file3:秘密の約束
鈴原千博に誘われ、市民プールに入った主人公の貫太郎。最初は恐る恐るであったが、徐々に水に慣れ、楽しく遊ぶことができた。そして帰り道、千博は自分の弱点を打ち明けた。彼女は自転車に乗れなかった。
鈴原が自転車に乗れないのは父親の仕事に関係していた。彼女がこの小学校へ転校してきたのは四年生の二学期のことで、それまでは数ヶ月で転校を繰り返していたらしい。短い期間で引っ越しをしていたため、かさばる荷物は邪魔だった。だから自転車を買ってもらえない鈴原は乗り方を知らなかったのだ。
燃えるような紅は終わりを迎え、唯一西の空の一部が薄桃色に染まるだけとなっていた。黄昏時は静かに消えていく。夕闇が夜をつくるその一瞬の光景を僕らは帰りの電車から眺めていた。
僕は帰りたいような、それでいてずっとこのままでいたいような気持ちだった。今別れて月曜日になれば、また以前と同じような付き合いに戻るのだろうか。口を聞かないよりはずっといい。そう言い聞かせても、どこか満足していない自分が胸の中にいた。僕は欲張りになっていた。
ドアにもたれた鈴原は外の景色を見つめながら僕を試すように言った。
「さっき、滑り台の所で吉田と佐野を見たんだ。月曜の朝、噂になってるかもね」
横目で探られた僕は『そんなこと気にするな』と強がって答えたが、内心ではまるで自信が持てなかった。何も考えずに黒板に書かれた相々傘を目にしたら、とる態度も違うはずだ。きっとムキになって否定して、鈴原と口喧嘩をするに違いない。その点では未然に防げて良かったのかもしれないと思えた。
答えに満足しなかったのか、淋しげに笑った鈴原に僕は焦った。
「なあ、提案なんだけどさ。競争しないか」
「競争?」
「あの……ほら、水泳だよ。俺が水泳で、お前は自転車。それでどっちが早くできるようになるか競うんだよ」
互いに教え合おうと補足した。とっさに思い付いたにしては上出来だと、自分でも感心したが、期待していたほど鈴原の反応は良くなかった。
言い辛そうに鈴原は口を開いた。
「私、自転車持ってないから」
そうだった、と僕はあらためて鈴原が乗れない原因を再確認させられた。しかし、それだけの理由で断念してしまうには、あまりにもったいないような気がした。もしかしたら泳げるようになるかもしれないのだ。
「俺の自転車を貸すよ」
「でも……壊れるかもしれないよ?」
「壊れたら直すよ。修理は得意なんだ」
それでも競争は嫌だと鈴原は言ったので、結局は僕が泳げるようになったその後で自転車の練習をすることになった。要するに僕がカナヅチのままでは、ずっと鈴原は前に進めないのだ。大きな責任を感じたが、何故かこのときは成し遂げられると思っていた。緊張さえとれれば絶対に泳げるようになるという鈴原の言葉が勇気と自信を与えていたのだ。
駅も間近になって鈴原は小さく頷いた。納得したように何度か繰り返していた。
見ると窓の外はもはや暗闇に包まれていた。そして徐々に電車の速度が落ちていった。僕は気恥ずかしさをおさえ、ホームの蒼白い光が現れるのを待った。
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