメイスを、コージャさんが曲剣を振る。
コージャさんは身軽なもので、馬車の座席の上に立ち上がって、両手で剣を構えている。
アイシャさんは立ってはいられないのか、座席に座ったまま身をひねって、片手で馬車の手すりを掴んで、もう片方の手でメイスをぶんぶんと振り回していた。
両手で使うような長い武器を片手で振り回せるのは、さすがに力の強いオークの人だけある。
アリシアは馬車を後ろから追いかけながら、ちょっと両手を振り上げて「がおー!」などと言って魔獣の役でもしてみようかと思ったけれど、さすがに自分で自分を魔獣扱いするのは、あんまりにもみじめなので自重しておいた。
そうやって皆で少し走って、それから休憩で止まったところで、コージャさんが花でも摘むような何気ないしぐさで矢を二本、背中の矢筒から取り出して、背負っていた弓をひょいと手に持つと、ついついと軽く射た。
そしてぴょんと馬車から飛び降りると、矢を射た方へ歩いていく。
コージャさんがそこで拾い上げたものを見ると、野兎が二匹仕留められてあったのだった。
これはすごいとアリシアは思う。
アリシアも狩りで弓は使うこともあるけれど、大型の魔獣を狩ることが常で、野兎みたいな小さな獲物はほとんど狙わないから、そんなに精密な射撃をするわけでもない。
そうするとアイシャさんが、コージャさんの弓をじっと見ていた。
アイシャさんも弓を引いてみたいのかなと思ったけれど、コージャさんが、あんなにすごい腕前だと、弓の張り具合とかの感覚が狂うと嫌だろうから、あまり自分の弓を他の人には触らせたくないだろうなとアリシアは思う。
アリシアの弓なら適当な扱いでいいから貸してあげてもいいけれど、体の大きさが全然違うのでアイシャさんには使いづらいだろう。
どうしたものかとアリシアが思っていると、ウィッカさんが「アイシャさんもやってみます?」と言ってアイシャさんに弓を貸してくれた。
ウィッカさんは馬車につながっていて動けないので、アリシアがアイシャさんの背中側に回って、弓の扱い方を教えてあげる。
とはいっても、試しにちょっと引いてみてもらったけれど、アイシャさんの胸が邪魔すぎてどうも弦で払いそうでいけない。
上の段の右のおっぱいが弓の中に入ってしまう。
「危ないから弦を持った手は離さないでくださいね」とアイシャさんに断ってからどうするか考える。
ちょっと猫背になってもらうか、でもそんなぐらいじゃおっぱいが巨大すぎて意味がなさそう。
弓を射るときに、弓を返せば(回転させれば)なんとかなるかもしれないけれど、初心者がうまく返せるか分からない。
もう威力を犠牲にして、弓を引くのを耳までじゃなくて、顎までにするしかないか。
と結論をだしたところで、アイシャさんの弦を持つ手が外れてしまったらしく、ベシッ! という音がしてアイシャさんは「ぎえっ!?」という声とともにうずくまった。
あっ!? 大丈夫ですか! とアリシアが駆け寄ると、アイシャさんは弓を持ってないほうの手から白い光を出して治癒術を自分の胸にかけていた。
アリシアの面倒をみてくれていたオークの乳母のおねえさんも、そういえばアリシアが転んで膝をすりむいたりしたら治癒をかけてくれたなと懐かしく思い出す。
ひょっとしてオークの女の人はみんな治癒術を使えるのかなとアリシアは思う。
お嬢様もふよふよと飛んできて、アイシャさんの胸に治癒術の白い光を浴びせながら、
「アイシャにはクロスボウのほうがいいわね……」とおっしゃった。
◆
それから皆でお屋敷に帰って、そうしたらアイシャさんがクロスボウの練習をしたいと言ったので、お屋敷の人に武器庫からクロスボウを持ってきてもらって、練兵場で練習して、皆でそれに付き合った。
クロスボウは鉄ばねが結構きついものだったけれども、アイシャさんはクロスボウの先に取り付けてある鉄のわっかに足を入れると、さすがのオークの力で滑車も使わず両手で弦を引いてしまう。
クロスボウは簡単だから、ちょっと練習すればアイシャさんもすぐに上達して、わりと的に当たるようになった。
アリシアも自前の弓でちょっと的当てをやってみたけど、ちゃんと当たっていて、最後に狩りにでてから弓には全然触っていなかったけれど、腕は落ちていないようで少し安心する。
