file29:ヒゲのない猫
千博が町から出て行くと聞かされ、逃げ出した貫太郎。そしてふたりの結末は……
早熟の桜が咲き始めた三月。僕達の卒業式は行われた。
これで長かった小学校での生活が終わる。生徒会長の答辞を聞きながら、主役の一人であるはずの僕はいまいち実感をもてずにいた。
確かにこの学校で授業を受けることはない。しかし、十人のうち七人は同じ中学校へと繰り上がるのだ。残りの三人にとっても、別の学校生活が用意されている。そんな通過儀礼でしかないはずの式が、とりわけ切なく思えるのは、きっとそれぞれに大切な別れが用意されていたからだろう。また、そうでなくても、ただ雰囲気に流されただけでもいい。はやしたてる男子にもめげず、涙を流せる女子を僕は羨ましく思えた。
突っ張って我慢していたからでも、空気に乗れなかったからでもない。僕が泣けなかった理由は悲しみや寂しさ自体をそれほど感じていなかったからだ。
僕は未だに別れを認められずにいた。だから、奪ってしまおうと考えた。往生際が悪いかもしれない。それでも今度こそ、鈴原を連れて遠くへ逃げてしまおうと決めていた。
みんなが集まる場には出られないとわかっていたので、僕は前もって手紙を送った。あらためて自分の気持ちを文章にして、放課後の教室で待っていると綴った。待ち合わせの時間は四時。クリスマスのときと同じだった。
もちろん捕まってしまったらおしまい。それ以前に鈴原が教室に訪れなくても、冒険は終わってしまう。僕にとって、これは最後の賭けだった。
誰もいなくなった教室で僕は約束の時間が来るのを待った。校舎内はシンと静まり返り、廊下を歩くだけでその靴音が同じ階全体に届く。自分の席に座り、空になった机や『卒業おめでとう』と太く書かれた黒板の文字を眺めていた。
僕は目を閉じた。遠足や運動会、それに学芸会。昨日までは窮屈で退屈な毎日に感じたが、こうしてみると、そうでもなかったように思えた。まだ感慨を覚えるとまではいかない。それでもあと十年、二十年後に振り返れば、きっとセピアがかった写真を切なく思えそうな気がした。そのとき、傍らに彼女がいてくれたら。そうあって欲しいと僕は望んだ。
新しい生活。僕達ふたりの旅は大人達を渋々納得させた。
そして相変わらず平凡な毎日が待っていた。
朝、待ち合わせていた鈴原と同じ中学へ向かう。他愛もない話に笑い、ときにつまらないことで喧嘩もする。
本当に単調な日常。変わったことといえば、お互い制服姿になったことと、通うところが小学校から中学校になったくらいだ。
だが、それが僕には心地よかった。何よりも掛け替えのないものだと気付いたのだから。
ふと、目を開けると夕暮れ時で、青かった空はすでにオレンジがかっていた。まだ卒業式の放課後だった。
眠っていたことを知った僕は慌てて教室の時計を見た。
四時三十分。時間は過ぎていた。
夢があまりに幸せだったため、僕は与えられた現実を容易に直視できなかった。しばらく呆然としていた。
勝負は終わったのだ。鈴原は来なかったのだ。何度、言い聞かせても、痛みも悲しみも生まれなかった。まるで心が乾いてしまったように思えた。
ただ、一方で不思議な感覚が存在していた。ひんやりとしていたはずの教室が、少しだけ暖かくなった気がしたのだ。それにどこか覚えのある匂いが残っていた。花の香り。鈴原の匂いだと気付いた。
教室中を見渡した。教壇の裏、ロッカーの一つひとつを探した。それでも、見つからなかった。
僕は罪悪感を感じながらも、掃除の用具入れのドアを開けた。
見慣れた箒が四つにバケツとちりとり。やはり、そこには誰もいなかった。
つまらないことをしてしまった。溜め息しか出ない僕は今、どんな情けない表情をしているのだろう。
フラれた男の顔を想像しながら、僕は自分の座っていた椅子を戻そうとした。そのときだった。
「これは……俺のノート」
机の中に一冊、使い込まれたノートが入っていた。ひと目でわかった。鈴原にあげたはずの僕のノートだった。
どうしてこんなところにあるのか。考えが追いつかないまま捲っていくと、その答えは最後のページに載っていた。
ありがとう。 私も石井のことが好きです。
ページの隅に控えめに書かれた小さな文字を僕は指で擦ってみた。夢でも幻でもない。何度擦っても、決して滲まなかった。
つい先ほどまで、この教室に鈴原がいたのだ。そのことを知った僕は窓に駆け寄り、急いで内鍵をはずした。
窓を開けた瞬間、目をつぶるほどの冷たい風が桜の花びらとともに入ってきた。もう日は西に落ちかかっていた。僕は目を凝らして、校庭中を探した。
誰もいないひと気のない校庭。厚手のコートを着た少女が校門を出ようとしていた。遠く、後姿だけだったので、確信はもてなかった。それでも、僕はいてもたってもいられなかった。
「鈴原、俺もお前が好きだ!」
角を曲がり、消えてしまいそうな背中に僕は命一杯の声を張り上げて叫んだ。
もう間に合わないだろう。それでも追いかけたい。
僕は鈴原に会いたくて、走って教室を出ようとした。
ドン!
勢いよく廊下に出たところで、僕は人にぶつかってしまった。「キャッ」という小さな悲鳴が聞こえたから、女子であることは疑いなかった。
慌てて距離をとり、誰だったのかを確認した僕は次の瞬間には声を失った。途端に身体が硬直してしまった。
目の前に立っていたのは鈴原千博本人だったのだ。
鈴原は言いずらそうに口を開いた。
「あの、ヒゲを書き足すのを忘れちゃって」
僕の大声が聞こえていたのだろう。鈴原の頬はすでに赤く染まっていた。そして僕の顔も赤くなった。
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