file4:夏の日差し
転校ばかりで自転車を買ってもらえず、乗ることができなかった千博とカナヅチの貫太郎。そこで帰りの電車内でふたりは互いに先生となって教え合う秘密の約束をした。
月曜の朝、黒板に相々傘は書かれていなかった。いつもと変らない六年一組の雰囲気がそこにあり、唯一異なるのは鈴原のいない机だけだった。
予鈴が鳴る間際になって、ようやく鈴原は教室へ入ってきた。遅くても八時十五分には登校してる彼女にとって、それは珍しかった。忙しそうにランドセルに詰め込まれていた教科書やノートを机の中へとしまっていた。
「おはよう」僕は遠慮がちに挨拶した。
すると「おはよう」とひと言だけ返ってきた。鈴原はペンケースの中を覗き込んだまま、なかなかこちらを見ようとはしなかった。金曜日までのもめごとを引きずっていたわけではない。それでも親しく接する事の出来ない見えない壁のようなものが確かにあった。僕らは先週にもましてよそよそしくなってしまった。
僕は水泳の特訓を自分から提案したものの、依然として学校の授業は見学していた。明らかに皆の泳ぎは去年に比べて上達していた。ガリ勉で運動音痴の望月でさえバタ足の練習を始めていた。もはや蹴伸びの練習をしている生徒は誰もいなかった。恥をかきたくない気持ちと、どうにかして上手くならなければという焦りが心の中で葛藤を生んでいた。早く土曜日にならないだろうか、と僕はもどかしく思った。
不運にも初めての練習日は雨となり、プールに入れたのはさらに7月に入った次の土曜日だった。
鈴原は僕にバタ足の練習からさせた。脚をピンと伸ばした状態でモモを縦に動かす。このとき、ヒザを曲げてはいけないらしい。一見簡単にも思えたそれは実際にやってみるとやはり一筋縄ではいかないことがわかった。すぐにモモが疲労で動きが鈍り、元気よく上下させる事が困難になってしまったのだ。
「これが上手くならないとバタ足だけでなく、クロールもできないんだ」
予想していたよりずっと、鈴原の教え方は丁寧で優しかった。最初の十分がバタ足の特訓、その後で毛伸び、さらに息継ぎの仕方。もっと乱暴に叱り罵ると思っていただけに意外だった。僕はプライドを気にせず練習に集中する事ができた。それが上達の一番の理由かもしれない。
鈴原から教えられ、段々と泳ぐ事が面白くなってきた僕は土曜だけでなく、平日も自分だけで市営プールに足を運んだ。自分ひとりで練習していると、緊張感のなさというか物足りなさのようなものはあった。ただ、今度の土曜日に彼女を驚かせてやろうという思いが強く、途中で放り出すことはしなかった。
終業式なり、通知表を手にした僕の腕は早くもこんがりと小麦色になっていた。さらにこの頃にはバタ足で二十五メートルを泳ぎきる事が出来るようになっていた。息継ぎも歪だがなんとかこなせた。
夏休みに入ると鈴原との練習はさらに増えた。学校の水泳教室が終わった平日の午後から僕の特訓に付き合ってくれた。面倒なはずなのに、決して不平を口にしなかった。彼女の肌はすぐに僕よりも濃い褐色となった。
ラジオ体操にも行かず、クーラーの効いた部屋の中で怠惰に過ごしていた去年がもったいなく思えてしまう。これまでの自分からはとても想像できない毎日だった。
まだ序盤だが、今年の夏休みに僕は満足していた。
こうして何事もなく移動教室が終わり、クロールを少しずつ覚え始めた八月第一週目の土曜日。僕は鈴原から海へ行かないか、という誘いを受けた。祖父の代から東京生まれの東京育ちで、実家が田舎にないのだと話したのがきっかけだった。
遠浅の海で波も高くなく、家の近くの林にはカブトムシも手に入るという。そして何よりもそこには泳ぎの先生である鈴原がいるのだ。
やはりタロウのことが頭を過ぎったが、それでも僕は断ろうとは思わなかった。もう五年も昔の話だ。前に進まなければいけないという気持ちが僕の中で強く育っていた。もしかしたら泳ぎが上達して自信がついたのかもしれない。いずれにせよ、これが苦手なものを克服できる絶好の機会だと承知していた。
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