そうしたらお嬢様が「うごくばしゃのうえからでもあてられるようにするわよ!」とかおっしゃったので、またウィッカさんに馬車を曳いてもらって、アイシャさんとコージャさんが馬車に乗って、ウィッカさんが馬車を蛇行させて、そこから弓やクロスボウを撃つ。
コージャさんは的に余裕で当てていたけれど、アイシャさんは全然当たらなくて、また要練習ということになった。
そうしているうちに日が暮れてきて、メイドのエルザさんがご飯に呼びにきてくれた。
エルザさんは今日もキリッとしていてきれいだ。
◆
練兵場から皆で車庫まで行って、ウィッカさんの馬車と馬具を片して、それからお屋敷に入る。
入り口のホールのところで、アイシャさんに抱っこされていたお嬢様が浮かび上がって、エルザさんのほうに飛んでいって抱っこされる。
そこで皆わかれて、アリシアも部屋に戻って装備を外し、腕輪にしまい込む。
お嬢様の家臣一同で晩御飯を食べるいつもの食堂に行くと、もう配膳が始まっていた。
遅れてすみません、とか言いつつ、テーブルにカトラリーやグラスを配置しているコージャさんとアイシャさんにも挨拶をしてから、配膳の手伝いに加わる。
いくら何でも重武装だから鎧やら外すのに手間がかかるんだよな、だからいつも遅れるんだ、とアリシアは思う。
ワゴンのところにいたウィッカさんにも挨拶をして、遅れてすみませんと言うと
「いま始めたところですよ」
とサラダの入った大きなガラス製のボウルを持ったウィッカさんが言ってくれた。
そうしてウィッカさんはテーブルのほうに歩み寄ると、サラダボウルを置いてから、またワゴンのほうに向き直る。
ウィッカさんが後ろを向くと、馬部分のお尻がこちらを向くので、強烈に馬感があって、室内の風景と相まって奇妙な感覚になる。
思わずじっと見ていると、ウィッカさんは人間部分の上半身をグッと前に倒し、床と並行かそれ以上になるくらいにしてから、手を伸ばしてワゴンの下段から、パンの入った籠を取り出して、それからまた胴体を垂直に戻した。
ケンタウロスの上半身ってこんなに前に倒せるのかとアリシアはびっくりしたが、考えてみれば、上半身が前に倒せないと、床に物を落としたら拾えないわけで、ケンタウロスの体がそういうふうになっているのは当然かもしれない。
今日のメニューはエビの入ったグラタンと、玉葱のスープに、サラダにパンだった。
ひと通りの配膳が終わってから、ちらりとワゴンのほうを見るとおかわりが入っているらしきパン籠やサラダボウルや鍋がいっぱいあって、自分たちはオーガにオークに体が半分馬のケンタウロスだから、そりゃ食べる量も尋常じゃないよなと、自分たちが食費でご領主さまの財政に打撃を与えていることをアリシアはすこし申し訳なく思ったのだった。
アリシアの席の横の、昨日までは誰も座っていなかったところに、皿やグラスやカトラリーが新たに配置されていて、そこがどうやらウィッカさんの席らしかった。
彼女の椅子はどうなるんだろうと思ったら、見るとそこにはただ長方形の厚手の布団のような布が敷いてあるだけで、椅子も何もなかった。
長持ちを積み重ねて布をかけたものを椅子にしてあるアリシアより、なお簡素とも言えるかもしれない。
ウィッカさんはその布の上に来ると、そのまま器用に脚を折ってその場に座り込んだ。
そうやって馬部分を腹這いにして床に座るようにしても、馬部分の胴体が大きいのか、テーブルに比べてまだ少し体が高いようで、ちょうど普通の人ならばテーブルの前で立っているような感じの高さになっていた。
ちょっと食べづらかろうけれども、まあ仕方がない。
アリシアは机の高さに合わせるために妙に低い椅子(というか長持に布をかけたもの)に座っているし、アイシャさんは、お腹にも大きなおっぱいがついているせいで、つっかえるから、座っている椅子の位置が妙に机から離れている。
只人達のあいだで、只人と体のつくりが違う人種が暮らすのには不便があるものだ。
◆
食事が済んで、デザートのアイスクリームを暖かい珈琲で食べるという贅沢をしながら、皆で談笑して、アリシアは、ドーラさんがいつものように夜の見回りに行くのに、迎えにきてくれるのを待っていたのだけれど、いつまでたっても来てくれなかった。
段々と時間が遅くなってきて、不安になったアリシアが、どうしましょうと皆に相談すると、アイシャさんが
「もうお嬢様をお風呂に入れないといけないし、ついでにお嬢様に聞いてくるわ」
と言ってくれた。
悪いけどあとお願いね、とのことでアイシャさんはそのまま行ってしまい、残った三人で片づけをしながら待っていると、メイドのエルザさんがやってきて
「たぶんドーラ様が勘違いなさっているようで、お一人でもう出てしまわれたようですから、アリシア様も今夜はお一人で見回りをしていただければとのことです」
と、お嬢様からの伝言をくれた。
そう言われたので、アリシアは片づけを終えて、挨拶もそこそこに、慌てて部屋に戻る。
本当にわずかばかりの仕事しかないのに、それも無くなったら困ってしまう。
ていうかアリシア様ってなんなんだ。
なんでエルザさんは自分を様付けで呼ぶんだろうかとアリシアは疑問に思う。
部屋に戻ると急いで装備を着ける。
胴体だけ綿入れと胸甲を付けて、剣帯を締めて、左腰に片手剣、右腰に戦斧、腰の後ろに大ぶりのナイフを二振りつけて、お嬢様に頂いたマントを武器類を隠すように身に着ける。
それからヴルカーンさんからもらった帽子のうち、派手じゃないほうを付けて、アリシアは屋敷を飛び出した。
お屋敷のある丘を駆け下りて、暗くなった夜道を急ぐ。
そうしてアリシアが、街に向かってひとり走っていると、急に不安が頭をもたげてきた。
昨日までは、喧嘩をしている人なんかがいたら、ドーラさんが、宥めたり脅したり殴ったりして、アリシアはそれの手助けで抑えつけたり引き離したり抱え上げたりしてただけで、自分だけの判断で、そういう仲裁とかをやったことはない。
アリシアだけで何かを言っても相手の人が聞いてくれるだろうか。
引き離すくらいはいいとして、勝手に殴ったりしていいんだろうか。
後で怒られたりするかもしれない。
歩きながらそんなふうに考えるうちに、段々と不安になってくる。
こういうふうな不安は、家で父親と一緒に狩りをしてたときには感じなかったようなことだなとアリシアは思った。
◆
思い悩んだところで、走っていればそのうち目的地についてしまう。
いちおう街のすこし手前で走るのをやめて、何食わぬ顔してゆっくり歩きながら街に入る。
ドーラさんがその辺にいないか、目で探してみるけれども見当たらない。
昨日と一昨日で挨拶したお店に探しに入ってみるか。
でも夜が来たらもう店にお客さんが入ってるから邪魔しちゃだめとも言われている。
それでアリシアは、どうしたらいいのか分からないまま、なんとなく歩く。
そうしたら酔っ払ってるらしき大声で口論してる人たちを見つけたので、彼らの肩を掴んで、なるべく平坦な声を出すよう気を付けながら
「仲良く遊んでくれます?」
と言うと
「へ、へえっ!」
「も、もちろんでさ!」
と快く?いうことを聞いてくれた。
それからちょっとした揉め事みたいなのをもう一回見つけたけれど、これもお願いしたら聞いてくれた。
脅すようなやり方は……良くないなとアリシアは思うけれど、でも他にどうしたらいいのか分からない。
こういうやり方はアリシアがオーガだからできるのであって、つまり自分が只人に与える威圧感が、確かにオーガであるとアリシアに痛感させるので、仕事がちゃんとできたのはいいものの、アリシアの気分は沈んでしまうのだった。
そうこうしているうちに時間は過ぎていったけれども、見回りをいつまでやればいいのかアリシアは知らなかったので、長めにやれば怒られないだろうと、かなり遅い時間まで粘っていた。
それに、どこを見回りするかとかの道順なんかもドーラさんが決めていて、アリシアはただそれについていくだけだったので、これもアリシアはよく分かってない。
それでアリシアは、当てもなくふらふらと見回りをするうちに、夜中の遅い時間に街の外れにまでやってきたのだった。
最初にアリシアは人の、男の人の叫び声のようなものを聞いた気がした。
それで、何かあったのかと思って声のした方に走る。
街路を抜けて、するとアリシアは、なんとなく宿屋みたいな雰囲気がある建物の前の、広場のようになっている場所に出たのだった。
周りを見回すと、あたりの建物の窓から人がたくさん身を乗り出していて、アリシアのいる広場のほうを見ていて、それはいいのだけれど、彼ら彼女らはなぜか裸だったり、布を一枚身に纏っただけだったりしていた。
街灯と建物の窓の薄明りのなかを、夜目のよく効くオーガの目で、こちらを見ている彼ら彼女らを視界の端で見ながら、あの人たちはなぜ服を着ていないんだろうとアリシアは疑問に思った。
そして、広場に面した石造り建物の壁の前に、金髪で立派な服を着た男の人が立っていて、その金髪の人は、なぜか裸の女の人を抱え上げていた。
広場のまわりにも人がたくさん集まっていて、その金髪の男の人を遠巻きにしている。
こちらの人たちは、上の建物の窓から広場を見ている人たちと違って、ちゃんと服を着ていた。
そして金髪の男の人の足元あたりに、こっちは黒い髪の地味な服を着た男の人が這いつくばっている。
黒髪の男の人のほうが、ガバリと顔を上げて「返してください!」と叫んで、金髪の男の人の脚にすがりついた。
すると金髪のほうが黒髪のほうを無言で蹴飛ばしたかと思うと、手から赤黒い光球を出して追い打ちのようにぶつけた。
ボン! と音がして光球が爆発して、黒髪のほうの男の人が吹き飛び、もんどりうってゴロゴロ転がって倒れて動かなくなる。
アリシアは、いくらなんだってこれはダメだと思って、間に割って入った。
すると「なんだてめえ!」と金髪が言って凄んで、今度は赤い光球をアリシアに向けて飛ばしてきた。
反射で光球を殴って危ういところで消す。
消したらまた赤いのが二つ飛んできたのでこれも殴って消す。
これはもしかして攻撃されてるんだろうかとか、ここからどうしたらいいんだろうとか、考えていると
「その子を助けてやってくださいまし! 連れていかれちまうよ!」
という、おばちゃんらしき声が遠巻きにしている人たちのあたりから聞こえてきた。
そう言われて、金髪に抱えられている女の人を見ると、なんだかこわばった顔でガタガタ震えていて、あんまり駆け落ちとかそういう感じでもなさそうに見える。
いちおう確認としてアリシアは「誘拐されてるの?」と聞いてみる。
すると、その女の人はあえぐように「たすけて!」と叫んだ。
そうしたら金髪が「こいつ……!」と言って腰のあたりからナイフを抜く。
そのナイフで襲ってくるのかとアリシアが身構えたら、なんと金髪は、アリシアに襲い掛からずに、ナイフで自分が抱えている女の人の顔を何度も切りつけ
「これでこんな仕事はもうできなかろうよ!」と大声で言った。
何が起こったのか理解できなくてアリシアが呆然としていると、切りつけられた女の人がぞっとするような叫び声をあげる。
アリシアが我に返ると女の人の顔が血まみれになっているのが見えた。
なんだこいつ!? なんだこいつ!!
頭の中が沸騰するような気がしたかと思うと、同時にひたすら頭のなかが冷えていくような感覚があって、何かを考える前に本能的にアリシアは金髪のやつに向かって襲い掛かっていた。
時間が引き延ばされたような感覚があって、凍り付いたように皆が動かないなかで、アリシアは爆発するように突進して金髪のやつの顔に向かって拳を突き出す。
けれども、このままいったら多分金髪のやつの首が折れて、頭も無くなって殺すんだろうなと思って、危ういところで肘を曲げて、二の腕から体当たりするようにして吹き飛ばした。
その瞬間に放り出された女の人を抱き上げて確保する。
アリシアの体当たりに反応できずに、まともに食らった金髪は、すっ飛んでいって壁にぶち当たって動かなくなった。
それからアリシアは抱き上げている女の人の様子を見てみたけれど、顔に大きな傷がいっぱいあって、血まみれなので傷口がどうなっているかもよく分からない。
どうしよう、どうしよう、と焦るばかりでどうしたらいいか分からない。
きょろきょろとあたりを見回して「誰か……」と言ったところで
「奥方様に来ていただけ!」と誰かが叫んだ。
誰かお屋敷に走れ!という声が聞こえて、男の人が三人ばかり走っていくのが見えた。
それからおばちゃんたちが何人か駆けつけてくれて、布で女の人の傷を押さえたりとか色々してくれた。
そうしたら「まだ動いてる!」という恐怖に満ちた叫び声が聞こえて、何事かと見ると、女の人をナイフで切りつけたあの金髪がもぞもぞ動いて立ち上がろうとしているのだった。
アリシアは、どうしたものかと迷ったけれど、やっぱりあの金髪は危ないので、走り寄ってお腹のあたりを加減して蹴飛ばす。
ぐぼっ、とかいってゲロを吐いて金髪のやつはまた動かなくなった。
あの金髪はあんまり強くはないように思うけれども、あんなのでも普通の人にとっては危険なんだと思うと、普通の人でいるというのはなかなか大変なものだとアリシアは思った。
やがて怪我した女の人の顔にとりあえず細く割いた布を包帯にして巻いて、皆で抱えて宿に運び込むことなったのだけれど、アリシアもついていこうとしたら、周りのみんなに、あの金髪の男が目を覚ますと怖いので、見張っていてくれというようなことを、やたらと丁寧な言い方でお願いされてしまった。
女の人のほうが気になるけれど、そう言われてしまったら仕方がない。
いちおう腰に付けてあった手斧を持って、金髪の奴を監視する。
そうしてアリシアは自分の暴力の結果を見つめた。
金髪の奴は、ゲロを地面に流しながら、横たわっている。
服はすこし破れて泥にまみれていて、体がわずかに上下しているので息はしているようだった。
こうして見ると、アリシアはこれを自分がやったとは信じられないような気がするのだった。
人を殴ってはいけない。
暴力を振るってはいけない。
威圧的に怒鳴ったり喚いたりしてはいけない。
簡単に不機嫌になってはいけない。
穏やかな物腰でいなさい。
人には優しくしなさい。
こんなふうな父親の教えを、たった今アリシアは破ったわけだけれども、もちろんそれには事情があって、そのことを後悔はしていない。
けれどもその結果として人が一瞬でボロボロになってしまったという事実に、アリシアはびっくりしてしまったのだった。
やがて馬蹄の音が何頭ぶんか聞こえてきて、見ると馬に乗った奥様が先頭で、お供を三騎(全員が女の人だった)引き連れて、道の向こうからやってくるのが見えた。
奥様は馬をアリシアの前まで寄せると、ひらりと飛び降りて、地面に横たわっている金髪のほうを見ながら
「それがあの男ね」とおっしゃった。
アリシアがはいと答えると、奥様が追いついてきた女の人たちに「拘束して」と言い、女の人たちがあっという間に金髪の奴の全身を太い鎖で縛りあげて、目隠しと猿轡までしてしまう。
「じゃあ怪我人を診てくるわ」と言って奥様は宿屋の中に、お供の二人の女の人たちと一緒に入っていかれた。
残った一人の女の人がアリシアの横に来て、どうやら金髪のやつを監視するのを手伝ってくれるようだった。
「大変だったわね」と彼女は言ってくれたので、
「はい、ありがとうございます」と答えはしたものの、実際のところアリシアは、金髪の奴を倒すのがまったく大変ではなかったことに衝撃を受けていたのだった。
熊なんかが人間を襲って食べてしまうと、人間が実はそんなに強くない動物だと、熊に分かってしまう。
だからそうなった熊は何としても殺さなければいけない。
アリシアもそういう熊を実際に駆除したことがある。
だからアリシアは自分もそんな熊みたいな立場なんだなと、ぶるりと身震いをしたのだった。
考えてみればアリシアが日常的に狩ってきたような魔獣より大体の人は弱い。
アリシアはより一層、自重しなければいけないなと自分に言い聞かせた。
◆
やがて治療が終わったのか、奥様とお付きの女の人たちが宿から出てきた。
顔を怪我した人はお付きの人に抱きかかえられていて、どうも眠っているみたいだった。
そばに寄って顔を見てみると、さっきまで大きな傷がいっぱいあって、あんなに血もいっぱい出ていたのに、今はもう包帯は取ってあって、血も出ていない。
奥様の治癒術はすごいものだなあとアリシアは感銘を受けた。
けれども、顔にはまだ痛々しい大きな傷跡がいくつもある。
それで思わずアリシアが顔をしかめると、奥様は金髪のやつのほうに顎をしゃくりながら
「あの男の上の方にねじ込まないといけないからね。話が済むまでは証拠を残さないといけないのよ。
賠償金とか取って全部終わったら、きれいに治すわよ」
と言ってくださった。
奥様のお付きの人の馬の一頭に、金髪の奴を、頭と足を鞍の左右に振り分けるようにひっかけて縛って固定する。
それで乗る馬が無くなった人は別の人の馬に二人乗りをする。
怪我をした女の人については、眠っているので馬には乗せられないから
「悪いけどあの子を抱っこして運んでくれるかしら。しばらくウチで預かるから」
とアリシアに奥様がおっしゃった。
それから「じゃあ帰りましょうか」と奥様がおっしゃって皆で帰途についた。
帰り道で奥様はアリシアに、良くやってくれたわね、と褒めてくださったけれど、暴力行為をはたらいたせいなのか何なのか、アリシアは妙に気分が沈んで疲れてしまった。
それで、お屋敷の自分の部屋に帰ると服を脱いで寝間着に着替えて、お風呂にも入らずに、深く寝入ってしまったのだった。